説 教 エレミヤ書32章31〜34節 ヨハネ福音書21章9〜14節「汝等の国籍は天にあり」
２０１１・０８・０７（説教１１３２１３８９） ドストエフスキーの文学作品が世界に及ぼした影響には測り知れぬものがありますが、何よ りもそれは彼が人間をその極限において観つめている点にあります。ある人はそれを「ドスト エフスキーは人間存在をその消失点（ヴァニティング・ポイント）において見つめているのだ」 と申しました。この「消失点」とは言い換えるなら「人間の絶対的な限界」のことです。全て の人間存在は“死すべきもの”であるということです。歴史的に見るならば死が私たちの存在 を規定する唯一の絶対的限界であると言えるのです。すなわち使徒パウロがローマ書で語る 「死の縄目」こそが不確かな私たちの存在における唯一の確実性なのだということです。 これは言い換えるならば、人間は死において徹底的に孤独である。人間はその孤独に耐えら れないのです。つい先日、自暴自棄になった父親がわが子を道連れに自殺するという事件があ りました。こうしたことはキリスト教国では考えられないことです。子供は親の所有物ではあ りません。もし人間の死について“ドストエフスキー的省察”を少しでも持つなら道連れ自殺 という行為そのものが全く無意味であることがわかるのではないでしょうか。その意味では人 類の歴史上現代ほど死に対する幻想が人間を支配している時代はないと言えるのです。 私たち人間が死において徹底的に孤独であること。これは言い換えるなら私たちの存在に対 して最後まで責任を持てる他者はこの世界には存在しないということです。私たち人間とこの 世界はそれほど「ヴァニティ」(虚無的)な存在なのです。この現実に対してドストエフスキー は2つのメッセージ(2つの道)を示します。第一に「悪霊」のキリーロフのようにみずからが 神になり替わる人間神格化の道です。ここには全く希望はありません。しかし第二の道があり ます。キリーロフのように死を克服しようとして逆に死の虜になるほかない私たち。その私た ちを限りなく愛し贖って下さる唯一の神がおられる。そのかたこそ主イエス・キリストである。 このキリストにどう答えるか、それは信仰告白でしかないのです。つまり「罪と罰」のラスコ ーリニコフのようにラザロと主の弟子たちの復活の福音を聴き、キリストを信じる者になるこ とです。キリストに自分を委ねることです。ただここにのみ人間が人間たりうる唯一の「生命 の道」があるのです。 そこで今朝の御言葉であるヨハネ伝21章9節以下を改めて拝読しますと、そこには実に驚 くべきことが宣べ伝えられているのです。それは一言で申しますなら、主イエス・キリストみ ずから私たちのために“生命の食物”を既に備えていて下さっているという音信です。9節を ご覧になりますと「彼ら（弟子たち）が陸に上って見ると、炭火がおこしてあって、その上に 魚がのせてあり、またそこにパンがあった。イエスは彼らに言われた、『今とった魚を少し持 ってきなさい』。シモン・ペテロが行って、網を陸へ引き上げると、百五十三匹の大きな魚で いっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」と記されています。夜通 し漁をして何ひとつ獲れずにいた弟子たちは疲れと飢えで憔悴しきっていました。戻ってゆく 岸辺は彼らにとって絶望の岸辺でしかありえなかった。舟に乗って沖に出てゆくのは人生の姿 です。しかし収穫は何ひとつなく絶望の岸辺に帰らねばならないのです。それはそのまま「死 の縄目」に取り纏われた私たち人間の姿です。沖に出た舟は岸に戻らねばならない。しかし戻 ってゆく岸が絶望の岸でしかないなら、そもそも沖に出ること自体に何の意味があるのか。人 間存在は偶然性の産物に過ぎず、確かなものは何ひとつない。その人生の行く末が死でしかな いのなら、そこにどんな意味と価値があると言うのか。それこそ弟子たちの疲れであり、私た ちの人生への根本的な問いなのです。 今朝の御言葉は、まさにその私たちの根源的な虚無の中ではっきりと私たちに語り告げてい ます。たとえ私たちの人生に何ひとつ収穫がなくても、なおそのあるがままに私たちの人生全 体をかき抱くように限りなく愛し、待っていて下さる「生命の主」がその岸辺に立っていて下 さるのです。そのときその岸辺はもはや絶望の岸ではなく生命と希望の御国として私たちの眼 前に現れるのです。それこそ教会生活(礼拝者の生活)に現わされた祝福です。