説    教  サムエル記上17章31〜36節 ヨハネ福音書21章15〜17節

「わが羊を養え」

2011・08・14(説教11331390)  旧約聖書の箴言27章23節に「汝の羊の状況(さま)を良く知り、汝の群れに心を留めよ」 とあります。昔から「木を見て森を見ず」あるいは「鹿を追う者山を観ず」という諺がありま すが、牧者(羊飼い)にはそういうことがあってはならない。汝の羊の状況を良く知ることは、 同時にその群れの全体に心を留めることだ。御言葉に仕え宣べ伝える者が一人の魂にキリスト を伝えることは、同時に群れ全体としての主の教会を建ててゆくことである。そのように旧約 の預言者は語るのです。これは預言者を通して私たちに宣べ伝えられた主なる神の御言葉であ り御業への招きです。  この主の招き(召命)をペテロは主イエスから戴きました。今朝拝読したヨハネ福音書21 章15節以下は主イエスによるペテロへのその厳かな召命の場面です。「彼らが食事をすませ ると、イエスはシモン・ペテロに言われた、『ヨハネの子シモンよ、あなたはこの人たちが愛 する以上に、わたしを愛するか』。ペテロは言った、『主よ、そうです。わたしがあなたを愛す ることは、あなたがご存じです』。イエスは彼に、『わたしの小羊を養いなさい』と言われた。 またもう一度彼に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わたしを愛するか』。彼はイエスに言った、 『主よ、そうです。わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです』。イエスは彼に言 われた、『わたしの羊を飼いなさい』。イエスは三度目に言われた、『ヨハネの子シモンよ、わ たしを愛するか』。ペテロは『わたしを愛するか』とイエスが三度も言われたので、心をいた めてイエスに言った、『主よ、あなたはすべてをご存じです。わたしがあなたを愛しているこ とは、おわかりになっています』。イエスは彼に言われた、『わたしの羊を養いなさい』」。  ペテロが一度ならず三度も主イエスの御名を拒んだのはつい10日ほど前の出来事でした。 もし人生に“取り返しのつかぬこと”があるとすればペテロの失態こそまさにそれでした。ペ テロは先に主イエスに対して「たとえあなたと一緒に死ぬことになってもあなたを知らぬなど とは決して申しません」と堅く誓ったのです。それにもかかわらず大祭司カヤパの邸において ペテロは下働きの女性に「あなたの顔を覚えている、あなたはイエスの弟子のはずだ」と誰何 されただけで恐ろしさのあまり、いや自分は神に誓って主イエスなど知らないと三度も主を裏 切ってしまったのです。彼は自分の不甲斐なさに絶望し取り返しのつかぬおのれの罪を嘆き外 の暗闇に飛び出して激しく泣き続けたのでした。  まさにそのペテロの前に復活の主イエスはお立ちになります。いま主が御手をもってペテロ に生命の糧をお与えになり、さらに主はペテロを新たな神の御業にお召しになるのです。それ が今朝の御言葉です。すなわち主イエスはペテロに対して「ヨハネの子シモンよ」と、彼の本 名をお呼びになり、そして「われを愛するか」と三たびお問いになります。そのつどペテロは 主イエスに対して「主よ、そうです、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」 と答えています。そのペテロに主は、「わたしの羊を養いなさい」(わが羊を牧せよ)とお命じ になる。同じようなこの遣り取りが三度繰り返されているのです。この三度の繰り返しがペテ ロの三度の否認と深く関わっていることは間違いないでしょう。事実ペテロは三度目には「心 をいため」たと記されています。この「心をいため」と訳された元々の言葉は「深い悲しみを もって悔い改めた」という意味のギリシヤ語です。つまりペテロは主イエスに対して不快な気 分になったというのではなく、自分が三度も主イエスを否認したことを思い出して、大きな悲 しみと共に改めて主イエスを信じ従う人として生まれ変わったのです。主イエスに贖われた者 として新しい人生を歩み始めたのです。それが「心をいため」たということです。  