説    教   エレミヤ書23章5〜6節   ヨハネ福音書3章16節

「独子を賜える神」

2011・09・18(説教11381395)  今から152年前の1864年(元治元年)7月18日夜、一人の青年が函館港からアメリカの貨 物船に便乗して故国を離れました。密航でした。もし事が発覚すれば幕府の国禁を犯した咎で 処刑された時代です。現に数年前、吉田松陰が海外渡航の挙を企てたかどで処刑されていまし た。この青年の名は新島七五三太。のちに京都に同志社を創立した新島襄です。この密航に成 功した新島は船長テイラーに片言の英語で「日本には列強諸国に負けぬ強力な海軍が必要であ る。そのために自分は身命を惜しまずアメリカで海軍技術と造船学を学び、日本を立派な近代 国家にしたい」と訴えました。しかし敬虔なクリスチャンであるテイラー船長は新島に「それ なら君はまずキリスト教を学ばねばならない」と諭し、その日から船長のキャビンで一対一の 聖書の学びが始まったのです。  船長の指導のもと熱心に聖書を読み始めた新島は、ある日ひとつの御言葉に心を捕らえられ 回心を経験します。それがヨハネ伝3章16節でした。「それ神はその独子を賜ふほどに世を愛 し給へり。すべて彼を信ずる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」。この御言葉に接し たとき新島は「滂沱として涙、余の頬を伝いぬ。実に余が求め居りしものはこれなりき」と書 き記しました。新島はこのヨハネ伝3章16節により、日本に本当に必要なものは強力な海軍 ではなく真の神の福音であると気づくのです。軍事力は国家永遠の礎とはなりえない。ただキ リストの福音のみが永遠に変わらぬ国家の礎であり人生を導くまことの光であると知ったの です。半年におよぶ航海ののちボストンに着いた新島は直ちに洗礼を受けて教会員となり、苦 学のすえ神学校に入り日本人として最初の按手礼を受けた牧師となり生涯を伝道と教育に捧 げました。ヨハネ伝3章16節の御言葉が一人の愛国者を福音の使徒に変えたのです。  ニコデモもまた新島と同じように、最初は主イエスがどういうかたか全くわかっていなかっ たのです。だから世間体をはばかって「夜」ひそかに主イエスのもとにやって来たのです。し かし主イエスとの対話の中で閉ざされていた彼のまなざしが徐々に開かれてゆきました。とり わけ主はニコデモに「わたしが地上のことを語っているのに、あなたがたが信じないならば、 天上のことを語った場合、どうしてそれを信じるだろうか」と仰せになりました。今ここにお いて教会を通して宣べ伝えられている福音を、まさに「この私への語りかけ」として信じるこ となくしてどうして「天上のこと」が信じられようかと主は言われるのです。教会の籍と天の 国籍とは一致しているのです。教会生活を重んずることなしに「神の国」の民となることはで きない。「神の国に入る」ことはできないのです。それでは“教会生活を重んずる”とは具体 的にどういうことなのか、前の15節に記されているのです。それこそ「それは彼を信じる者 が、すべて永遠の命を得るためである」との御言葉であり、今朝の16節はこの福音を徹底し たものです。宗教改革者ルターは「たとえ聖書の他の文言が全て失われようとも、ヨハネ伝3 章16節のみが残るなら、福音の本質は誤りなく伝えられるであろう」と申しました。この「福 音の本質」とは主イエス・キリストそのものであり、またキリストがなされた全ての御業のこ とです。主が私たちのために担われた十字架の出来事です。私たちが教会生活者となることは この十字架の主キリストを信じて「永遠の命」を得る者となることです。だから教会に連なる ことは活けるキリストに結ばれることです。このことが「福音の本質」なのです。主はニコデ モの、また新島襄のまなざしを開いて下さったのと同じように、私たちのまなざしをもいま開 いて下さいます。「神の国を見る」者として下さるのです。そこで今朝の16節に「神はそのひ とり子を賜わったほどに」とありました。この「賜わった」とはただ「贈った」とか「遣わし た」という程度の意味ではありません。元々のギリシャ語“ディドーミ”は「犠牲としてささ げる」という意味です。神が私たちを愛し給うたその愛は、実にその最愛の独子イエスを「犠 牲としてささげ」たもうたほどのものであると言うのです。  太宰治の短編小説に「雀」という作品があります。