説    教   エレミヤ書32章40〜41節  ヨハネ福音書3章20〜21節

「光に来たれ」

2011・10・02(説教11401397)  「悪を行っている者はみな光を憎む。そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、 光にこようとはしない。しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこないの、神に あってなされたということが、明らかにされるためである」。 今朝のヨハネ伝3章20節のこ の御言葉以上に私たちの世界の真相を言い当てているものがあるでしょうか。この「光」とは 神の御子イエス・キリストのことです。私たち人間は例外なく神の前に罪ある存在です。「す べての人を照らすまことの光」なるキリストを「憎む」者です。しかも「そのおこないが明る みに出されるのを恐れて、光にこようとはしない」のです。つまり私たちは二重の意味で罪を おかしている(二重の鎖が私たちを捕らえている)のです。「光なるキリストを憎む」ばかりでな く、闇のわざを愛する「(自分の)おこないが明るみに出されるのを恐れ」て光なる主の招き に応じようとしないことです。譬えて申しますなら重い病気にかかっているのに自分が病気で あることに気がつかないようなものです。だから医者にも行こうとしないのです。これほど悲 惨なことはないのではないでしょうか。  そこから何が起こるかと申しますと、私たち人間の行い全体、またこの世界の全体が神の御 心に反した破壊の方向に進んでゆかざるをえないのです。「木の良し悪しはその実によって知 られる」と主イエスは言われました。「良い木が悪い実を結ぶことはありえず、また悪い木が 良い実を結ぶこともありえない」と。まさにいま人間(世界)が大変な勢いで「悪い実を結ぶ 悪い木」になりつつある現実があるのではないでしょうか。それは私たち一人びとりの問題で す。  そこで、今朝の御言葉の21節に「しかし、真理を行っている者は光に来る。その人のおこ ないの、神にあってなされたということが、明らかになるためである」とあります。ここに「し かし」という言葉に挟まれて、神に結ばれた「おこない」のさいわいが宣べ伝えられています。 私たち人間の悲惨の原因はこの「しかし」を受け入れない(医者のもとに来ない)ことです。私 たちの「おこない」は神に結ばれたものでなくなるとき、みずからの「おこない」を「明るみ にだされるのを恐れ」て「光」なるキリストのもとに来ることを拒む者になってしまうのです。 あのゲラサの墓穴に住む男が主の来訪を全身で拒絶したように、私たちも主が近づいて来られ るのを全身で拒むものになってしまう。まさにそうした私たち人間(この世界)の本質的な破 壊と悲惨の中にこそ主イエス・キリストは来て下さいました。そこでこそはっきりと私たちに 告げて下さいます。「光の子となるために光を信じなさい」と。「光なる主」みずからご自身の 十字架の恵みをもって私たち全ての者に告げていて下さるのです。私たちの誰も受け入れよう としない21節の「しかし」を十字架の主が乗り越えて下さるのです。  無教会主義の立場に立つ人ですが、内村鑑三の著作は今もなお私たちに信仰について多くの 大切なことを教えるものです。その内村鑑三が「求安録」という本の中で「しからば我は誰な るか。夜暗くして泣く赤子。光欲しさに泣く赤子。泣くより他に言葉なし」と語っています。 私たちは神の前に「泣くより他に言葉なき」赤子のような無力な存在にすぎない。「しかし」 そこでこそ神の「しかし」が響くのです。母がわが子の泣声にすぐ応じてその必要を満たすよ うに、父なる神は限りない愛をもって私たちが本当に必要とするもの(生命の糧)を満たして下 さる。主イエス・キリストの十字架による贖いにより、私たちには罪の赦しと永遠の生命が与 えられるのです。だから今朝のこの御言葉は同じ3章16節「神はそのひとり子を賜わったほ どにこの世を愛して下さった」また17節「神が御子を世につかわされたのは、世をさばくた めではなく、御子によってこの世が救われるためである」と告げられている事柄を受けての「し かし」です。