説    教    イザヤ書20章1〜2節  ヨハネ福音書21章5〜8節

「聖なる漁」

2011・07・31(説教11311388)  私たちは主イエスから救いの恵みを戴くだけだと思っていますので、主イエスのほうから私 たちに「何かをお求めになる」ことは意外に感じるのです。それは主の弟子たちも同じでした。 今朝の御言葉ヨハネ福音書21章5節を見ますと、主イエスはガリラヤ湖畔にお立ちになって、 舟の上にいる弟子たちに「子たちよ、何か食べるものがあるか」とお訊きになりました。主イ エスみずから弟子たちに食べるものをお求めになったのです。弟子たちにしてみれば最初は、 その人が主イエスであるとは思ってもいませんでした。彼らはずいぶん唐突な求めをする人が いると不思議に思ったのです。今日のように食物が自由に買えた時代ではありません。ですか ら空腹を感じた旅人が漁師から直に魚を買って飢えをしのぐという場面はよく見られました。 その意味ではありふれた日常の光景なのです。  しかしそれならなおのこと「子たちよ」という呼びかけは不思議ではないでしょうか。弟子 たちはこのとき「もしかしたらこのかたは主イエスではないか?」と気づきはじめたのです。 なぜなら「子たちよ」とはふだん主イエスが弟子たちをお呼びになる時の言葉だったからです。 文語で言うなら「わが子らよ」です。しかしそう言われてもなお弟子たちの眼差しは開かれて いません。弟子たちは主イエスの求めたもう答えをしていないのです。つまり信仰告白をして いないのです。  私たちも同じことがないでしょうか。私たちこそ普段の生活の中で自分がキリストの僕であ る「信仰」を現さずに生きていることがあるのではないか。主イエスの御姿を見失っているこ とがあるのではないでしょうか。キリストを信じる信仰を持ってこの社会を生きるということ は、譬えて言うなら流れに逆らって舟を漕ぐようなもので、現実にはいろいろと不都合や苦し い面もあります。私たちは知らず知らずのうちに日曜日の自分とウィークデーの自分を器用に 分けて生きていることがあるかもしれません。信仰がアクセサリーのようになってしまって、 自分に似合うと思えば身に着けるけれども似合わないと思えば捨ててしまう、そのような自分 本位の教会生活になっていることがあるのではないか。いずれにせよ私たちの信仰生活はいと も簡単に自分本位・自分中心のものになってしまう危険があります。キリストを見ないで自分 ばかりを見ている生活になってしまうのです。  そのとき、私たちの生活はどのような姿を見せるのでしょう?。それこそまさに今朝の御言 葉の弟子たちの姿なのです。すなわち弟子たちは魚を獲ろうとして一晩じゅう漁をしたけれど も何も獲れませんでした。一匹の魚も網に入らず、全ては徒労に終わったのです。空しさと疲 れと怒りと絶望感だけが残ったのです。6人の弟子たちはみな無言で網を引き上げ岸に帰る用 意をしていたのです。まさにそのような彼らに、否、私たちに主イエスは御声をかけて下さい ます。「わが子らよ」と。私たちの名を呼んで下さいます。たとえ私たちの眼差しが主イエス が共にいて下さる恵みに対してなお暗い時にさえも、その私たちの弱く愚かな現実のただ中に 主イエス・キリストは共にいて下さり、私たちにはっきりと御声をかけて下さるのです。そし て「子たちよ、何か食べるものがあるか」と訊ねて下さるのです。天地万物の創造主にして全 てのものを全てにおいて満たしたもう聖なるかたが今や一人の人として私たちに「何か食べる ものがあるか」と食物を求めたもうのです。  実に主はそのようにして、私たち一人びとりに生命の福音を語り告げて下さいます。主がま ずそれを私たちにお求めになり、そのことによって私たちがそれを熱心に求める者になるよう に、私たちが自らそれを見出すまで主は待っていて下さるのです。それは同じヨハネ伝4章の スカルの町の井戸端での名もなき女性との出会いにおいてそうでした。あのときも主はまずそ の女性に「わたしに水を下さい」と一杯の水をお求めになり、それをきっかけに「活ける生命 の水」をめぐる対話がはじまり、彼女の魂を開いて下さったのです。孤独と絶望の内にあった 女性を「活ける永遠の生命の水」である主ご自身へと導いて下さったのです。  今日の御言葉もそれと同じです。「何か食べるものがあるか」と問われた弟子たちには「あ りません」と答えるほかなかったはずです。しかしバルトが語るように「人間のピリオドは神 のコンマ」です。私たちが絶望の壁に直面し言葉を失い途方に暮れるまさにそのピリオド(私た ちの弱さ)にこそ主イエスの御業が始まるのです。そのためにたったひとつのことを主は私たち に求めたまいます。それは主イエスを信じて主の御招きに身を投げかけることです。そのため に主は6節に驚くべきことを弟子たちに言われます。「舟の右の方に網をおろして見なさい。 そうすれば、何かとれるだろう」。まさにこの御言葉に従う「信仰」が求められているのです。 私たちの為すべきことは“主の御言葉に従う信仰の歩み”です。  この時代のガリラや湖の漁には決まった方法がありました。漁業にせよ農業にせよ自然を相 手にとる仕事に経験から来る法則があります。長い年月の間に方法が定着するのです。ガリラ ヤ湖の場合はいつも舟の艫に向かって左側(つまり右舷)を岸に向けて舟の右側から網を降ろす 決まりがありました。ですから主イエスが言われる「舟の右のほうに網を降ろしてみなさい」 とは「艫に向かって右側(つまり船の左舷)から網を降ろしてみなさい」という命令でした。漁 の常識に反した驚くべきことを主は弟子たちに求めたもうのです。