説    教  エレミヤ書33章10〜11節  ヨハネ福音書3章22〜30節

「洗礼者ヨハネ」

2011・10・09(説教11411398)  英国の宗教詩人テニスンの「河口をよぎりつ」という詩があります。三谷隆正がこのソネ ットを美しい言葉で訳しています。「日落ちて星輝けば/われを呼ぶ声す、ほがらかに。/あ あ、河ぐちの悲しみをなみ/すべり出でましおおうみに。…… たそがれて鐘はひびきぬ/や がて日もくれはてぬべし/願わくはなげきなくわかれて/出でて去なまし。/よしや時と所 とをあとに/わがゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」。  私たち人間の心にある最大の問いは、私たちの人生が究極にはどこに向かっているのかと いう問いです。「人はどこから来て、どこに行く存在なのか」。太古の昔から変わらぬこの難 問の前には必ず罪と死の問題が立ちはだかっています。それをテニスンは波静かな入江から 大海原に漕ぎ出でる一艘の舟に準えています。私たちの人生の姿そのものです。「たそがれて 鐘はひびきぬ/やがて日もくれはてぬべし/願わくはなげきなく別れて/出でて去なまし」。 そこでこそテニスンはこう歌います「よしや時と所とをあとに/わがゆくてはるけかるとも /水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」。「ほがらかに、われを呼ぶ声」が聴こえ るのです。それは「恐れるな。われ汝と共にあり。汝の罪われが贖いたり」という御声です。 その御声のみが「水先を導く」唯一の主の御声なのです。主イエス・キリストの御声です。 キリストに贖われてのみ私たちは「わがゆくてはるけかりとも/水先を導く君に/いでてま みえんとこそたのめ」る人生、真に幸いな自由と希望の人生を歩むことができるのです。言 い換えるならそれは「キリストが主であられる人生」の幸いです。  かつてわが国にも来て教えたエーミル・ブルンナーという神学者がある本の中でこういう ことを語っています。「私たちはキリストを主としないかぎり、人間の数だけ主が存在する世 界に生きるほかはない」。キリストが「主」であられない世界は人間の数だけ「主」が存在す る混沌(カオス)の世界です。人間一人びとりが「自分こそ主である」と主張し、同じよう に主張する他の人間に対立し裁き合う争いと混乱の世界であるほかはないのです。そしてそ の全ての小さな「主」を統括している力こそ「罪」と「死」です。人間はみずからの主であ ろうとして実は「罪」と「死」を主としてしまう逆さまな存在です。自由を求めつつ死の奴 隷となってしまう存在なのです。  そのような人間存在にまつわる根本的な矛盾を断ち切って、私たちの歩みを希望の港へと導 くかたは主イエス・キリスト以外にありません。今朝の御言葉でバプテスマのヨハネが証し ているのはまさしく主イエス・キリストの絶大な贖いの恵みです。ヨハネは最後の預言者と して生涯をかけて十字架の主キリストのみを指し示しました。だからヨハネの姿は教会の使 命そのものです。その意味でバプテスマのヨハネは最後の預言者であると同時に最初のキリ スト者でした。今朝の御言葉に記されている事柄の発端となったのは、あるとき「きよめの こと」で「ひとりのユダヤ人」とヨハネの弟子たちとの間で「争論が起った」ことです。そ こで弟子たちがヨハネのもとに来て申しますには「先生、ごらん下さい。ヨルダン川の向こ うであなたと一緒にいたことがあり、そして、あなたがあかしをしておられたあのかたが、 バプテスマを授けており、皆の者が、そのかたのところへ出かけています」と告げたわけで す。そのときヨハネが答えて申しますには「人は天から与えられなければ、何ものも受ける ことはできない。『わたしはキリストではなく、そのかたよりも先につかわされた者である』 と言ったことをあかししてくれるのは、あなたがた自身である」と答えました。  これはたいへん意味深い言葉です。ヨハネの弟子たちからすれば自分たちの師匠ヨハネから 洗礼を受けたナザレのイエスが師匠ヨハネより多くの人々を惹きつけているのが気になって 仕方がない。どっちが師匠かわからないではないか。これは黙っておれないというわけで「先 生、あのイエスのすることを放っておいて良いのですか?」