説    教    創世記3章8〜9節  ヨハネ福音書3章17〜19節

「汝は何処におるか」

2011・09・25(説教11391396)  「人間とはいったい何者なのか」。これは最も単純なしかし最も難しい問いです。聖書は人 間を美化し理想の世界(ユートピア)を描く書物ではありません。そうではなく聖書は人間の ありのままの姿を明らかにし徹底的に人間の本質を語るのです。その場合、聖書が示す人間理 解の最も深いところに「罪」によって神から離れた人間の姿があります。「罪」とは神から離 れて生きることです。神から離れて生きることを当然とすることです。私たちは「聖書は罪、 罪と言うけれど、自分はなにも悪いことをした覚えがない」と思うかもしれません。しかしよ く考えてみれば、私たちが自覚できる「罪」などたいした罪ではないのです。最も恐ろしい罪 は私たちが自覚さえできない無意識の罪です。それを聖書は正面から問うのです。病気に譬え るなら自覚症状のない病気と同じでそれがいちばん恐ろしいのです。自覚症状のある病気は治 せますが、自覚できない病気はいつの間にか人間を死に至らせるからです。罪の問題もそれと 同じで自覚できない罪ほど恐ろしいものはないのです。  まさにそのような私たち人間の「罪」を今朝の聖書のヨハネ伝3章17節以下は特に19節に おいて明らかにします。見えない病巣を映し出すのです。それが「そのさばきというのは、光 がこの世にきたのに、人々はそのおこないが悪いために、光よりもやみの方を愛したことであ る」とあることです。つまりヨハネ伝は私たちの罪の姿を「さばき」という言葉であらわしま す。私たちは普通「さばき」と聞くと自分の外から来るものだと思っています。「さばかれる」 と受身の形であらわします。しかし今朝の御言葉ではそうではない。むしろ私たち自らの隠れ た「罪」が私たちを「さばく」のです。私たちが「光よりもやみの方を愛したこと」が「さば き」そのものなのです。主イエスは「外から来て、あなたがたを汚すものはない。かえって、 あなたがたの中から出るものが、人を汚すのである」と言われました。そのとおりではないで しょうか。誰も自分を抜きに「罪」の問題を扱うことはできません。もし人が「自分には罪が ない」と言うならその人は「自分を偽り者としている」のです。  だからこそ、今朝の御言葉が私たちに告げているのは“大いなる喜びの音信”なのです。そ れは「光」すなわち神の御子イエス・キリストがすでにあなたの「罪」の贖いのために世に来 られ十字架にかかって下さったという出来事だからです。キリストは十字架と復活の主として 御父と聖霊と共に永遠に罪と死の支配に勝利しておられる唯一の「主」です。それにもかかわ らず私たちがこの「世」(人生の旅路)であたかも「光」が来なかった者のように生きていると すれば、それこそ「偽り者」ではないでしょうか。南洋の孤島で戦争が終わったことを知らず ジャングルに潜んでいた兵士がいました。戦争が終わったのになお彼は見えない敵と戦ってい ました。私たちもキリストの前に同じ姿ではないでしょうか。キリストが世に来られ「主」と なられたにもかかわらず、キリストが「主」でない者のように生きてはいないでしょうか。  そこで私たちは今朝あわせて拝読した創世記3章8節以下に心を留めたいのです。そこには アダムとエバの物語が人類と私たち自身の歴史の姿として描かれています。神の意志に背いて 罪をおかしたアダムとエバは神の御顔を避けて逃げる者になります。しかし主なる神は彼らに 呼びかけて訊ねたもうのです「あなたはどこにいるのか」と。これは犯人を追及する刑事の言 葉ではなく、失われたわが子を尋ね求める父親の愛の叫びです。まさしく主なる神は私たち一 人びとりに呼びかけておられる「あなたはどこにいるのか」と!。あるべき所にいない私たち の現実があるからです。あるべき所にいないから私たち人間には「あるべからざること」(あ ってはならないこと)が起こるのです。その「あるべからざること」の際たるものが人間の「死」 です。使徒パウロがローマ書6章23で「罪の支払う報酬は死である」と語るとき、それは神 から離れた「さばき」としての永遠の死を意味しています。讃美歌141番に「つれなき世びと よ、汝がつみとがは、かくもかなしき、果をむすびぬ」とありますが、「あるべき所にいない」 私たちの「罪」が私たちを審いて「あるべからざる」結果としての「死」へと導くのです。   石川啄木の歌に「剽軽の性なりし友の死顔の青き疲れが今も目にあり」というものがあり ます。剽軽な性格でよく冗談を言って人を笑わせていた友人が若くして病気で死ぬのです。そ の友人の通夜の席上、啄木はいま初めて人の死に出会ったかのように驚く。あんなに元気で剽 軽であった友がいま目の前に「青き死顔」となって横たわっている。そこに死の重さを嫌とい うほど思い知るのです。パスカルはこの「剽軽」を「遊戯」という言葉であらわしました。私 たちはあたかも自分が死なない者でもあるかのように振舞っている。それが「遊戯」です。し かしどんな遊戯も死の現実を打ち消すことはできない。「死顔の青き疲れ」を変えることはで きないのです。人間の罪の現実もそれと同じです。たとえ私たちがどんなに「罪」がない者の ように振舞おうとも、罪の支配はますます私たちを捕らえて離さず私たちの人生(また世界)に 猛威を振るうのです。キリストが共におられない者のように私たちを生かそうとするのです。 そして最後には「報酬」として「死顔の青き疲れ」を与えるのです。まさにそこで死は私たち に勝利宣言をします。この世界の究極的な支配者、それは「罪」であると宣言するのです。  しかしパウロは先ほどのローマ書6章23節の続きで何と言っているでしょうか。