それにしてもなぜ主イエスは三度も同じ問いをペテロになさったのでしょうか。それはまさ しくペテロの魂の傷口に三度も手を置かれて彼を完全に癒すためでした。一度ならで三度の罪 を背負ったペテロ、取返しのつかぬ罪をおかしたペテロを、主は三度の召命によって完全に癒 され、ペテロを立ち上がって主と共に歩む者(使徒)へと生まれ変わらせて下さったのです。 この主の極みなき愛に触れてこそペテロは「心をいため」る者となり、生涯を主に献げる僕と されたのです。  思えば、かつては「たとえ他の者たちがあなたを見捨てて逃げても、わたしはあなたを捨ま せん」と豪語していたペテロでした。しかし今やペテロは「あなたはこの人たちが愛する以上 に、わたしを愛するか」と問われる主イエスに対して「主よ、そうです。わたしがあなたを愛 することは、あなたがご存じです」と答えています。私たちにとって大切なことは、自分がど んなに神の前に強く確かな存在かということではないのです。大切なことはただ一つです。主 がどんなに大きな愛をもってこの罪人のかしらなる私を愛して下さっているか。私たちもペテ ロと共に「わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」としか答えられない者です。 しかしそれはなんと幸いな答えでしょうか。パウロの言う「もはやわれ生くるにあらず、キリ ストわがうちにありて生くるなり」とは、実にこのキリストの愛に打たれ、生かされた僕の喜 びと幸いを語ったものです。讃美歌461番に「主われを愛す、主は強ければ、われ弱くとも、 恐れはあらじ」と歌われています。それが大切な唯一のことなのです。その主の力のみが罪と 死に対する永遠の勝利です。それのみが人生を導く唯一の真の力であり救いであり慰めなので す。  さて実は今朝の御言葉において「愛する」と訳されている言葉には2つの種類があるのです。 ひとつは永遠なる神の愛をあらわす“アガパオー”という言葉(アガペーの動詞形)。もうひ とつはギリシヤ語において人間的な友情や家族・兄弟の愛を意味するときに用いる“フィレオ ー”という言葉です。ですからこの2つの言葉は日本語では同じように「愛する」と訳されま すが、元々の意味はかなり違うものです。そこである聖書学者はこの2つの言葉の違いについ て特に区別する必要はないと語っておりますがそういうことはないと思います。やはりヨハネ はこの2つの言葉を明確に区別し意識してここに用いていると申さねばなりません。それはど ういうことかと申しますと、主イエスが「わたしを愛するか」(アガパオー)と問われたのに 対して、ペテロは「はい、わたしがあなたを愛することは、あなたがご存じです」(フィレオ ー)と答えているのです。2度目も同じで、主イエスがアガパオーで問いかけられ、ペテロが フィレオーで答えています。しかし問題は3度目の遣り取りなのです。今朝の御言葉で申しま すなら17節の「わたしを愛するか」と問われた3度目の主イエスの問いはアガパオーではな くフィレオーになっているのです。もちろんペテロの答えは一貫してフィレオーです。  これは何を意味するのでしょうか。ペテロはこの3度の遣り取りにおいて主イエスが彼に対 して抱いておられるのと同じ愛(アガペー)をもって主を愛しているか…と問われたと理解し たのではないでしょうか。だからこそペテロは、自分はとても主イエスがわたしを愛して下さ るその同じ愛(アガペー)をもって主を愛しまつることができる人間ではない、自分は主を心 から愛しているけれども、その愛は主の私に対する愛に及ぶべくもなく較べるべくもない、そ ういう意味であえて“フィレオー”を用いているのです。逆に言うなら、私たちは自分の不完 全な愛を主イエスの極みなき愛に較べるなど到底なしえない。それをペテロは明らかにしてい るのです。それゆえに主イエスが“アガパン・メ”(われを愛するか)と問われるのに対して“フ ィロー・セ”(あなたが大好きです)と答えているのです。  ペテロはきっとこう申したかったに違いありません。「私は三度もあなたを裏切りました。 それほど弱く脆く不確かな人間なのです。私の愛もまた不完全な欠点だらけの愛に過ぎないの です。