と訊ねたわけです。それが今朝 の26節です。それに対してヨハネは「人は天から与えられなければ、何ものも受けることは できない」と弟子たちの短慮軽率を戒めました。主イエスの御業と御言葉は「天から与えら れた」ものを「受けて」現しておられるのであってその行いは神の御業である。それより私 はあなたがたに「私はキリストではない」とはっきり言ったはずではないか。それを「あか ししてくれるのは、あなたがた自身である」のに、あなたがたはキリストではなく私を祭り 上げようとしている。そこにあなたがたの罪があるとヨハネは弟子たちを叱ったわけです。  そしてヨハネは更に29節以下にこう申しました。「花嫁をもつ者は花婿である。花婿の友 人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ。彼は必ず栄え、わたしは衰える」。こ こにヨハネの信仰の真骨頂が現れています。ここで「花嫁」とはイスラエルの民ひいては全 ての人々をさしています。花嫁を娶るのが一人の花婿であるのと同じように、この世界の唯 一の主はイエス・キリストのみであるとヨハネは言うのです。ではヨハネは何かと申します と、ヨハネはその花婿の「友人」にすぎないのです。この「友人」とは「仲人」を意味しま す。ユダヤでは花婿の友人が仲人を務めたからです。仲人は花婿と花嫁を取持つ仲介役であ って主役ではありません。仲人は結婚が無事に成立したのを見届けて「喜ぶ」ために存在し ます。それが「花婿の友人は立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」とあること です。ヨハネは自分はその仲人にすぎないと言うのです。そこにこそヨハネが荒野に遣わさ れた理由がありました。「荒野に主の道を備える」ためです。全ての人々をキリストへと導く ためです。この世界に唯一の「主」なるキリストを紹介することがヨハネの使命なのです。  それは同時に私たちの教会に委ねられている福音宣教の使命ではないでしょうか。福音を 宣べ伝えるとはキリストのみを宣べ伝えることです。キリストのみを宣べ伝えるとは「キリ ストについて」の講話をすることではなく、この世に対していま生きて救いの御業をなして おられるキリストを紹介することです。いわば教会はキリストとこの世との「仲人」です。 仲人ですから教会はおのれ自身の「主」でありえないのと同様に世界の「主」ではありえま せん。世界の「主」また教会の「主」はイエス・キリストのみだからです。教会はキリスト のみを唯一の「主」と紹介することによって世界に対して歴史そのものの救いと希望と自由 を宣べ伝えるのです。まさに今朝の御言葉に描かれたヨハネの姿そのものです。それゆえ教 会は今朝の御言葉に告げられているように「立って彼の声を聞き、その声を聞いて大いに喜 ぶ」群れです。「立って」とはキリストに仕える者の姿勢です。私たちは教会にただの客とし て招かれているのではありません。キリストの仕え御言葉の祝福を受ける生活をするために 来ているのです。「水先の導きなる君」の御声に従うために来ているのです。それこそ礼拝者 の姿です。私たちは「彼(すなわちキリスト)の声を聞き、その声を聞いて大いに喜ぶ」者 たちなのです。だから牧師は御言葉の説教に生命をかけます。聴く者も自分に対する神の言 葉としてそれを聴きます。御言葉にあずかることはキリストにあずかることです。説教の務 めはキリストの救いの御業を世に宣べ伝えることです。だから説教は宗教講話ではありませ ん。いわゆる「今日はいいお話を聞いた」という世界であってはならないのです。かつて関 西に伝道をしたヘールという宣教師がいました。このヘール宣教師いわく「嘘をつかずみん な仲良く暮らしましょう、というような話は教会の説教ではない」。「人間の根本部分が病ん でいるときに、表面に絆創膏を貼るがごとき姑息な教は人間を救いえない」。人間の根本部分 の病である罪を癒したもうかたはただイエス・キリストのみです。私たちのために十字架へ の道を歩まれ、全人類の罪の重荷を一身に担って死んで下さったイエス・キリストのみが「水 先の導きなる君」として死の大波をも越えしめて下さるのです。  