「罪の支払 う報酬は死である」と語ったすぐ後でパウロは「しかし神の賜物は、わたしたちの主キリスト・ イエスにおける永遠のいのちである」と告げているのです。まさにこれこそが全世界に宣べ伝 えられているキリストの福音です。主なる神は私たちがただの一人も、罪の「さばき」によっ て滅びることを許したまいません。罪によってあるべき所(神のみもと)から離れてしまった 私たちに「あなたはどこにいるのか」と限りない愛の呼びかけをして下さるかたなのです。そ して私たちをご自身のみもとに回復して下さるためにその最愛の独子イエス・キリストを世に お与えになりました。それこそ今朝の御言葉の17節に告げられている事柄です。すなち「神 が御子を世につかわされたのは、世をさばくためではなく、御子によって、この世が救われる ためである」。そして18節にはこうあります。「彼を信じる者は、さばかれない。信じない者 は、すでにさばかれている。神のひとり子の名を信じることをしないからである」。もし私た ちが「神のひとり子の名を信じる」ならそのとき私たちは「さばき」に打ち勝つ「めぐみ」の もとにいるのです。キリストをわが主・救い主と告白し洗礼を受けて教会に連なることです。 キリストを着ることです。もし私たちがあるがままにキリストの義を身に纏うなら、もはやい かなる「さばき」も私たちを支配することはできません。なぜなら主イエス・キリストが私た ちを限りなく愛して下さり、私たちのために十字架にかかり罪の「さばき」をさえ引き受けて 下さったからです。  キリストの十字架は神の御子みずから全ての者のために永遠の「さばき」を引き受けて下さ ったことです。ガラテヤ書3章13節はこのことを「キリストは、わたしたちのためにのろい となって、わたしたちを律法ののろいからあがない出して下さった」と告げています。罪の「の ろい」また罪の「さばき」を主は私たちの身代わりとなられて徹底的に担って下さった。それ が十字架です。主は私たちのために永遠の滅びとしての「あるべからざる」死を死んで下さい ました。そのようにして信ずる全ての者を「さばき」より救い永遠の生命(復活の生命)を与 えて下さったのです。十字架によって「あるべからざる」罪の支配下にいる私たちを「あるべ き」恵みの支配の下に移して下さったのです。罪の凱歌が聞こえるこの歴史のただ中で主イエ ス・キリストのみが「この世」を限りなく愛し、私たちの全存在をかき抱くようにご自身のも とに引き寄せて下さり、私たちの魂の重み(罪の結果)をご自身に担い取って下さいました。罪 の「のろい」と「さばき」から私たちを解放するために十字架で「のろい」の死を死なれ「さ ばき」を引き受けて下さいました。罪と死の支配を徹底的に打ち砕いて、恵みと祝福のもとに 私たちの存在を移して下さいました。このキリストのご支配のもとにあってのみ私たちの人生 は「遊戯」ではなくなるのです。「死顔の青き疲れ」はもはや支配しないのです。キリストの 愛と恵みが私たちの人生を根本的に新しくしているのです。このことを使徒パウロは第一コリ ント書15章55節以下にこう語っています「死は勝利にのまれてしまった。死よ、おまえの勝 利は、どこにあるのか。死よ、おまえのとげは、どこにあるのか。死のとげは罪である。罪の 力は律法である。しかし感謝すべきことには、神はわたしたちの主イエス・キリストによって、 わたしたちに勝利を賜わったのである。だから、愛する兄弟たちよ。堅く立って動かされず、 いつも全力を注いで主のわざに励みなさい。主にあっては、あなたがたの労苦がむだになるこ とはないと、あなたがたは知っているからである」。  私たちを人生において孤独に陥れる思いは、もしかしたら自分の「労苦」はすべて「むだ」 なのではないだろうかという思いです。徒労に終わる労苦ほど空しいものはないからです。し かし聖書ははっきりと告げています「主にあっては、あなたがたの労苦がむだになることはな い」と。「主にあっては」とは「キリストに結ばれているとき」という意味です。あなたの人 生が教会においてキリストに結ばれているとき、あなたがこの人生において担うどのような 「労苦」も何ひとつ「むだ」になるものはない。あなたが他者のために担うどんなに小さな愛 の労苦さえ主が御手の内にしっかり受け止めていて下さる。そして御業のために豊かに用いて 下さる。だから安心しなさい「堅く立って動かされず、いつも全力を注いで主のわざにはげみ なさい」。そう聖書ははっきりと告げているのです。  私たちは教会において十字架の主に結ばれることにより、もはや「やみ」の中をではなく「光」 のうちを歩む者とされているのです。「光よりもやみの方を愛」するほかなかった私たちがキ リストの義を纏うことにより光の民とされているのです。それはこの私たちのただ中に、主が 「失われた者を尋ね出して救う」ために来て下さったからです。主は「失われた者を尋ね出す ために」「罪によって死んでいた者をよみがえらせるために」来て下さいました。私たちが賜 わっている生命はキリストの復活の生命なのです。教会はキリストの復活の生命に連なる共同 体です。世界は教会になることを願って呻きの内にあるのです。主に贖われた群になることを、 主に連なる復活の生命の共同体になることを、虚しからざる労苦を喜んで担える世界になるこ とを願っているのです。主に結ばれてこそ私たちは「堅く立って動かされず」歩むことができ ます。私たちはキリストという唯一の「土台」の上に立てられた群れです。私たちは今日から の日々をも主の民として安心して立ち上がり、主のご支配のもと心を高く上げて歩む者とされ ているのです。ここに集う私たち一人びとりが「勝ち得て余りある」絶大なキリストの勝利に 連なる者とされているのです。