しかし今私はそうした自分の不完全さに目を注ぐことを止めます。なぜならあなたこそ 私を限りなく愛し、私のために十字架にかかって下さった、わたしの唯一の救い主だからです。 そのあなたの愛に既に生かされていること、そのあなたの愛が私に注がれていること、あなた の愛の確かさの中にあること。それだけが私にとって大切な唯一のことなのです。それゆえい ま私は不完全な欠点だらけの私の愛をもってあなたにお答えします。あなたがそれをさえ喜び 祝福し用いて下さるからです」。それでペテロは「アガペー」とは言えないけれども「フィレ オー」とは言える。そのフィレオーという不完全な愛をも主は喜び祝福し用いて下さる。御国 の御業のために欠けだらけの弱く脆いこの私をも召して下さる。ペテロにとって大切なのはそ の主の恵みの招きのみなのです。  それこそまさにペテロの信仰告白でした。そのペテロの信仰に主は3度目に“フィレオー” を用いてお答え下さっています。ペテロの、否、私たち全ての者の罪を贖うために私たちの罪 のどん底にまでお降り下さった主は、ペテロと全く同じ立場にまで降って来て下さり、彼の精 一杯の愛をご自身の永遠の愛において満たし祝福して下さるのです。だからペテロははっきり と知りました。主イエスに従う生命の道は(主イエスへの真の愛は)自分の内側にあるのではな い。それは自分の力ではない。それは主イエスによって私たちに与えられる恵みの賜物以外の 何ものでもないのです。ペテロはフィレオーの愛をもってしか主イエスを愛することはできな い。それ以上の愛は自分の内側にはない。十字架において現された神の聖なる愛は人間である 私たちの内にはないのです。だからこそ大切なことは、それで良いのだと主イエスが告げてい て下さることです。「わたしの力は弱きところにこそ完全に現れる」と私たち一人びとりに語 っていて下さることです。私たちにできることは主イエスの愛を受けて、主イエスの聖なる愛 に生かされて、自分もまたたとえ不完全でも、欠点ばかりであっても、そのあるがままに真実 に主イエスを愛することです。主の教会に連なり主の教会に仕える僕になることです。そのと き私たちの生涯が主の愛を物語る人生に変えられてゆくのです。ちょうど月が自分では輝かず 太陽の光を受けてはじめて輝くように、私たちもまた自分の内側には真実な愛の輝きはありま せんが、キリストの極みなき十字架の愛を受けそれに生かされて、私たちもまたキリストの愛 に輝く者とされている。この事実こそが大切な唯一のことなのです。  この御言葉の最後に、主はペテロに対して「わたしの羊を養いなさい」と命じたまいました。 この「羊」とは世にある全ての人々のことです。また「群れ」とはキリストの教会のことです。 ここに「わたしの羊」とあることに注意せねばなりません。羊はペテロのものではない。主イ エス・キリストのものなのです。主イエスのみが羊のために生命を捨てて下さった大牧者(救い 主)なのです。主は言われました「わたしは道であり、真理であり、生命である。だれでも、わ たしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。教会に連なる私たちはこのことを いつも明確にしておらねばなりません。なぜなら、私たちはここに真の教会・真にキリストの みを宣べ伝える教会を建てるために召されているからです。そして召されている私たち自身が すでにキリストの愛において満たされ、生かされ、主の御業へと遣わされているのです。少し も私たちの知恵や力ではありません。ただ主の限りない愛と救いの恵みのみが私たちの永遠に 変わらぬ慰めであり癒しであり力なのです。  第一コリント書15章9節以下を拝読しましょう。「実際わたしは、神の教会を迫害したので あるから、使徒たちの中でいちばん小さい者であって、使徒と呼ばれる値うちのない者である。 しかし、神の恵みによって、わたしは今日あるを得ているのである。そして、わたしに賜わっ た神の恵みはむだにならず、むしろ、わたしは彼らの中のだれよりも多く働いてきた。しかし それは、わたし自身ではなく、わたしと共にあった神の恵みである」。この神の恵みのみが、 永遠に変わらぬ私たちの救いなのです。