説     教    創世記1章1節   ヨハネ福音書21章25節

「キリストの御業」

2011・09・11(説教11371394)  ヨハネによる福音書は「初めに言があった」という1章1節にはじまり今朝の21章25節で 締めくくられます。それは共に永遠の神の御子であられる主イエス・キリストの御業と、その 御業による私たちの救いの確かさ、キリストの十字架による限りない恵みを讃美する「証し」 (テスタメント)の言葉です。何よりも今朝の御言葉である21章25節に改めて心をとめましょ う。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるならば、 世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」。そこでこの25節の御言葉ですが、 これは古代世界における重要な歴史文書の末尾に書かれる常套句であって、それを福音書記者 ヨハネは踏襲しただけなのだという見方があります。事実この25節に似た慣用的表現は古代 の文書に多く見られます。しかし本当にヨハネはそれだけの理由でこの25節を記しているの でしょうか。そうではないと思うのです。  何よりもヨハネは前の24節において「これらの事(神の福音)についてあかしをし、また これらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、わたした ちは知っている」と書きました。つまり聖書が私たちに告げている福音の本質は、神が、神か ら全く離れてしまった罪人なる私たち、そしてこの世界の救いのために独り子イエス・キリス トを世にお与えになったという出来事にあるからです。この救いと祝福の出来事をヨハネは教 会を通して神から受け、自分はその出来事(福音)の真理であることを「あかしする」のだと 言うのです。この「あかしする」とは「讃美・告白する」という意味の“マルテュリア”とい う言葉です。のちには「殉教者」という意味にもなりました。たとえ自分の生命を献げてもこ の福音(神が独り子キリストを世に与えて下さった出来事を)人々に宣べ伝えずにはおれない。 そこにこそ全ての人のまことの救いがあり、人間が人間たり世界が世界たりうる唯一の救いと 慰めと希望と喜びと幸いがあるとヨハネは語るのです。言い換えるならこれは少しも自分自身 から出た言葉ではない。神が御子イエス・キリストによって全ての人々に与えて下さった「福 音」なのです。  このような恵みを知ればこそ、ヨハネはこの福音書の最後にいみじくも書かざるをえません でした「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけるなら ば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」と。これはある意味ではまこと に単純なことであり、掛値なしにこのまま私たちが「アーメン」と同意せざるをえぬ事柄です。 「イエスのなさったことは、このほかに(も)まだ数多くある」ということ、それは本当にそ の通りではないでしょうか。私たちが知らない主イエスの御業、私たちの心に収まりきれない 主イエスの愛が、この世界には満ち溢れているのです。私たちは主によって救われた僕たちで すが、私たちはキリストの御業のほんの一端に触れたにすぎないのです。キリストは昔も今も 永遠に変わりたもうことなく私たちと共にあられ、数限りない救いの御業を世に現わしておい でになる。それこそ「もし(主イエスの御業を)いちいち書きつけるならば、世界もその書か れた文書を収めきれない」のです。それはどういう意味でしょうか。現代はIT技術の発達に より厚さ数ミリのチップに大きな図書館の文書を全部おさめるということも可能になりまし た。私のパソコンにさえ数百冊もの英語やドイツ語の神学書がダウンロードされています。い つでも自由に読むことができるのです。パソコンひとつあればどこでも書斎に早変わりしてし まう時代なのです。では、そうした技術がまだなかった羊皮紙やパピルスの巻物に葦のペンで 文字を記していた古代であればこそ、ヨハネのような言い回しが成り立ったのでしょうか。も ちろんそういうことではありません。  今朝の御言葉が私たちにはっきり伝えていることは、たとえどのような時代であっても、い や今日においてこそいよいよ明らかに神の御言葉そのものである主イエス・キリストがこの世 界の唯一の救い主であるという事実です。今朝の説教の題を「キリストの御業」としました。 「御業」というこの言葉を昔の旧日基の先輩たちは「事業」と訳しました。そこで植村正久ら の先輩たちが思ったのはこういうことです。私たちは「事業」と聞くとすぐに、この世界こそ 事業の舞台であり、この世界より大きな事業は存在しないと考える。たとえばある所にビルを 建てる場合、そのビルの大きさは土地の大きさや地盤の状態によって制限される。ダムを作る 場合にはそのダムは谷の広さや貯水量によって大きさが決まるのです。しかし、キリストがな される事業(御業)には制限がないのです。それはこの世界に何か新しい“もうひとつ”を加え るものではない。ただキリストの事業のみがこの世界そのものを形成し、この歴史そのものを 救う力なのです。言い換えるならキリストの御業は私たちを救うためになんの制約も持たない のです。私たちはただ信仰により無条件で救われるのです。