説     教    詩篇78篇9〜11節  ヨハネ福音書21章24節

「テスタメント」

2011・09・04(説教11361393)  幕末の志士であり、松下村塾を設立して幾多の人材を育んだ吉田松陰は、日本の将来を憂え る思いから海外への渡航を企てます。しかし志半ばにして捕らえられ安政の大獄で処刑される のです。彼が密航を企てる数日前に鎌倉の瑞泉寺を訪ねています。当時瑞泉寺の住職が松陰の 伯父にあたる人物で、松陰はこの人にひそかに自分の壮途を打ち明けています。この瑞泉寺で 松陰は「留魂録」という遺言書を書きました。これは「身はたとひ武蔵の野辺に朽つるとも定 めおかまし大和魂」の歌に始まり、鎖国を続ける徳川幕府に対して国家の行くべき道をさし示 す、今日読んでも私たちの胸に迫る格調高い遺言書です。今でも瑞泉寺の境内には「留魂碑」 の碑が建っていて松陰の志を今日に物語っているのです。  ところで松陰はこの遺言書「留魂録」を「自分にもしものことがあらばこれを後世の人に伝 えて欲しい」との願いをこめて2人の人物に託しました。一人は維新の志士、もう一人は極悪 人でした。ところが松陰の死後、維新の志士はこの留魂録をほどなく紛失してしまいます。そ れはこの志士にとっては松陰の遺言書より自分の思想のほうが大切だったからです。自分の名 を後世に伝えんとして留魂録をぞんざいに扱い紛失してしまったのです。では極悪人のほうは どうであったかと申しますと、彼は自分のような極悪人に松陰先生のような立派なかたが大切 な遺言書を預けて下さった、その心に感激しまして松陰の言いつけをよく守り後生大事に肌身 離さずこの遺言書を命がけで守りました。そのおかげでこの極悪人の名は忘れられても、私た ちは今日松陰の留魂録を読むことができるわけです。  聖書のことを英語で“テスタメント”と言う場合があります。旧約なら“オールド・テスタ メント”新約聖書なら“ニュー・テスタメント”です。そこでこの“テスタメント”という言 葉は「契約」と訳されますが、もともとは「遺言」という意味です。もちろん主なる神は永遠 から永遠までも存在し生きておいでになる「有りて有りたもう」かたですから、その「遺言」 は神の死が前提なのではないことは申すまでもありません。そうではなく、この「遺言」とい う言葉の意味は「決して変わることのない救いの契約」です。「遺言」はそれを書いた人以外 は決して書き換えることができない文書です。同じように主なる神は御子イエス・キリストに よって絶対に変わることのない救いの約束(契約)をこの世界に与えて下さった、その契約書 が聖書です。それは言い換えるなら、御子イエス・キリストご自身を私たちの世界に与えて下 さったことです。キリストご自身が「新しい契約」の内容でありその保障なのです。それは神 からの一方的な恵みです。ふつう私たちが「契約」という場合は、相互契約(コントラクト) です。つまり「私もあなたとの約束を守るから、あなたも私との約束を守りなさい」という相 互平等の立場に立つ約束事です。しかし主なる神が私たちとの間にお立てになった契約はそう いう相互平等契約などではありません。  何よりも、神と私たちとは平等対等な立場などではありえません。神は永遠に聖にして義な るかたであり、私たちは神の御前に滅ぶべき罪人です。私たちの側から契約の保証を差し出そ うにも何ひとつとして相応しい担保(義とされるに足るもの)がない私たちなのです。しかし、 だからこそ神はそのような私たちのためにご自身の最愛の御子イエス・キリストを私たちの罪 の贖い(犠牲・担保)として与えて下さいました。何ひとつ義とされるべきもののない私たち のために神ご自身がキリストによる永遠の義を救いの保障としてお立てになり、そこに私たち を無償で招き容れて下さったのです。ここに聖書が語る「福音」(テスタメント)の本質があり ます。ですから私たちは主イエス・キリストから恵みを受けるばかりの存在なのです。信仰に よって自分を主の御業のために献げるときにも、私たちは「主から受けたものをお返しする」 のみです。むしろ自分を献げることによってキリストの測り知れない恵みをより豊かに受けて いるのみなのです。こういう契約をテスタメントと言うのです。神の側の一方的な無償の救い の約束だからです。私たちの救いは少しも私たちの義ではないということ。ただキリストの義 キリストの清さキリストの正しさキリストの恵みのみが、私たちの変わらぬ唯一の救いなので す。それが聖書が告げる救いの本質です。私たちの側の条件は何ひとつとしてないのですから、 その救いのみが本当に変わらぬ確かなものなのです。私たちのこの教会はそのことを世に証し 続ける群れです。キリストによる救いの確かさを世に証する群れなのです。  今朝の御言葉・ヨハネ福音書21章24節にはこうありました。「これらの事についてあかし をし、またこれらの事を書いたのは、この弟子である。そして彼のあかしが真実であることを、 わたしたちは知っている」。ここに「これらの事」と申しますのは、ヨハネ福音書において語 られた全てのテスタメント(福音の真理)のことです。それは使徒ヨハネが勝手に考えて書いた ものではない。ヨハネはただ「これらの事(福音)についてあかしを」したのみです。この「あ かし」とは心から信じ「アーメン」と告白すること、そしてキリストの教会に連なり礼拝者と して生きることです。ギリシヤ語では“マルトゥリア”という字ですが、これは元々は「讃美 礼拝」という意味でありのちの時代には「殉教者」という意味にもなりました。そこで今朝の この24節にはこのヨハネの「あかし」に対する私たちの側の「同意」があらわされています。 