説    教  エレミヤ書23章1〜6節 ヨハネ福音書21章18〜19節

「われに従い来たれ」

2011・08・21(説教11341391)  私たち人間の歩みは様々な出来事に満ちており、人生を織り成す縦糸と横糸は複雑に絡み合 い文字どおり「一筋縄ではゆかない」ものです。自分が計画していたことではない全く別の道・ 別の計画へと導かれてゆくことがあります。そうした中で私たちは、自分の願いや計画が叶え られた人生は“幸福な人生”そうでなかった人生は“不幸な人生”だと思いこみやすい。この 世界は神の統治したもう世界であり、私たちの人生は神の聖なる御心が成就する神の御業の現 れる場所です。私たちは自分の人生の「主」とはなりえず、この世界もまた世界の「主」とは なりえません。むしろ私たちの人生と世界がまことの「主」を必要としているのです。幼稚園 教育の開拓者ペスタロッチは「子供を不幸にする最も確実な方法は、子供が欲しがるものを何 でも無条件で与えることである」と語りました。「千と千尋」というアニメに思い通りにならな いと暴れる「坊」という赤ちゃんの怪物が登場してきます。赤ちゃんなのに巨大なのです。そ れはそのままに本当の「主」と本当の幸いを知らずにいる現代社会の姿ではないでしょうか。  もしこの世界が私たちの願いや計画が全て実現することで「幸福の条件」あるいは世界存立 の法則となす世界であるなら、そのような世界はたいした世界ではありません。それは人間を して滅びへと向かわしめるまことに恐ろしい虚無的な世界であると申さねばなりません。そう ではなく、この世界は私たちを限りなく愛し私たちの救いのために独子をさえ惜しみなく賜わ ったほど世を愛したもう神が統治しておられる神の御心の成就する世界です。神が私たちのた めに崇高な目的をもって創造された世界です。そこにはおのずから神が私たちに見出させよう としておられる、そこに私たちを導いておいでになる、私たちの本当に幸いな歩みがあるので す。  主イエス・キリストによって再度の召命を与えられたペテロは、今度は主イエスによって新 しい使徒たる生涯へと送り出されてゆきました。それが今朝の御言葉21章18節以下に記され た出来事です。「よく、よく、あなたに言っておく。あなたが若かった時には、自分で帯をしめ て、思いのままに歩きまわっていた。しかし年をとってからは、自分の手をのばすことになろ う。そして、ほかの人があなたに帯を結びつけ、行きたくないところへ連れて行くであろう」。 この言葉は一読したところ、ペテロが若い時には自分のしたい放題自由に歩んでいたけれど、 これからの人生はそうはゆかない。あなたは年老いてから自分の願いは実現できず、無理やり 「行きたくない所」に連れてゆかれる不自由を強いられるのだと主イエスが語っておられるよ うに見えるのですが、そういうことではありません。使徒パウロは「神は耐えられない苦難に 私たちを遭わせ給わない」と語りました。このことは逆に申しますなら、神は私たちが耐えら れる苦難だけを私たちにお与えになるということです。つまり「われなし得るゆえになすべき なり」ではなく「われなすべきゆえになし得るなり」ということが真の幸いへの唯一の道なの です。私たちの人生は偶然自然にそこに「ある」ものではなく、尊い目的を持った主なる神が 導き祝福して下さっているものである。この事実が大切なのです。私たちは人生へと絶えず新 たに招かれているのです。主に召されている自分であるという事実こそが大切なのです。  奈良の法隆寺や薬師寺の大改修工事に携わり、宮大工として20世紀最高の技術者と言われた 棟梁が「木に学ぶ」という本を書きました。とても良い本です。棟梁の務めの中でいちばん難 しいのは弟子(後継者)を育てることである。だから棟梁はなによりも「叱り上手」であらね ばならない。生半可な叱りかたではかえって弟子の力(可能性)を殺してしまうことになる。 真剣に心から弟子の将来を思って厳しく叱れる「怖い棟梁」になることが大事だと言うのです。 そのために棟梁には弟子が「なすべきこと」「果たすべき目標」がきちんと見えていなければな らない。これは優れた技術者の心構えですが、まして主イエスと弟子たちとの関係においては それ以上のことが言えるのではないでしょうか。主イエスは、限りない信頼を持って使徒ペテ ロの行く手を叱り祝福しておられるのです。これを日本語では餞別の「餞」と書いて「はなむ け」と申します。「はなむけ」という言葉はもともと「馬の鼻づらを向ける」という意味です。 遠い旅に出る人を親しい友や家族が馬の手綱を手に取って峠の頂上まで見送り、そこで馬の鼻 先をこれから旅ゆく方向に向けて旅の祝福と安全を祈った故事に由来しているのです。それで 「はなむけ」と言うのです。まさしく主イエスはペテロのために「はなむけ」をして下さって おられるのです。今まではあなたは自分の心のままに歩んできた。しかしこれからはそうでは ない。ペテロよ、あなたはこれからの人生を「使徒」として、私の忠実な僕として、主なる神 の御心のままに歩み、神の栄光を現わす人となりなさい。そして死に至るまで変わることなく、 全ての人々に神の救いと祝福とを告げる器となるのだ。