説     教   詩篇11篇1〜7節  ヨハネ福音書21章1〜4節

「主の顕現と弟子たち」

2011・07・24(説教11301387)  「そののち、イエスはテベリヤの海べで、ご自身をまた弟子たちにあらわされた。そのあら わされた次第は、こうである」。この御言葉によっていま私たちに福音が宣べ伝えられていま す。ここに主イエスが「ご自身をまた弟子たちにあらわされた」とあることを、福音書記者ヨ ハネは大きな感謝をもって語っているのです。私たちは主が幾度でも「あらわれ」て下さらな ければ信仰の道を正しく歩むことはできないからです。私たちの信仰生活はたえず主の「あら われ」を必要としているのです。言い換えるなら主の「あらわれ」そのものが私たちの「救い」 なのです。  ところで、主が私たちに「あらわれ」たもうたのはただ一方的な私たちへの恵みに終わるの でしょうか?。たとえば私たちが誰かと待ち合わせの約束をしたとします。もし私たちが約束 を破ってその時刻その場所に「あらわれ」なければ相手を裏切ったことになるでしょう。それ と同じように主の「あらわれ」た恵みは私たちの側の主に対する応答を必要としているのです。 キリストの「あらわれ」た恵みの事実は私たちがその恵みに信仰をもって応えることではじめ て生きた信仰生活になるのです。主の「あらわれ」の恵みは信仰による応答によって“主との 出会い”の喜びになるのです。  ところが今朝の御言葉をよく読みますと、私たちはそこにキリストの一方的な恵みだけを見 いだして驚くのです。実は今朝の御言葉のどこを見ても、キリストの「あらわれ」の恵みに対 する弟子たちの側の応答はいっさいありません。示されているのは辛うじて21章4節の御言 葉だけです。「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエ スだとは知らなかった」。漁に出た弟子たちが舟から目にしたものは、ただテベリヤの海(ガリ ラヤ湖)の岸に立っておられる主イエスのお姿だけでした。しかも弟子たちはまさかそれが主イ エスだとは夢にも思わなかったのです。弟子たちにしてみればただ「誰かがこんな朝早く岸に 立ってこちらを見ている」という事実に気がついただけです。誰かの「あらわれ」を目にした だけです。不思議な人がいると思いながら弟子たちは黙々と舟の上で漁具の後始末をしていた のです。なぜなら3節にあるように「その夜はなんの獲物もなかった」からです。  ペテロをはじめ、トマスもナタナエルもヨハネも「他のふたりの弟子」もみな熟練の漁師で した。ガリラヤ湖は彼らの庭のようなものでした。いつどこに網を下せば魚が獲れるか長年の 経験から熟知していたはずでした。その彼らが一所懸命夜通し漁をしたのに一匹の魚も獲れな かったのです。全ての労苦は水泡に帰したのです。それは彼らにとって屈辱と挫折の経験でし た。心身ともに疲れ果て無表情に押し黙ったまま弟子たちは漁具の後始末をし、帰り支度をし ていたのです。まさにそのときでした。その人影がただならぬかたであると気づいたのは弟子 たちの誰だったのか今朝の御言葉からはわかりません。夜が明けて周りが明るくなるとともに、 いつしか弟子たちは岸辺に佇んで彼らを見ている人影があることに気がついたのです。もとも と彼らが漁に出たのは「昔取った杵柄」をもういちど担ぐほかに生活の術がなかったからです。 頼みとしていた主イエスは十字架につけられ墓に葬られてしまった。墓前に愛惜の涙を注いで も虚しいだけです。主イエスを失ったと思った弟子たちは、弟子となる以前の古き生活に戻る 以外になす術がないと思いました。しかしその古き生活(漁)さえも一匹の獲物もないという屈 辱と挫折に終わったのです。深い疲労と絶望が弟子たちを支配していました。  それと同じことが、私たちにもあるのではないでしょうか。やることなすこと全てが空回り するばかりで思うようにならない。いくら焦って努力してもますます深みにはまるばかりで何 ひとつ改善しない(逆に事態は悪くなるばかり)。そういうことが私たちにもあるのではないか。 そのようなとき私たちはせめて「昔取った杵柄」に戻ろうとするのです。そしてそれすらも失 敗し挫折に終わるとき、私たちの疲労困憊は絶望に至ります。どうにでもなれと捨て鉢になり、 絶望して自分の家に帰る以外に道はないように見えるのです。まさにそのような私たちがそこ で目にする恵みが今日のこの御言葉です。うなだれる私たちにご自分を「あらわし」て下さる かたが立っておられる。私たちの疲れも、焦りも、怒りも、絶望も、いっさいを担い取って、 私たちの帰り道を塞ぐように立っていて下さるかたがここにおられる。たとえ私たちがまだそ のかたとの“出会い”を経験していなくても、まだ私たちがそのかたが誰であるかを知らなく ても、私たちの側のあらゆる経験と認識を超えて既にそのかたは私たちにご自分を確かに「あ らわし」ておられる。その事実だけが大切なのです。その事実だけを今朝の御言葉は私たちに はっきり示すのです。  どうか気をつけて下さい。夜通し報われぬ漁をして疲れ果て絶望に陥っていた弟子たち、そ の弟子たちが気がついた時には既にそのかたは岸に立って弟子たちを(私たちを)慈しみの眼差 しで見つめておられたのです。ということはそのかたは弟子たちが(私たちが)その眼差しに気 がつく遥か以前からずっと私たちを見つめ続けておられたのです。「こんなに苦労しても何も 報われない」と不平不満を言っていた私たちでした。「古い生活に戻るしか生きる道がない」 と絶望していた私たちでした。