弟子たちはペテロを筆頭に みな熟練の漁師たちです。その彼らが主イエスのこの常識に反する言葉に聴き従ったのは、た だ主イエスに対する信仰のゆえでした。御言葉に対する信仰です。私たちが神の言葉を聴く場 所は私たちの人生のただ中です。教会に連なり礼拝に出席し神の言葉に生かされます。その生 かされてゆく場所こそ私たちの人生そのものです。だから主日(日曜日)は一週間の初めであ り、教会は私たちの存在と生活の中心です。しかしだからこそ私たちにはこういうことがない でしょうか。御言葉を真剣に聴けば聴くほど、本当にこの御言葉は神が自分に語っておられる 言葉なのだろうかと怪しむ経験です。たとえば辛い痛みや病気から一日も早く癒されたいと願 うとき、私たちは「この病気を私から去らせて下さい」と祈ります。しかし実際に返ってくる 主の御返事は私たちの期待する答えとは違う場合があるのです。主は私たちの祈りに応えて下 さらないと思われることがあるのです。自分は熱心に病気の癒しを願ったのに、主はその願い に応えて下さらないと思うことがあるのです。そのようなとき私たちは、本当にこれが主の御 言葉であるかを疑うのではないでしょうか。  使徒パウロにもそういう経験がありました。パウロは伝道の妨げになる辛い病気に悩まされ ていた人です。幾つもの痛みや病気がありました。ですから第二コリント書12章を見るとパ ウロは「肉体に与えられたとげ」を「離れ去らせて下さるようにと、三度も主に祈った」と語 っています。この「三度も」とは毎日絶えず祈り続けたという意味です。しかし主がパウロに 与えられた答えはパウロの思いを遥かに超えるものでした。第二コリント書12章9節です「と ころが、主が言われた、『わたしの恵みはあなたに対して十分である。わたしの力は弱いとこ ろに完全にあらわれる』。」それゆえに、パウロはこのように主に答え、また教会の人々に申し ているのです。「それだから、キリストの力がわたしに宿るように、むしろ、喜んで自分の弱 さを誇ろう。だから、わたしはキリストのためならば、弱さと、侮辱と、危機と、迫害と、行 き詰まりとに甘んじよう。なぜなら、わたしが弱い時にこそ、わたしは強いからである」。  ここでパウロが言う「甘んじよう」とは、それこそが自分に与えられた神の恵みと祝福であ ると信じるという意味です。病気ゆえの弱さも、侮辱も、危機も、迫害も、行き詰まりさえも、 主は私に恵みと祝福を与えるための破れ口として与えて下さった。この「破れ口」がなければ 自分はキリストの愛を、神の祝福を、本当に知ることはなかったであろう。自分が弱ければ弱 いほど、その弱い私の内に生きて働きたもうキリストの力は私を存在の根底から支え続けてや まない。そのようにパウロははっきりと語っているのです。弱さを知るとは、自分の無力さを 知ると同時に、その無力な自分をどんなに神が愛して下さっているか、どんなに大きな救いの 御業の中に私たちを顧みて下さっているか、どんなに尊い御業をその弱さの中にこそ現わして 下さっているかを知ることなのです。  今朝の弟子たちは、常識では従いえない主の御言葉をまさにいま、主が私に対して語ってお られる福音・生命の御言葉として聴き従ったのです。彼らは主が命じられるままに舟の右側に 網を降ろしました。するとどうでしょうか「彼らは網をおろすと、魚が多くとれたので、それ を引き上げることができなかった」と記されています。同じヨハネ伝21章11節にはその魚の 数は「百五十三びき」であったとあります。この153という数字は当時のイスラエルにおける 魚の全種類でした。だからこれはまさに主が弟子たちを約束どおり「人間をすなどる漁師」と して全世界へとお遣わしになることを示しています。教会は全ての人を真の救いへと導く神の 宮なのです。漁師が全ての魚を漁るように、主は教会を通して全ての人々を真の救いのもとに 集めて下さるのです。  私たち一人びとりにも、主は御言葉を信じることを求めておられます。御言葉に正しく聴く 私たちになることです。主の教会を通して御言葉の養いのもとに日々あり続け礼拝者としての 生涯を全うすることです。そのとき私たちの人生のただ中に「聖なる漁」の祝福が現れるので す。主は弟子たちを「あなたがたを人間をすなどる漁師にする」と約束されました。測り知れ ない豊かな幸いと祝福を私たち一人びとりが主から賜わると同時に、その幸いと祝福へと全て の人々を招く祝福の器として下さるのです。その恵みが現れるために主は信仰のみを私たちに 求めておられます。それゆえにこそ、ペテロは今朝の御言葉で弟子たちみなが「あれは主だ」 と言ったとき、上着をまとって海に飛び込みました。海に飛び込んだのは一刻も早く主のもと に馳せ参ずるためです。上着を纏ったのは礼拝の装いです。私たちもそのような者とされてい るのです。あらゆる事柄を通して、主こそまことなり、真実なり、主はわが救い、わが誇り、 わが贖いなりと、信じ告白する者に私たちもならせて戴いています。そしてペテロのように、 主の御姿を見るまなざしを開かれたとき、主のみもとに礼拝者の装い(キリストの義)を纏って 飛びこんで馳せ参ずる者とされているのです。  世界と歴史の唯一の主(救い主)はキリストです。その主の御用に仕え、主の愛に連なる私た ちとされているのです。まさにわが弱さの中に働きたもう主の力を私たちは信じます。礼拝者 の装いを、讃美する者の心をもって、主にまつろう私たちとならせて戴くのです。主の教会に お仕えし、私たち一人びとりが主の御栄えを現わす「聖霊の宮」へと成長してゆくことを、主 はいま私たちに望んでおられるのです。