場末の温泉場の射的場の主人と懇意にな った兵隊帰りの若い湯治客が、面白半分に店の空気銃で店番の少女の背中を撃つのです。軽い 気持ちで、怪我などしないと思っていた。しかしその少女が血を流すほどの怪我をしてしまう のです。とたんに射的場の主人(その少女の父親です)が怒りの形相でその客に掴みかかり「何 をするのだ、医者を呼べ!」と叫ぶのです。その凄まじい憤怒の形相に接して湯治客は遊興気 分も吹き飛び、人生の厳粛さを思わしめられる。子を愛する親の愛にまさって激しく真実なも のがあるだろうか。自分はその愛の対象を傷つけたのだと知るのです。自分は戦場で人間の真 実を見て来たと自負していたが、何も見ていなかったのではないかと気づくのです。  私たちは愚かにも自分が犯した罪の大きさに、相手の怒りを見てはじめて気がつくことがあ ります。それならご自身の独子を世に賜わった父なる神の御心はいかばかりでありましょうか。 神は「この世を愛して下さった」と事もなげに書いてあります。しかし「この世」とはまさに 私たち人間の「罪」の渦巻く現実のこの世界であり、どこを見ても神に愛されるふさわしさの 全くない私たちの姿です。その世界(私たち)のために神は愛する独子を「犠牲としてささげ」 て下さったのです。まさにそのことをローマ書5章6節以下はこのように教えています。「わ たしたちがまだ弱かったころ、キリストは、時いたって、不信心な者たちのために死んで下さ ったのである。正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進ん で死ぬ者もあるいはいるであろう。しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリス トが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである」。私たち 人間は相手が「正しい」という理由ではその相手のために死ぬことは「ほとんど」ないという のです。しかし「善人」つまり自分にとって恩義のある人のためなら「進んで死ぬ者もあるい はいる」かもしれない。ところが絶対にありえないことがあります。それは自分を害する者、 自分にとって不利益となる者の「ために死ぬ」ことです。それは決してあり得ないのが人間な のです。ところがキリストは私たちが「まだ罪人であった時」に私たちのために「死んで下さ った」。自分を害する者、不利益以外の何者でもない罪人のために、キリストは十字架にかか って下さいました。そのことによって「神はわたしたちに対する愛を示された」のです。そこ に福音の本質があるのです。そして「それは、御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の 命を得るためである」とヨハネは語ります。この「永遠の命」とは神との正しいあるべき関係 を回復することです。ぶどうの枝は幹から切り離されては枯れてしまうほかありません。同じ ように私たちも幹なるキリストから離れては本当の生命はありえないのです。肉体においては 生きても魂においては枯れてしまうのです。それほど私たち人間には例外なく神の前に大きな 「罪」があるのです。しかし神は、その私たちの「罪」を放任なされず、私たちが罪の支配に より滅びることをお許しにならず、その私たちを救うために独子キリストを「犠牲として世に お捧げになる」のです。ご自分の限りない独子を賜わってさえ私たちを救おうとなさるのです。 そこに全世界に対する神の御心があるのです。  幹から離れた私たちを死なしめず幹にしっかり結ばれた者として下さるために、キリストは 十字架にかかられ私たちの罪の贖いとなられたのです。それこそ「御子を信じる者がひとりも 滅びないで、永遠の命を得るため」です。この「御子を信じる」ことこそ教会生活をすること、 教会に結ばれた者になることです。教会はキリストの復活の御身体ですから、私たちは教会に 結ばれることによりキリストの復活の生命に結ばれるのです。神の御前に立ち得ない私たちが キリストの生命に覆われた者として新しい「永遠の生命」に生きはじめるのです。たとえどの ような悲しみや悩みの中にあってもキリストの祝福の生命が変わることなく私たちの全存在 を死を超えてまでも慰め支えて下さるのです。