それが「そして彼のあかしが真実であることを、わたしたちは知っている」とあることです。 神の御子イエス・キリストによって、その御降誕と御生涯そして十字架の死と葬りと復活と昇 天により、この世界に神の“テスタメント”(決して変わることがない救いの契約)が現わさ れたのです。その福音を、使徒ヨハネは心から信じ“アーメン”と告白して、主の教会に連な る僕となった。それはさらに彼の「あかし」すなわちこのヨハネ福音書を読む私たち一人びと りにも同じ「イエスは主なり」との信仰を与え、キリストに対して“アーメン”と告白せしめ、 教会に連なる礼拝者とするものなのです。そういうことを今朝の24節は明らかにしているの です。  すると、大切なことは何でしょうか?。使徒パウロは第一コリント書15章3節以下に「わ たしが最も大事なこととしてあなたがたに伝えたのは、わたし自身も受けたことであった」と 語っています。これはとても大切なことです。つまり私たちの救いの根拠は少しも私たちの中 にはない。それはただイエス・キリストの御業にのみあるのだということです。「受けた」と はそういうことです。「内なる救い」ではなく「外なる救い」です。言い換えるなら、キリス トの御業、キリストによる永遠の救いの出来事の中に私ども一人びとりがあるがままに招き入 れられている。それがパウロの言う「わたし自身も受けたことであった」ということです。だ からパウロは続けてキリストの御業のみを語っています(15章3節以下です)「すなわちキリ ストが、聖書に書いてあるとおり、わたしたちの罪のために死んだこと、そして葬られたこと、 聖書に書いてあるとおり、三日目によみがえったこと、ケパに現れ、次に、十二人に現れたこ とである」。そしてパウロはさらに7節以下にこう申します「そののち、ヤコブに現れ、次に、 すべての使徒たちに現れ、そして最後に、いわば月足らずに生まれたようなわたしにも、現れ たのである。実際わたしは、神の教会を迫害したのであるから、使徒たちの中でいちばん小さ い者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。しかし、神の恵みによって、わたしは 今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わった神の恵みはむだにならず、むしろ、 わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかしそれは、わたし自身ではなく、わたし と共にあった神の恵みである」。  まさにパウロもまたここで「あかし」をしているのです。自分が全ての罪を赦されてキリス トの僕とされたことも、使徒として誰よりも多くの働きをしてきたことも、全ては少しも自分 のわざではない。それはただ「わたしと共にあった神の恵みである」と言うのです。ですから 私たちはパウロの手紙を読むときにも、ヨハネによる福音書を読むときにも、まさしくそこに おいて「わたしと共にあった神の恵み」だけを見いだすのです。それを神の言葉、福音として のみ読み取るのです。そしてヨハネと共に、またパウロと共に同じ信仰に立ち「イエスは主な り」と告白し、同じ主の教会に連なり礼拝者として歩むのです。  カルヴァンは「道を伝えて己を伝えず」「ただ神にのみ栄光あれ」と申しました。この姿勢 こそ私たちの教会にいつも漲り溢れる福音宣教の使命でありその喜びの根源なのです。松陰の 留魂録を守り伝えたあの極悪人は自分を伝えずして松陰の言葉だけを世に伝えました。それな らばなおさら私たち一人びとりは、まことの主イエス・キリストに仕える僕として溢れる信仰 の志と喜びと慎みを持って生きる僕たちとされているのではないでしょうか。そこにこそ私た ちの本当の幸いがあるのではないでしょうか。それをパウロは「この土の器にも」という言葉 であらわしました。私たちは「土の器」のような脆く壊れやすく卑しいものに過ぎない。しか し主なる神は「この土の器」にすぎない私たちに溢れるばかりの福音の宝を与えて下さった。 テスタメントを与えて下さった。御子イエス・キリストを与えて下さった。生命なき者に永遠 の生命(まことの神との永遠の交わり)を与えて下さった。その喜びと幸いに、私たちを、ま たこの世界を甦らせて下さったのです。  私たちはときどき日曜日ごとに礼拝を献げるキリスト者の生活が不自由で窮屈なもののよ うに思うことがあるかもしれません。しかし主が私たちのような罪人のかしらに「テスタメン ト」を託して下さったことを思うとき、私たちのため、私たちのいっさいの罪を背負って十字 架に死なれ贖いとなられた御子イエス・キリストに従う礼拝者の生活こそ本当に自由な喜びに 満ちた軽やかなものであることを知るのです。教会は陰府の門にさえ打ち勝つ唯一の神の家な のです。そこに連なって生きる私たちはすでに主の復活の生命を戴いているのです。 それゆ え教会に連なって生きる私たちは、ここにおいて自分が生きるべき本当の「からだ」(生命) を戴いています。永遠にキリストの愛と祝福の内を歩む復活の身体を、私たちはこの教会にお いて主の御手から豊かに与えられているのです。そのキリストの極みなき愛に支えられ生かさ れてはじめて私たちは朗らかな自由に満ちた「土の器」とされてゆくのです。  あるがままに、私たちの存在が、私たちの生涯が、私たちの日々の務めが、キリストの愛の 素晴らしさ、キリストの救いの尊さを物語り始める、それは何という幸いでありましょう。ヨ ハネも、パウロも、世々の聖徒たちも、その幸いに生きた人々です。そして私たちもまた「こ れらの事についてあかしを」する僕とされている。テスタメントであられるキリストに連なる 者とされているのです。