説    教     アモス書3章7〜8節   ヨハネ福音書3章31〜36節

「三位一体なる神」

2011・10・16(説教11421399)  始めてからもう10年以上が経ちますが、毎月一度ずつ同志の牧師たちが集まって「教父研究 会」という集まりを開いています。現在はアウグスティヌスの著作の中から詩篇の講解説教を共 に学んでいます。その学びの中で改めて思い知らされたことがあります。それは今まで日本の教 会に欠けていた大切なものに三位一体なる神に対する讃美・頌栄という礼拝の姿勢があるのでは ないかということです。説教はもちろん祈りの言葉ひとつを取ってみても、私たちの信仰の言い 表しは古代教会から受け継がれてきた慰めに満ちた信仰の表明から以外に遠く離れてしまって いる部分があるのではないかと思うのです。  たとえばそのことは、いま私たちの教会の週報でもしていることですが、宗教改革時代の代表 的な神学者たちの「祈り」を読んでもわかります。改めて驚くことは、どの祈りも必ず三位一体 なる神に対する信仰告白の姿勢、讃美頌栄の言葉に貫かれていることです。「神は父なる神とし て世界を創造され、御子なる神として我らを救い、聖霊なる神として教会をお建てになった」。 それはそのまま神の御業における「過去・現在・未来」を現しています。自分が「祈りの言葉」 を作っているのではなく三位一体なる神の御言葉が「祈りの生活」を生み出しているのです。そ のことはキリスト者としての生活の基本姿勢にも繋がります。主イエス・キリストに贖われた私 たちの歩みはいかなる場合にも孤独な旅人の歩みではありません。自分自身を見て落ち込んだり、 逆に自惚れたりする者の歩みではありえない。私たちが教会に結ばれることは三位一体なる神と の永遠の交わりの内に生かされていることです。そのとき私たちの人生はいつも確かな御国への 歩みとして整えられ導かれているのです。その恵みの力は私たちの弱さや破れの中でこそいっそ う力強く私たちを支え続けるものです。  このことについて、宗教改革者ルターの有名な逸話を思い起こします。ルターが行った教会改 革は前例のないものであり非常な困難と苦しみがありました。しかしその困難の中でルターがい つも拠りどころとしていた慰めは「私は洗礼を受けている」というひとつの事実でした。それこ そ洗礼は三位一体なる神の御名において授けられる新しい生命そのものだからです。洗礼を受け る人(受洗者)はまず使徒信条とニカイア信条によって三位一体なる神への信仰を告白します。 そして牧師は「父と、子と、聖霊の御名によりて、われ汝にバプテスマを授く」と宣言し、受洗 者の頭に水を注いで手を置きます。単なる形式ではありません。この洗礼によって受洗者は三位 一体なる神との永遠の交わりの内に入れられるのです。三位一体なる神が永遠の昔から全人類の ために備えて下さった完全な救いの御業、罪と死からの贖いと甦りに受洗者はあずかるのです。 「われは身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白されている事柄が現実にその人に起こる のです。「死ぬべきもの」(私たちの存在)が「死なないもの」(キリストの義)を着るという出 来事です。主イエス・キリストが十字架において成遂げて下さった永遠の救いの出来事が洗礼に よって教会の枝とされた者の全存在を覆い囲むのです。私たちはこの出来事を堅く信じる群れで す。  そこで、バプテスマのヨハネ(洗礼者ヨハネ)は今朝の御言葉ヨハネ伝3章33節においてイ エス・キリストを「神の子、救い主」と信じる者たちの幸いを「しかし、そのあかしを受けいれ る者は、神がまことであることを、たしかに認めたのである」という言葉で言い表しています。 この「神がまことである」という表現は「神は私の救いである」という信仰告白の言葉です。私 たちはイエス・キリストのみを「主」と告白することにより、三位一体なる神が永遠の昔からこ の私のために備えて下さった「救いの出来事」を信じ告白するのです。それが33節の最後に「た しかに認めた」とある御言葉の意味です。そこで、そもそも私たち人間存在のどこに「たしかに」 などという言葉が入りこむ余地があるでしょうか。確かなものなど何ひとつありえないのが私た ち人間です。それは信仰においてこそなおさらそうなのです。見える事柄に「確かさ」が何もな い私たちは、見えない事柄にはなおさら「確かさ」などありえません。それでさまざまな宗教で は「信心」ということを言います。「信心」とは読んで字のごとく「信じる心」のことです。私 たちの心の状態のことです。私たちの「行い」のことだと言い換えても良いでしょう。