私たちは一週間 の初めのこの日曜日を「主の日」として礼拝を献げ世の旅路に遣わされてゆきます。喩えて言 うならそれは港から船が出てゆくようなものです。沖に出た私たちはそのまま漂流するのでは ありません。来るべき主日のたびごとに帰るべき祝福と生命の港に帰ってゆくのです。私たち には帰るべき故郷があるのです。そしてそこで新たに御言葉による生命の喜びと幸いにあずか り、新たな一週間の航海へと出てゆく。ですから主日の礼拝にあずからない生活、キリストの 御身体なる教会に連ならない生活は喩えるなら、港を持たない人生・漂流するだけの人生と同 じなのです。 船をよく見ますと船尾にかならず母港の名前が記されています。客船クイーン・エリザベス なら“サウザンプトン”と、飛鳥�兇覆蕁伐Ｉ諭匹畔豺舛量召�記されています。私たちも同じ です。このことを使徒パウロはピリピ書3章20節に「しかし、わたしたちの国籍は天にある。 そこから、救主、主イエス・キリストのこられるのを、わたしたちは待ち望んでいる」と語っ ています。ここに「来られるのを」とあるのは、ラテン語ではアドヴェントゥムです。待降節 （アドヴェント）の語源になった言葉です。もしわが子が危険な目に遭ったら、親はどんな危 険を冒してでもわが子を守り助けるために駆けつけるでしょう。同じように、罪によって神か ら離れ死の縄目に巻きつかれている私たちのために主イエス・キリストはご自身を無にして世 に来て下さったかたなのです。神は私たちを限りなく愛し、その救いのために独子を惜しまず お与えになったほどこの世を愛して下さいました。ヨハネ伝3章16節のとおりです「神はそ のひとり子を賜ったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅び ないで、永遠の生命を得るためである」。 そして今朝の御言葉にはそれと共に、限りない救いのおとずれが告げられているのです。そ れは今朝の11節以下に、主イエスの御言葉のとおり舟の右側に網を降ろしたところ「百五十 三匹の大きな魚でいっぱいになっていた。そんなに多かったが、網はさけないでいた」とある ことです。この「百五十三匹」という数字は主イエスの時代の古代イスラエルで知られていた 魚の全種類でした。つまりこの数字は主イエスの十字架による贖いによって全世界の民が神の もとに招かれている救いの約束を現わすのです。しかもそれはみな「大きな魚」でした。漁師 にとって「大きな魚」ほど価値あるものはありません。鯛でも20センチの鯛と50センチの鯛 では十倍ぐらいの価値の差があるのです。それと同じように私たちは主なる神の御前にかけが えのない価値ある存在とされています。御子イエス・キリストをさえ惜しまず世に賜わった神 の愛によって、私たちはあるがままに限りない価値ある存在とならせて戴いているのです。神 の愛はその愛によって私たちに無限の価値を与える愛です。この神の愛を聖書の言葉では“ア ガペー”と呼ぶのです。 神は御子イエス・キリストによって私たち全ての者に、この世界の万物と歴史の全体に限り ない愛(アガペー)を現わされました。私たちがまだ罪人であったその時にさえ神は御子の十字 架によって私たちの罪を贖って下さったほど私たちを愛されたのです。私たちに誇るに足る何 かが、価値があるから、主は私たちを愛されたのではありません。価値を問われたら神の御前 に黙すほかない私たちです。虚無に取り囲まれた私たちです。しかしその私たちを主イエスは 限りなく愛され、ご自身を献げて虚無から贖い出して下さり、御国の民として下さいました。 その愛によっていま私たちに無限の価値が与えられているのです。人間が人間たりうる唯一の 救いの道がそこにあります。キリストの内にこそ私たちの変わらぬ救いがあり、生命があり、 慰めがあり、幸いがあるのです。そのキリストの恵みが私たちを満たして下さる。そのとき私 たちの国籍は天にあるのです。 主イエス・キリストはまことにアドヴェントの主（来たりたもう救い主）であられます。私 たちのため、私たちの救いのために来たりたもう主は、すでに死の虚無をも私たちのために打 ち砕き、全ての者を永遠の生命と祝福の岸へと招き、そこで御言葉の養いを与えて下さる唯一 の主なのです。このかたの極みなき愛によって私たちはすでに今ここで天に国籍を持つ者とさ れているのです。その確かなしるしこそこの教会であり、これからあずかる聖餐の恵みです。 この教会に連なる私たちは主の復活の生命に支えられ満たされているのです。永遠に。