同じヨハネ伝13章1節に「過越の祭の前に、 イエスは、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時がきたことを知り、世にいる自分の 者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」と告げられています。私たちの心を打ってや まぬ御言葉です。主イエスは全世界の「罪」を一身に担われて十字架にかかられるご自分の「時」 が来たことを知られ「世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」のでし た。この「世にいる自分の者たち」とは世の全ての人々をさしています。私たち全ての者のこ とです。なぜなら父なる神はまさしく「自分の者たち」とは呼べない「罪」の塊のような私た ちの救いのためにその独子を世に賜わったかただからです。その独子の十字架によって私たち を「世にいる自分の者たち」と呼んで下さるのです。  ギリシヤ語によれば「愛」には2つの種類の愛があります。第一のエロースは、ただ愛する に値する価値あるものだけを愛する愛です。いわば「価値追求的な愛」です。考えてみれば私 たち人間の愛は全てこれなのです。相手に価値があるからこそ愛するのです。価値がなくなれ ば愛も冷めるのです。その意味では私たちの愛は価値に従属する愛でしかありません。決定的 な限界があるのです。これに対して聖書が全世界に宣べ伝える神の愛は“アガペー”と呼ばれ る愛です。これは相手に愛するに足る価値が無くても、そのあるがままに限りなく愛する愛で す。これは「価値創造的な愛」です。相手にたとえ愛に足るだけの価値がなくても、愛するこ とによってかけがえのない価値を相手に与える愛です。神の愛はそのような愛なのです。価値 に従属するのではなく価値を生み出す愛なのです。主キリストにおいて世に現された「世にい る自分の者たち」を「最後まで愛し通された」愛とはまさしくそのようなものでした。だから こそ先ほどのローマ書5章10節にはこう告げられているのです「もし、わたしたちが敵であ った時でさえ、御子の死によって神との和解を受けたとすれば、和解を受けている今は、なお さら、彼のいのちによって救われるであろう」。  また同じヨハネによるヨハネ第一の手紙4章8節以下にはこうも告げられています「神は愛 である。神はそのひとり子を世につかわし、彼によってわたしたちを生きるようにして下さっ た。それによって、わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を 愛したのではなく、神がわたしたちを愛して下さって、わたしたちの罪のためにあがないの供 え物として、御子をおつかわしになった。ここに愛がある」。ヨハネは喜びと感謝をもって全 世界に宣言します。「ここに愛がある」と!。あたかも私たちがそれまで本当の愛を知らなか った者であるかのごとく、まさしく「ここにこそ真の愛がある」と全世界に宣言しているので す。本当に私たちはこの「愛」を知らなかった。神の愛に生かされる幸いを知らぬままに過ご してきた。神の愛が独子キリストによって私たち一人びとりに豊かに注がれていることを知ら ずに生きてきた。そのような私たちに使徒ヨハネは、あなたもこの福音を聴きなさい。聴いて 復活の生命に連なる者になりなさい。あなたが罪と死の淵から立ち上がる時はいま来ている。 あなたを贖って下さる主はいま来ておられる。あなたを愛しご自分の生命をさえ献げて下さっ た主があなたの救い主でる。だから安心して立ち上がりなさい。平安のうちに歩みなさい。「御 子を信じる者」は「ひとりも」滅びることはない。そのように宣べ伝えつつ、今すでに私たち のもとに来ておられる主の恵みを(救いの御業を)宣べ伝えてやまないのです。  この主はまさしくあなたのために世に来られた。この主はあなたの絶望と死をさえ担って十 字架にかかって下さった。この主のもとにこそ永遠の生命があるのです。私たちの生きるべき 本当の幸い、本当の自由、本当の感謝と喜びが、この十字架の主のもとにこそあるのです。主 は教会において、教会を通して、全ての人々を永遠の生命に招いておられます。この主の御招 きに喜び勇んで従う私たちでありたいと思います。 「主はわが牧者、われ乏しきことあらじ。 主はわれを緑の野に臥させ、いこいの水際にともないたもう」。神が独子を世に与えたもうた 恵みによって、私たちはいまかけがえのない神の民とされ、永遠の生命に歩む者とされている のです。