説    教   イザヤ書43章4節  ヨハネ福音書21章20〜23節

「全てに勝れる価値」

2011・08・28(説教11351392)  今朝の礼拝で私たちに与えられた御言葉はヨハネ福音書21章20節から23節です。主イエ スによって再度の召命を与えられ使徒としての新たな歩みを始めたペテロ、そのペテロに主 イエスは「わたしに従ってきなさい」と御言葉をお与えになりました。それが19節までのと ころです。これはここに集う私たち全ての者に主がいま与えておられる御言葉です。「わたし に従ってきなさい」。この主イエスの御言葉が私たちの日々の生活を作る原動力です。私たち はいつどこにいても「わたしに従ってきなさい」との主イエスの御声を聴きつつ歩む僕たち です。主はどのような時にも変わらず私たちと共にいて下さいます。ペテロが再度の召命を 受けたということは、この変わらぬ恵みの内を歩む者にされたことです。  ところが、今朝の御言葉である20節を見ますと、そこでペテロは「ふりかえる」という罪 をおかしています。主イエスは「手を鋤にかけてから、うしろをふり返る者は、神の国にふ さわしくない」と言われました。その意味でペテロはいま召命を受けたばかりなのに主イエ スから心が離れ後ろを「ふりかえる」という罪をおかしているのです。すなわち20節に「ペ テロはふり返ると、イエスの愛しておられた弟子が、ついて来るのを見た」ことです。そし て「この弟子は、あの夕食のときイエスの胸近くに寄りかかって、『主よ、あなたを裏切る者 は、だれなのですか』と尋ねた人である」と記されています。この「弟子」とはおそらくこ のヨハネ福音書を書いた使徒ヨハネ自身であったと思われます。その有力な証拠として2世 紀の神学者エイレナイオスが使徒ヨハネの弟子であったポリュカルポスから直接聴いた話と して「そののち、主の御胸によりかかっていた主の弟子ヨハネは、アジヤのエペソにいた時、 彼の福音書を出した」と伝えています。このことはまた使徒ヨハネがローマ皇帝トラヤヌス が即位した西暦98年まで、小アジヤのエペソに滞在していたというエイレナイオスの記録と も合致するものです。  ともあれペテロはこの弟子、つまり「イエスの愛しておられた弟子」(使徒ヨハネ)を振り 返って主イエスに「主よ、この人はどうなのですか」と問うたのでした。ペテロにしてみれ ば、自分は主イエスから再度の召命を戴き新しい牧者としての務めが託されたのに、この愛 弟子(ヨハネ)に対しては主のお言葉がないことに不安と疑問を感じたのかもしれません。 それでペテロは、私だけではなくこの兄弟弟子はどうなるのですかとヨハネのことを気遣っ たつもりだったのです。そこにはペテロとヨハネとの親しい関係がありました。最後の晩餐 の席でも、復活の報せを受けて墓に出かけた時にも、またガリラヤ湖での大漁の時にも、い つもペテロとヨハネは行動を共にし、励まし助け合い親しく言葉を交わしています。同じガ リラヤのカペナウム出身であり、幼馴染であったことも彼らの関係の親しさを裏付けるもの です。  しかしペテロとヨハネの関係は、ただ互いに「似た者どうし」だから親しかったというこ とではないのです。むしろペテロとヨハネは正反対とも言うべき対照的な性格の持ちぬしで した。ペテロが何につけて行動優先の人であったのに対して、ヨハネは沈思黙考型の人でし た。ペテロが激情家であったのに対してヨハネは穏やかな性格の人でした。いわばペテロは 「動の人」でありヨハネは「静の人」であったということが言えるのです。しかしヨハネに は、ペテロには無いすぐれた賜物がありました。それはヨハネには霊的な洞察力があったこ とです。それは他の弟子たちが十字架を恐れて身を隠していた時にも、ヨハネただ一人は主 の御そばに立ち続けていたこと、また主イエスの墓が空で亜麻布が置かれていたのを見て主 の復活を信じたのはヨハネだけであったこと、あるいはガリラヤ湖で大漁のしるしを見てい ち早くそれが主であることを悟ったのもヨハネであったこと、などからもわかります。ペテ ロはこうしたヨハネの霊的な洞察力に感服し、彼を信頼し、尊敬していたからこそ「主よ、 この人はどうなのですか」と、主イエスに訊ねているのです。  しかし、これに対する主イエスのお答えはまことに厳しいものでした。「たとい、わたしの 来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係わり があるか。あなたは、わたしに従ってきなさい」。と主はペテロに言われたのです。この主の 御言葉は、主の弟子たちやその後に続く初代教会の人々の間にヨハネに対するある種の噂を 生みました。それは今朝の23節にあるように「こういうわけで、この弟子は(つまりヨハネ は)死ぬことがないといううわさが、兄弟たちの間にひろまった」とあることです。それに 対して「しかし、イエスは彼が死ぬことはないと言われたのではなく、ただ『たとい、わた しの来る時まで彼が生き残っていることを、わたしが望んだとしても、あなたにはなんの係 わりがあるか』と言われただけである」とヨハネ自身がその噂を否定しています。つまりヨ ハネは奇妙な解釈をした人々に対して、主の御言葉を正しく聴くべきことを教えているので す。  この事柄の背景には、初代教会における使徒ヨハネに対する個人崇拝のようなものがあっ たと思われます。使徒としてのヨハネの働きが余りにも素晴らしいものであったため、いつ のまにか教会の中に「ヨハネ先生は死ぬことが無い。それは主イエスも保障しておられたこ とだ」というような分限を超えた使徒崇拝が起っていたのではないでしょうか。