つまり神 を信じる私たちの心の状態が「強い」か「弱い」か、それが問題であるというのが「信心」です。  人間はそのままでは「弱い」心しか持ちえませんから、そこにおのずと修行が求められます。 弱い心を強める「行い」が要求されます。それが「信心」が「行い」である理由です。だから「信 心深い人」とは修行を積んで信じる自分の心を強くできた人のことです。そうでない人は残念だ が救われないというのが常識一般における「救い」です。しかしそれでは結局は誰一人として救 いを得ることはできません。私たちは「信心」を重んじる群れではありません。私たちが信じる もの、拠り頼むものは、信じる自分の心の「強さ」などではなく、信じられるべきかたであるイ エス・キリストのみだからです。だからキリスト教では「信心」ではなく「信仰」と言うのです。 「信仰」とは「信じて仰ぐ」と書きます。つまり大切なのは私たちの心の「強さ」「弱さ」など ではなく、私たちがいまどなたを信じ仰いでいるのかということです。「イワシの頭も信心から」 は聖書の信仰ではありません。信じて仰ぐかたが本当の「救い主」でなければいくら熱心に信じ ても虚しいのです。主イエス・キリストは私たちを極みまでも愛し、私たちのために十字架にか かりご自分の生命まで献げて下さった本当の救い主であるからこそキリストを信じて仰ぐこと により私たちは「確かに」救われるのです。「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛 して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨ ハネ伝3章16節)。  以前から、とても気になっていることがあります。これはもしかしたら日本の教会に特有な現 象なのかもしれません。ずいぶん信仰歴の長い人であっても簡単に教会生活から離れてしまうこ とがあるのです。外国の教会にはあまり例のないことだと思います。なぜそういうことが起こる のかと言えば、それはいつのまにか「信仰」が「信心」に変わってしまうからです。信じて仰ぐ べきかた(キリスト)に代わって、信じる自分の心(行い)が前に出てくるとき、その人の中で福音 は律法に変わってしまいます。すでにキリストによって「救われている」「赦されている」とい う喜びと確信はいつのまにか失われ、パリサイ人のように人を審く生活になってしまうのです。 そしてごく些細な人間関係のこじれにも「こんな教会にはもう来られない」と言い放ち、簡単に 教会生活から離れてしまうのです。自分の力を頼みにしてしまうのです。他人事ではありません。 私たちはどうでしょうか。そういうことが全くない私たちだと言いきれるでしょうか。主がいつ でも私たちに求めておられることは、私たちが必死になって自分の心を研ぎ澄まし自分を省みる ことではありません。それは所詮は使徒パウロになる以前のパリサイ人サウロのように、他人を 審くだけの生活になってしまいます。教会は道徳的に完全な者の群れではありません。教会はル ターが語るように「常に罪人であり、同時に常に義とされた者たち」の群れです。自分の内には 何ひとつ「確かさ」がないことを知りつつ、だからこそ十字架の主イエス・キリストのみを仰ぎ 礼拝者として御言葉を聴きつつ生きる者たちの群れです。道徳的完全者の群れではなく礼拝者の 群れが教会なのです。いつもキリストのみを仰いで立ち続けている私たちでありましょう。それ こそ主が今朝の御言葉において語り告げておられることです。私たちは三位一体なる神、父・御 子・聖霊なる神との永遠の交わりの内に何の値もなくただ信仰によって入らせて戴いた者たちな のです。私たちの救いの「確かさ」は私たち自身の中ではなく三位一体なる神が御子イエスによ って成遂げて下さった救いの出来事にあるのです。だから私たちは「信心」ではなく「信仰」に 生きるのです。自分の心の確かさを離れてただキリストの確かさにまなざしを注ぐのです。  私たちが礼拝に集まり讃美と祈りを献げるのも、自分の「確かさ」に根拠を持つわざではない のです。そんなものなどどこにもない御前に立ちえない私たちのために、その全ての罪を担って 十字架にかかって下さり唯一永遠の贖いとなって下さった御子イエス・キリストによって、はじ めて私たちは三位一体なる神に栄光と讃美を帰したてまつる者とされるのです。聖霊によって、 御父と共に、世々に統べ治めたもう御子イエス・キリストの御名のみを崇めるのです。それなら ばどのような理由があっても、私たちはこの礼拝の家から離れることなどできはずはないのです。 なぜならこの教会は神が御子イエスの血によって贖い取って下さった神の教会だからです。そこ に私たちは何の功もなくして招かれ礼拝者とされているのです。