まず神が「この世」を愛されその救いのために御子イエスを下さったという事実 がすべてに先立っているのです。だからこそそこで唯一求められていることは、私たちが御子 イエス・キリストを信じるか否かです。もし私たちが御子イエスを主と告白し教会に連なるな ら、そのとき私たちは全く無条件であるがままに生命の糧に満たされ永遠の救いを受けるので す。  この意味でキリスト教はいかなる場合でも「最初に行為ありき」ではありません。ドイツの 文豪ゲーテは戯曲ファウストの中でヨハネ伝1章1節「はじめに言葉があった」を「始めに行 為があった」と訳し換えています。しかしそれは正しい解釈ではないのです。モーセの十戒も そうです。イスラエルの民に対して「あなたはこれこれの行いをしなさい、そうすればあなた は救われるであろう」というのが十戒ではないのです。そうではなく「あなたはすでに私の愛 の中におり、救われた者とされている。だからあなたは勇気と自由をもって主の道を歩む者と されている」というのが十戒なのです。つまり「まず信仰ありき」(信仰のみ)なのです。もし 行為と言うならそれは「神の行為」なのです。神の御業が私たちに先立っているのです。それ ゆえ繰り返して申します。神が私たちに(全世界に)求めたもうのは「私は御子イエス・キリ ストを信じます」という信仰告白以外なにものでもありません。ただキリストを信じ教会に連 なる信仰のみを神は求めておられる。そして私たちが信仰によって歩むならば、私たちは人生 のどのような局面においても、喜びにも悲しみにも順境にも逆境にも、今朝の21節にあるよ うに「その人のおこないの、神にあってなされたということが、明らかにされる」幸いに生き るのです。そのとき私たちはもはや「そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこよ うとはしない」者ではありえないのです。「すべての人を照らすまことの光」なる主に結ばれ て生きるからです。  聖書の「新共同訳」(プロテスタントとカトリックの共同翻訳聖書)が出版されて20年以上経 ちますが、私たちの教会で採用しないひとつの理由は新約聖書の翻訳に疑問が多々あることに よります。たとえば主イエスが「よく、よく、あなたがたに言っておく」と仰っているところ は原文のギリシャ語では「アーメン、アーメン」です。だから文語では「まことにまことにわ れ汝らに告ぐ」と訳されています。ところが新共同訳では「はっきり言っておく」と訳してし まいました。これは聖書の日本語とは言えません。「はっきり言っておく」というのははっき り言って品の悪い喧嘩言葉です。キリストの御言葉にふさわしい翻訳ではありません。こうし た表現にかかわる問題以外に翻訳そのものの問題点もあります。その中で私がいちばん気にな るのはヨハネ黙示録14章13節の翻訳です。「またわたしは、天からの声がこう言うのを聞い た、『書きしるせ、今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』。御霊も言う、『しかり、 彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく』」。この後半の部分を新共同訳 ではこう訳しています「然り。彼らは労苦を解かれて、安らぎを得る。その行いが報われるか らである」。これでは原文のギリシヤ語にも忠実でないばかりか福音の内容をも歪めています。 「そのわざは彼らについていく」とあるその「わざ」とは私たちの救いのためにキリストが担 われた救いの御業です。十字架のご苦難と死と復活および昇天の御業です。その主の御業は私 たちの「死」という決定的な断絶をも「しかし」乗り越えて罪と死の支配に永遠に勝利された 御業です。その主の御業こそ死を超えてまで私たちを追う。私たちの全存在を囲むのです。キ リストの復活の生命が私たちの死ぬべき身体を覆い包むのです。まさにその幸いを告げる御言 葉が「そのわざは彼らについていく」です。    ところが新共同訳では「その行いが報われるからである」と、あたかも私たち自身の行為が 私たちの死後の運命を決定するものであるように翻訳されている。