そのように主イエスははっきりとペテ ロに「はなむけ」をして下さっておられるのです。それはペテロだけではなく、私たち一人び とりに対しても主は同じように「はなむけ」をして下さっておられるのです。私たちの全存在・ 全生涯を限りなく祝福していて下さるのです。  事実ペテロは主イエスの御言葉のままに、ローマにおいて殉教の死をとげるまで勇敢かつ忠 実に「主の僕」として福音の証人となりました。ペテロについて語られたある説話の中にこう いうものがあります。ローマにおいてキリスト者に対する迫害は日ましに激しくなるばかりで あった。そこでローマ教会の長老たちはある日ペテロに申し出るのです。ペテロ先生どうかし ばらくこのローマから離れて安全な場所に避難して下さい。迫害の嵐が通り過ぎるまで安全な 地方に逃げて下さい。あまり熱心に長老たちが勧めるのでペテロは彼らの意を汲みましてロー マから避難することにしました。ところが、ペテロが供の少年を連れて昼下がりのアッピア街 道を歩いていますと、向こうのほうから一人の白い衣を着た人が歩いてくるのが見えた。近づ くにつれてそれはなんと復活の主イエス・キリストであられることがわかった。ペテロは驚い て主に訊ねます「主よいずこに行きたもう」(Quo vadis Domine?)と。主は答えられた「ロー マへ」。そしてこう言われたのです。「もし汝がわが羊の群れを捨ててローマを去るなら、われ 再び十字架にかかるためにローマに赴かん」。そこでペテロは決然としてローマに引き返し、そ こで迫害のもとで苦しみ信仰に動揺をきたしている信徒を励まし御言葉を宣べ伝え、やがて捕 吏の手にかかってローマを見下ろす丘の上で処刑されるのです。そのときペテロは、自分はか つて主イエスを3度も裏切った人間である。そのような自分が主と同じ十字架にかかって死ぬ ことは勿体ない。どうか自分を逆さ十字架につけて処刑して欲しいと申し出、それで今でもセ ント・ピータース・クロス(ペテロの十字架)というのは逆さまに立てられた十字架のことを 申すのです。  今朝の御言葉の19節にはっきりとこう記してあることに心を留めましょう。「これは、ペテ ロがどんな死に方で、神の栄光をあらわすかを示すために、お話しになったのである」。私たち にとって、私たちの全生涯を通して神の栄光が現わされること、生きるにも死ぬにも神の御栄 えの現れる人生を歩むこと、そのことにまさる幸いと喜びがどこにあるでしょうか。それは私 たちの歴史における歩みが永遠の御国に繋がっていることです。そこに、自分で帯を結んで自 由気ままに歩むどのような人生にもまさる本当の幸いの人生があり、恵みによって召されたる 者の喜びの生活があるのです。そして主イエスはペテロに、今朝の御言葉の最後にこう告げて おられます。「こう話してから、『わたしに従ってきなさい』と言われた」。この主イエスの御招 きこそが、私たちをして真に人間たらしめるのです。なぜなら主は言われました「わたしに従 ってきなさい」(われに従い来たれ)と。それならば主イエスは私たちの生きるにも死ぬにも、 私たちを贖い私たちを祝福し私たちを極みまでも愛し、私たちと共にいて下さるかたではあり ませんか。だからこそ私たちは「われに従い来たれ」と言われる主の御言葉に心から喜んで従 うのみなのです。  そのとき、ペテロは「われはぶどうの樹、汝らはその枝なり」と仰せになった主の御言葉を 思い起こしたに違いありません。私たちは自分を中心に気ままに歩むだけでは決して人生の幸 いを(実りを)知ることはできないのです。私たちは自分の人生が実り豊かなものであることを望 みつつ、過ぎ来しかたを顧みて嘆息するのみです。健康も仕事も富も名誉も業績も、その内訳 を見るなら脆く儚くないものは何ひとつありません。最後には死が訪れ私たちから全てを奪い 去ります。どこに私たちの人生の実りがあるのかと私たちは失望するほかはないのです。  しかし主イエスは、そのような私たちにはっきりと約束して下さいました。「わたしはぶどう の木、あなたがたはその枝である。もし人がわたしにつながっており、またわたしがその人と つながっておれば、その人は実を豊かに結ぶようになる。わたしから離れては、あなたがたは 何一つできないからである」と。人間が人間たりうる道・人生の真の幸福は(実りは)私たち の内側にあるのではない。それは十字架の主イエス・キリストの内にあるのです。主が十字架 の愛と恵みをもって私たちを御自分に結んでいて下さるその事実にこそ私たちの人生の本当の 実りがあるのです。だからこそ、主は同じヨハネ伝の15章16節にこのように言われました。 「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、 あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るため である」。私たちは主イエスによっていま選ばれているのです。主によって建てられ、人生へと 召されているのです。どのような時にも決して変わることなく主が共にいて下さり、私たちの 全生涯を祝福し贖っていて下さるのです。「われに従い来たれ」と招きたもう主に従う私たちで ありましょう。