それこそこの世界を真に世界たら しめ、私たちを罪の支配から解放し、真の神の子となして下さる唯一の救いの事業なのです。 それをキリストは成し遂げて下さった。だからこそ十字架の上で「すべて事終わりぬ」と宣言 して下さったのです。この事業は十字架の死と葬りそして復活によって完成されたと、キリス トみずから全ての者のために宣言して下さったのです。  このことについて今から1500年ほど前に活躍した古代教父アウグスティヌスはたいへん興 味ぶかいことを申しました。アウグスティヌスは「神の言葉は、つねに指し示す事柄を超えて 私たちを導く」と語るのです。それこそがここでヨハネが「世界もその書かれた文書を収めき れない」と語った理由だと言うのです。これは少し説明が必要かもしれません。言葉というも のはある意味でこの世界の中だけのものです。たとえば私たちが「ネコがいる」というばあい、 その言葉はこの世界に現実に「ネコ」という動物がいるから成り立つわけです。もしネコが存 在しなければ「ネコがいる」という言葉そのものが意味を持たなくなるのです。しかしそれに 対して、神の言葉(信仰の言葉)は決して言葉では示されえない事柄、すなわちこの世界を超 えた世界の創造主なる神ご自身の愛と御業とを、あらゆる言葉を超えて私たちに示すものです。 その最もよい例が創世記1章1節です。そこには「はじめに神は天と地とを創造された」とあ ります。これは言葉ですが、同時に言葉を超えた、この世界に対する大いなる祝福と救いの出 来事へと私たちを導くものです。私たちは神が世界をお造りになったその「はじめ」を知るこ とはできません。しかし「はじめに神は天と地とを創造された」とあるまさにこの御言葉によ り、神はこの世界のあらゆる出来事と歴史を通して私たち一人びとりを導いておられること。 私たちに限りなく尊いものを得させようとして、手塩にかけて私たちを養い育て導いておられ ることを知るのです。言い換えるなら私たちは神の御言葉(主イエス・キリスト)によっての み、この世界を超えた出来事すなわちこの世界を世界たらしめる唯一の主なる神へと導かれる のです。「神の言葉は、常にさし示された事柄を超えて私たちを導く」とはそういう意味です。  神はこの世界をご自身の測り知れない愛によって創造された(お造りになった)のです。こ の世界また私たちの存在は無目的偶然にここにあるというものではなく、私たち全ての者は神 の測り知れない愛によって存在あらしめられているのです。私たちには神の限りない愛が無限 に注がれているのです。それは私たちの救いのために御子イエス・キリストをさえ与えて下さ った出来事(福音の本質)に示されているのです。これは本来なら、罪によって神を見るまな ざしを失っていた私たちにとっていかなる言葉によっても決して知りえなかった事柄です。私 たちの言葉は、否、私たちの存在そのものが罪によって明確な限界を持つからです。IT技術の 進歩も罪によってまことの神から離れてしまった私たちの現実の前には全く無力なのです。た だ私たちの罪のどん底にみずから激しい苦難を受けつつ降って来て下さり、そこで私たち全て の者のために果てしなき悩みと御苦しみをお受けになり、十字架上に御自分の全てを献げ抜い て下さったまことの神の唯一の御子イエス・キリストのみが、私たちを罪と死の支配から贖い 救って下さる唯一の救い主であり、私たちを導きこの世界を世界たらしめ、歴史を正しく導く “造り主なる神”であられるのです。  そこで私たちはこのかたによっていっさいの罪を贖われ、主の復活の生命に連なる教会に招 き入れられているのですから、そこで私たちの言葉もまた互いに主の家である教会を建てるも の、主にある真の交わりを造るものとして祝福され用いられてゆくのではないでしょうか。逆 にこの恵みから離れるとき、私たちは自分の思いばかりが中心になり、お互いに傷つけあった り審き合う言葉の貧しさに陥るのです。私たちは既にそこから主によって本当に自由な者とさ れ、互いにキリストの恵みを讃美し喜び祝福を共にする本当の愛の交わりへと導かれているの です。自分の考えや意見を中心にしておのれの義を立てるのではなく、互いにキリストに仕え る道を歩む喜びに私たちは満たされているのではないでしょうか。それならば大切なことは、 本当に私たちみながこの世界よりも大きなキリストの御業を、この世界の罪を贖われたキリス トの愛を「証し」する群れに成長してゆくことです。現にそのような群れに成長する恵みを主 から豊かに戴いている私たちなのです。そのようになるとき、初めて教会に来た人々は私たち の礼拝に接し、また私たちの交わりを見て、そこに本当に「まことにあなたがたの内に神がい ます」という告白へと導かれてゆきます。伝道の前進とはそういうところにこそもっとも確実 に現されてゆくのです。また、そういう真のキリストのみを中心とする「聖徒の交わり」を実 現できるのが私たち改革長老教会なのです。  キリストのなさった救いの御業は、この世界さえも収めきれないほど限りなく豊かなものな のです。キリストは常に先立ち行きたもうのです。私たちをいつも導き養いたもうて測り知れ ない御手をもって祝福し御言葉によって強めていて下さるのです。ここに本当の主の御身体な る教会、全ての人に救いの喜びを宣べ伝える聖なる公同の教会を建てしめたもうために、私た ち全ての者を、たとえ病床にあってさえも豊かに用い祝福して下さるのです。そして主は全て の人々を、この全世界と歴史そのものを、救いと慰めと真の平和へと招いておられるのです。