これは宗教改革者たちが生 命をかけて反対した人間功績論そのものです。功績論では人間は誰も救われません。もしも私 たちの行為(功績)が恵みに先立つのなら、救われるに値する人間は一人もいません。そうでは なく主イエス・キリストの御業のみが私たちを無条件で救う無償の恵みであるからこそ、私た ちはただキリストを信じる信仰によって義とされるのです。私たちの行為は恵みを受けるべき 条件ではなく恵みを受けた結果です。これがキリスト教の福音の本質であり私たちの教会の信 仰です。とりわけこの黙示録14章13節は教会での葬儀のおりに必ず読まれる御言葉ですから 正しい理解が大切です。「主に結ばれて死ぬ死人がさいわい」なのはその死者みずからの「行 いが報われるから」ではなく、その死者をキリストの御業が覆い包んで下さるからです。「死 ぬものが死なないものを着る」ゆえにです。それゆえに「今から後、主にあって死ぬ死人はさ いわい」なのです。私たちはこの信仰をもって信仰の旅路を雄々しく歩み続けます。そしてと もにキリストの贖いの内に生きた信仰の仲間の葬りに臨むのです。このことをいつも忘れない 私たちでありたいと思います。  今朝の21節に「真理を行っている者は光に来る」と主は言われました。この「真理」とは いったい何でしょうか。そういえば聖書の中にただ一箇所「真理とは何か」と問うた人間が記 されています。それは同じヨハネ伝18章38節にあるポンテオ・ピラトの言葉です。「わたし は真理についてあかしをするために生まれ、また、そのためにこの世にきたのである。だれで も真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」と言われた主イエスに対してピラトは嘲るよう に「真理とは何か」と問いました。 ピラトにとって「真理」とは実体のないものにすぎませ ん。何が真理であるかは人それぞれの判断によって違うからです。しかし私たちを生かす本当 の「真理」とはそのような曖昧なものではありません。私たちを尋ね求め私たちに出会いたも う生ける主イエス・キリストこそ「真理」そのものです。キリストご自身が生ける唯一の「真 理」なのです。神のみが完全な「真理」であり、神の御子なるキリストは完全な真理の唯一の 具現者だからです。そうしますと21節の「真理を行っている者」の意味も明らかになります。 それは「キリストを行っている者」ということです。では「キリストを行っている者」とは何 でしょうか?。この「真理を行っている者は光に来る」とは「キリストを信じる者はキリスト に来る」という意味です。「真理を行う」とは「キリストを信じる」ことなのです。言い換え るなら「キリストを信じる者」は「真理を行う」のです。キリストを信じる者の結ぶ実は聖霊 による真理の実です。(ガラテヤ書5章22節を思い起こしても良いでしょう)正しい信仰のみが 正しい真理の行いを生み出すのです。私たちの行いが私たちを義とするのではなく、キリスト が信じる者を値なしに義として下さるのです。「真理を行う者」として下さるのです。  それまでは「光」を「憎んでいた」私たちでした。「しかし」キリストを信じて教会に連な る者とされ、キリストの御業の内に生きる者とされてはじめて「その人のおこないの、神にあ ってなされたということが、明らかにされる」ことを喜ぶ者とされたのです。これを旧約では 「神を喜ぶ」と表現します。神を憎んでいた私たちが「神を喜ぶ」者とされるのです。この「喜 ぶ」とは「誇る」という字です。自分を誇るのではありません。自分の行いを頼むのでもあり ません。ただひたすらに私たちのために十字架にかかって下さったキリストに拠り頼むのです。 十字架の主を仰ぐのです。そのことによって私たちははじめて本当に「真理を行う者」とされ るのです。神の聖なる御心にかなう者とされるのです。私たちの人生の全体がキリストの愛と 恵みの素晴らしさを物語るものとされてゆくのです。私たちの人生そのものが、たとえ人の目 にはどんなに小さなささやかな愛のわざであっても、そのあるがままに主に贖われた者として 主の御業に仕える人生とされ、生かされ用いられてゆくのです。その大きな幸いをここに集う 私たち一人びとりが戴いているのです。