それに対し てヨハネは「神の御言葉を正しく聴き、ただ主イエスにのみ従いなさい」と教会の人々に訴 えているわけです。ここにもヨハネという人がいつもただキリストのみを証する真の伝道者 として教会形成の働きをなし、主の御業のみを現していたという事実が現れているのです。  さて、ペテロに対してでした。ペテロに対して主イエスは、ペテロが「手を鋤にかけてか らうしろを振り返って」いることを叱責されたのです。信仰とはひたすらにキリストを仰ぎ 見て進むことです。言い換えるなら「主が私を招いておられる」という恵みの事実にひたす ら忠実に立つことです。主の御招きが第一なのです。主がペテロに「わたしに従ってきなさ い」と言われた以上ペテロは自分の生活の全てをその恵みの事実の上に立てるべきなのです。 ところがペテロはその恵みの事実から離れて周囲を見回し「この兄弟弟子はどうなのですか」 と後ろを振り返ったこので、主イエスに叱責されたのです。これは「信仰生活においては他 人のことはどうでもよい、ただ自分のことだけを考えていなさい」という意味ではありませ ん。むしろその逆です。自分のことも他者のことも、罪の贖い主なる主イエス・キリストを 中心に考えなさい、見つめなおしなさいという意味なのです。私たちは何かにつけて自分と 他人とを比較したがるものです。しかし比較による評価は相対的であり、その中心に立つも のはいつも自分に過ぎません。自分を中心に他者をまた社会や世界をいかに解釈し評価しよ うとも、その評価というものは自分の価値観や経験から一歩も出ない、つまり罪と死の支配 から一歩も外に出ないものなのです。そして結局のところ、自分が気に入ったから良い、気 に入らないから駄目だというように、自分が神に成り代わる危険があるのです。さらに突き 詰めるなら、相対的評価の行き着く先はいつも絶望でしかないのです。人間の限界に絶望し、 自暴自棄になるか、あるいは適当なところで妥協して何事にも無感動・無関心になるか、そ のいずれかでしかないのです。そしてこれは現代社会全体が陥っている大きな危険であると 思います。  最近の痛ましい事件の数々を想います。自分の妻と子供を殺してその遺体を一斗缶の中に 入れて捨てたという事件もありました。私たちはそれを特殊な人間の異常な事件だと思うで しょう。たしかにそうです。しかしあのような無残な事件の背後には現代社会が人間の価値 を見失っている病理が潜んでいます。あらゆる情報が氾濫している一方でそれを受け取る人 間の側に善悪を判断する基準が無くなっているという問題があるのです。際限なく流れる情 報の波の中でいちばん大切な主の御声を聴きえなくなっているのです。人間が孤立している のです。この悲劇は現代社会全体に蔓延した根本的な問題の氷山のほんの一角です。人間が まことの神を見失って放浪しているということ、言い換えるなら「あなたは、わたしに従っ てきなさい」と招きたもう主イエスの愛と恵みを見失っていることに根本原因があるのです。  それは私たち自身の問題でもあります。私たちもまた信仰生活の中で「主よ、あの人はど うなのですか」と自分と他者とを比較して評価するとき、いまこの私を主が招いておられる という恵みの事実を忘れて簡単に「後ろを振り返る」者になってしまうからです。その罪に 陥ったペテロに対して主イエスは「あなたは、わたしに従ってきなさい」と改めて招きの言 葉をかけて下さいました。自分を中心にする価値観からキリストを中心にする生命の祝福へ と主はペテロを変えて下さいました。使徒とは「遣わされた者」という意味ですが、主はま さにこの生命の祝福を全ての人々に携え行く恵みの全権大使としてペテロをお遣わしになる のです。  使徒行伝3章1節以下を見ますと、ペテロとヨハネがエルサレムの「美しの門」の傍らに「置 かれていた」人に対して「金銀はわたしには無い。しかし、わたしにあるものをあげよう。 ナザレ人イエス・キリストの名によって歩きなさい」と告げた出来事が記されています。そ のとき立ちえなかったその人が健やかに立ち上がり、神を讃美しつつ歩む者に変えられたの でした。それはペテロとヨハネの使徒としての生涯を象徴する出来事であると同時に、私た ち一人びとりにも主なる神は同じ祝福の力を、神を讃美しつつ歩む喜びの人生を、主イエス・ キリストの御名によって与えておられるのです。  今朝あわせて拝読したイザヤ書43章4節に「あなたはわが目に尊く、重んぜられるもの」 とありました。そこでは主はこう言われるのです。わたしはあなたを愛するがゆえに、あな たの代わりに人を与える」と。実はこの「人」とは神の御子イエス・キリストのことです。 神はその最愛の独子キリストを世にお与えになったほどこの世を、私たちを限りなく愛して 下さったかたです。ヨハネ伝3章16節「神はその独り子を賜わったほど、この世を愛して下 さった。それは御子を信ずるものが一人も滅びないで、永遠の生命を得るためである」。ペテ ロもヨハネも、そしてここに集う私たち全ての者も、ここに連なれなかった病床の兄弟姉妹 も、みな神が御自身の御子キリストを与えたもうたほどに極みなき愛をもって愛しておられ るかけがえのない人格であり、主に愛され主の御業へと遣わされている者たちです。私たち にとって大切なことは、主が私たちを「全てに勝れる価値」として立てて下さったことを知 り「汝はわが目に値高し」と宣言して下さる主の招きに従うことです。  どうか私たちはこの新たな一週間の歩みをも、キリストの愛と恵みにおいて主の御招きに応 える歩みを続けて参りたいものです。「わたしに従ってきなさい」との主の招きに従い、十字 架の主のみを見上げ、教会に連なり、教会に仕え、信仰の志において揺るぎなき群れへと成 長して参りましょう。