礼拝は、永遠の昔から父・御子・ 聖霊なる神の内にあった完全なる愛の交わりが、今ここにおいて歴史と地上の生活のあらゆる戦 いや試練の中で、私たち自身への「今ここにおけるあなたへの救いと祝福」として差し出されて いることです。だから礼拝は天の聖徒たちの永遠の喜びと幸いに連なることであり、この地上の 歩みの中でやがて来るべきキリストの御国を先取りして喜ぶことです。礼拝を礼拝たらしめてい るものは私たちのわざなどではなくキリストの贖いの御業なのです。だから礼拝のことをドイツ 語でゴッテスディーンスト(神の御業・神の賜物)と呼びます。神の御業ですからそこではただ 福音のみが宣べ伝えられます。と言うより福音以外のことをいくら雄弁に語っても神の御業とし ての礼拝にはなりません。人間のわざにはなっても神の御業に仕える礼拝には決してならないの です。  19世紀イギリスにジョン・ヘンリー・ニューマンという立派な神学者がいました。ニカイア 信条のすぐれた研究をした人です。このニューマンがあるとき三位一体についてしきりに議論を する相手に対して「三位一体を信じない者に三位一体はわからない」と語った有名な話がありま す。これは「われ知らんがために信ず」という12世紀のアンセルムスという人の言葉を髣髴と させます。私たちは普通「信じる」ということは知識の後に来るものだと思っています。まず知 ってその後に「信じる」ことが来るのだと思っています。しかし本当の信仰はその逆なのです。 むしろ本当の信仰は真の知識へと私たちを導くものなのです。まず信じることなくして、神につ いて救いについて、福音について聖書について、正しい知識を得ることはできません。三位一体 もそれと同じです。「三位一体を信じない者に三位一体はわからない」のです。信じない者にと ってそれは論理的に不可能な言葉の遊戯にすぎません。しかし信ずる者にとっては「神の知恵た るキリスト」であり救いと慰めそのものなのです。  そこで私たちが三位一体なる神を信ずるとは具体的にどういうことなのかが今朝の御言葉の 34節に示されています。「神がおつかわしになったかたは、神の言葉を語る。神は聖霊を限りな く賜うからである」。そして36節には「御子を信じる者は、永遠の命を持つ」と記されていま す。これが大切なことです。と申しますのは「神がおつかわしになったかた」というのもまた「御 子」というのも、同じイエス・キリストのことをさしているからです。それならば私たちがキリ ストを信じて信仰を告白するということは、すなわち三位一体なる神を信じ告白することなので す。洗礼を志願した人のために洗礼準備会で三位一体なる神について丁寧に学びます。しかしそ ういう機会を持たず(持つことができぬまま)天に召される人もあります。緊急洗礼(病床洗礼) の場合がそうです。私たちはそうした洗礼を受けて私たちの教会員とされた人々を知っています。 たとえば原真子さん、藤野義雄さん、岩田光子さん、浦ひささん、角脇晃さん、こうした兄弟姉 妹たちが緊急洗礼を受けて本当に間もなく天に召された人々でした。これとは違いますが最近で は松尾柾夫さんがホームで緊急洗礼を受けられました。松尾兄の場合は洗礼準備会を持つ健康的 余裕はありませんでした。この全ての人たちはたった一言「あなたはイエス・キリストを、あな たの救い主と信じますか」というその一点のみの問いに「はい信じます」と答えて聖なる公同の 使徒的教会の一員とされ、主の贖いの恵みに覆われて生かされた人たちなのです。  それではこうした緊急洗礼を受けて間もなく天に召された兄弟姉妹たちは、三位一体なる神を 正しく告白しないまま天に召されたのでしょうか。そうではありません。「私は、イエス・キリ ストを主と信じます」というこの最も大切なただ一点の告白において、完全に正しく三位一体な る神を告白し讃美しその救いを受けて教会に結ばれたのです。キリストを信じる者は三位一体を も正しく告白しているのです。正しいキリスト告白は必ず三位一体なる神への告白と一つなので す。今朝の御言葉35節が告げているように「父は御子を愛して、万物をその手にお与えになっ た」からです。全ての者がキリストによって三位一体なる神を讃美告白する礼拝者の生活へと招 かれているのです。全ての者がキリストによる罪の赦しと真の自由と幸いへと招かれているので す。まさにこの御父が御子イエスの血によって贖われた神の教会において、私たち一人びとりが 御言葉による新しい生命を賜わり生きる者とされています。このことを感謝と喜びとをもって告 白し、三位一体なる神の主権のもとを歩む信仰の生活においてますます健やかな群れとなり、生 涯を通して礼拝者の歩みを貫いて参りたいと思います。