バプテスマのヨハネの生涯を見るとき、そこに現れる際立った光景は人々の圧倒的な無理 解です。そもそも私たち人間は自分に都合の良いことしか聞こうとはしないのです。いわゆ る「耳に心地良い」言葉を求めるのが人間です。しかしヨハネは決して妥協しませんでした。 「良薬口に苦し」と申します。重症の患者を前にいい加減な治療をして済ますのは医者のな すべきことではありません。ありのままの病巣に立ち向かいこれを癒してこそはじめて治療 の名に値します。それと同じようにヨハネも「罪」によって魂の死に瀕し神から離れた人類 に対していい加減な気休めの希望を語りませんでした。彼が宣べ伝えたのは「罪の赦しを得 させる悔改めのバプテスマ」であり「世の罪を取り除く神の小羊」なるキリストのみでした。 このような伝道者また教会のあるべき姿を使徒パウロはテモテ第二の手紙4章1節以下にこ う語っています。「神のみまえと、生ききている者と死んだ者とをさばくべきキリスト・イエ スのみまえで、キリストの出現とその御国とを思い、おごそかに命じる。御言を宣べ伝えな さい。時が良くても悪くても、それを励み、あくまで寛容な心でよく教えて、責め、戒め、 勧めなさい。人々が健全な教えに耐えられなくなり、耳ざわりのよい話をしてもらおうとし て、自分勝手な好みにまかせて教師たちを寄せ集め、そして、真理からは耳をそむけて、作 り話の方にそれていく時が来るであろう。しかし、あなたは、何事にも謹み、苦難を忍び、 伝道者のわざをなし、自分の務めを全うしなさい」。  私たちはいつの日にも変わることなくこの礼拝者・キリスト者の姿勢において健やかな群 れであり続けたいのです。パウロは同じ18節にこうも語っています。「主はわたし(たち) を、すべての悪のわざから助け出し、天にある御国に救い入れて下さるであろう。栄光が永 遠から永遠にわたって、神にあるように、アァメン」。今朝あわせて拝読したエレミヤ書33 章10節以下、特に12節と13節にも同様の約束が告げられています。「万軍の主はこう言わ れる、荒れて、人もおらず獣もいないこの所と、そのすべての町々に再びその群れを伏させ る牧者のすまいがあるようになる。山地の町々と、平地の町々と、ネゲブの町々と、ベニヤ ミンの地、エルサレムの周囲と、ユダの町々で、群れは再びそれを数える者の手の下を通り すぎると主は言われる」。イスラエルの羊飼いは羊を愛してその一匹一匹を名をもって呼びま す。夕方になって羊の群れを野原から柵に入れる時刻になると、羊飼は一匹ずつ羊の名を呼 び、広げた手の下をくぐらせて安全な柵の中に迎え入れるのです。それこそ主イエスが言わ れたように「わたしの羊はわたしを知り、また、わたしの声を聞き分ける」光景そのままで す。群れの中におらず羊飼のもとにいない羊は夜の間に死んでしまいます。だから羊飼は命 がけで羊の名を呼ぶのです。  そこでこそ預言者エレミヤは語るのです。今日の私たちの世界は「罪」によってあたかも 養う者のない羊の群れのような哀れな寄る辺なき状態である。しかしその私たちの世界にま ことの救い主なるイエス・キリストが来臨された。だからその全地のあらゆる所で「群れは 再びそれを数える者の手の下を通りすぎる」のです。ひとつの群れ一人の羊飼となって罪と 死の支配は終わりを告げるのです。その確かな救いの約束がまさにイエス・キリストの十字 架において私たちのただ中に成就した。その喜びを宣べ伝えているのです。まさしく私たち を極みまでも愛し、ご自身の生命を注ぎ尽くして下さったキリストの御手においてこそ「わ がゆくてはるけかるとも/水先を導く君に/いでてまみえんとこそたのめ」る者の幸いが、 生にも死にも私たちの人生全体の幸いとなる。そこでこそ私たちは「人間はどこから来て、 どこに向かう存在なのか」この太古からの根源的な問いに唯一の答えを見出し得るのです。 生きるにも死ぬにも、私たちは私たちの真実なる贖い主イエス・キリストのものであること です。「イエス・キリストにおける神の愛」からいかなる力も私たちを引き離すことはできな いのです。私たちはこの「主」の御名を讃美します。ヨハネのようにキリストの絶大な恵み と祝福を証せずにはおれないのです。教会はそのような信仰の志に生きる群れであり、神は 全ての人をこの群れの中へと招いておられるのです。