「主は私たちと共におられない」と嘆いていた私たちでした。「取 り縋るべき主の御身体さえ無い」と途方に暮れていた私たちでした。主を失った現実になす術 を持たぬ私たちでした。まさにその私たちのことを主はずっと見つめ続けていて下さっていた のです。そして私たちが帰ろうとする岸辺に立って、私たちを持っていて下さったのです。  主が私たちの古き生活への家路を塞ぐように立っていて下さるとき、その岸辺はもはやもと の岸辺ではありえません。そこでは既に私たちの人生にとって根本的に新しいこと、本当の意 味で革命的なこと、真に驚くべきこと(私たちが救われた神の民となること)が起っているから です。それはそこに全ての人の「罪」の贖い主なる「主キリストが共にいて下さる」という全 く新しい出来事です。言い換えるならそれは、いと高き聖なる神が私たち罪人と徹底的に連帯 されるために人となられ十字架に死んで下さった…永遠なる神の御子キリストが私たちのた め、私たちと共に、いま私たちのただ中に立っていて下さる。「あらわれて」いて下さるとい う出来事です。主の「あらわれ」の恵みそのものが私たちの「救い」なのです。  先ほど、もし私たちが誰かと待ち合わせても、約束を破ったなら相手を裏切ったことになる と申しました。それならば私たちは確かに主に対して罪をおかしています。主を裏切っていま す。主を裏切ったユダの罪、3度も主を拒んだペテロの罪は私たちの罪です。「わたしは十字架 にかかって死ぬが、三日目によみがえる」と約束なさり、それゆえに「約束の聖霊が降るまで、 ともに祈っていなさい」とお命じになった主の御言葉に私たちは叛いています。「主は共にお られない」と勝手に決めつけ、古き自分の生活に戻り、自分を頼みにして生きようとしていま す。しかしそこに主は「あらわれ」て下さいました。何百回・何千回と繰り返してきた漁であ り、家庭生活であり、通勤通学であり、職場での生活でした。弟子たちと同じように私たちに とってもガリラヤ湖の岸辺は通い慣れた日常の道でした。しかし今は違うのです。その岸辺に いま主イエスが立っておられる。そこで私たちを慈しみの眼差しで見つめていて下さる、その 唯一の出来事においてこそその「日常の道」は無限の「新しさ」(キリストと共にある新しい生 命)を持つものとして私たちに備えられた祝福とされているのです。たとえ私たちがそのかたの 姿を今は「見る」でも、その祝福の意味は少しも変わることはないのです。それだけで良いと 主は言われるのです。  なぜなら私たちが自分を知るということは、主イエスの眼差しの中にある自分を見いだすこ とだからです。そこではもはや私たちの眼差しがなにを見ているかさえ最終的な問題ではない のです。大切なことは主イエス・キリストがいま既に私たちを見つめていて下さるという事実 だけです。いますでに、どのような時にも、私たちは主イエス・キリストの眼差しの中に生か されている。主が私たちを知っていて下さる。主が私たちを捕らえていて下さる。主が私たち を顧みていて下さる。その事実だけが大切なのです。真に新しいこと、真に喜ぶべきこと、私 たちの日々の信仰の歩みはただそこから始まってゆくのです。  いささか私ごとになります。私は最近のほぼ7年間ずっと病気に悩まされ続けてきました。 その苦しさは筆舌に尽くせないもので、その中で牧師としての務めを果たすことに絶望しそう になりました。しかしその中でこそ知りえた恵みがありました。なにより私と共に主の教会に 仕え牧会の苦労を担う長老会(そして教会員)の支えがありました。使徒パウロが語っているよ うに、たとえ自分の弱さを感じて挫けそうになる時にも、途方に暮れるような疲れの中でも、 まさにそのような現実の中にこそキリストの御力は働いて支えて下さることを確かな恵みと して感じてきました。だからパウロが語るように、私たちは自分を宣べ伝えるのではない、キ リストだけを宣べ伝えるのです。自分はたとえどんなに脆い土の器であっても、その土の器に 神が与えられたキリストの恵み、キリストの生命の確かさは変わらないのです。そこに生きる 喜びと祝福は決して私たちから離れることはないのです。それが私たちの「新しい生活」です。 「もはやわれ生くるにあらず、キリストわが内にありて生くるなり」とはそのような恵みの確 かさを示す御言葉なのです。  「夜が明けたころ、イエスが岸に立っておられた。しかし弟子たちはそれがイエスだとは知 らなかった」。ここに既に全く新しい出来事が私たち一人びとりに宣べ伝えられているのです。 私たちがキリストの限りない愛と祝福の中にいま既に生かされているのです。私たちの全存在 は既にこのかたの贖いの恵みのもとにあるのです。人類の歴史もそうです。「人類の歴史は真 の神を求める歩み」です。知らずしてまことの神を、真の贖い主を、求め続けてきた歩みです。 その歩みの岸辺にいま主は立っていて下さるのです。その歩みに、確かな唯一の答えが神の側 から与えられています。今朝の御言葉において既に私たちを「岸辺」で待っていて下さる主イ エスの恵みにおいて、私たち一人びとりの人生にいついかなる時にも、贖い主なるキリストが 伴っていて下さる恵みと祝福の確かさです。その恵みの確かさこそ私たちの生きる限り、否、 死を超えてまでも永遠に変わることはないのです。  それだからこそ、私たちはこの主に対して、ただ信仰の応答をささげます。「主よ、我信ず、 信なきわれを助けたまえ」と祈ります。礼拝者として歩み続けて参ります。今日のこの御言葉 から弟子たちの新しい歩みが始まったように、いま私たちの新しい信仰の歩みが始まるのです。