説    教  出エジプト記3章13〜14節 ヨハネ福音書20章30〜31節

「記されざりし御業」

2011・07・17(説教11291386)  聖書を読んでいますと、一連の物語と物語の間の繋ぎの部分、纏めのような御言葉が突然あ らわれることがあります。今朝私たちがお読みしたヨハネ伝20章30節31節などはまさにそ れです。普通に考えるなら20章と21章の繋ぎの御言葉と考えられるわけです。特に30節に は「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子たちの前で行われた」 とある。こういう書きかたは古代の文書に特有な言回し(文章の約束ごと)にすぎないとする 見方があります。すると今朝の御言葉には深い意味などはないのでしょうか。飛ばして読んだ ほうが良いのでしょうか。たとえば同じヨハネ伝のいちばん最後21章25節にも似た言い回し があります。「イエスのなさったことは、このほかにまだ数多くある。もしいちいち書きつけ るならば、世界もその書かれた文書を収めきれないであろうと思う」。これもまた特別な意味 はないのだという見方があるのです。  しかしもちろん、聖書には特別な意味を持たない御言葉など何ひとつありません。聖書の言 葉はその全てが十字架と復活の主イエス・キリストを証するものです。言い換えるなら聖書の どの御言葉を通しても主イエス・キリストは私たちに出会って下さるのです。今朝の御言葉の 中にも、否、今朝の御言葉の中にこそ、汲めども尽きせぬ尊い福音の真理が私たち一人びとり に宣べ伝えられています。それを正しく読み取ることが大切です。そこで改めて今朝の30節 に心を留めましょう。「イエスは、この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子た ちの前で行われた」。これは私たちがこの御言葉を最も単純素朴に読んでさえ「そのとおりだ」 と首肯せざるをえないのではないでしょうか。ある出来事を文字に書き記すということは、書 き記されていない数多くの出来事が常に存在するということです。言い換えるなら私たちが主 イエス・キリストの恵みを戴くことは常に、私たちが考えているより遥かに多くの恵みを主か ら賜わっていることなのです。それを最もよく知らされたのがキリストの弟子たちでした。今 朝の御言葉の直前にはトマスの物語があり、直後の21章からはペテロの物語が続きます。ト マスにせよペテロにせよ他の弟子たちにせよ、自分たちが主から戴いたと感じたより遥かに多 くの恵みを主から戴いた人たちです。それに気がついたとき彼らは本当のキリストの仕え人と なりました。それは私たちも同じではないでしょうか。主の御心は常に私たちの思いを超えて おり、主の恵みは常に私たちの罪を超えているのです。私たちは愚かにも主の御業に限界を設 けようとしますが、主の御業には限界というものは決してないのです。  ある教会に男性の求道者がいました。しかしこの男性は5年ほども礼拝出席を続けていなが ら、頑なにキリストを信じようとはせず、洗礼を受けることをしませんでした。あるとき牧師 がその理由を尋ねますと、この男性の本音が現れました。こう答えたのです「だって先生、キ リストは私が頼みもしないのに勝手に十字架に死んだのでしょう。なのにキリストを信じなさ いって言うのは無理なんじゃないですか?」。そこで咄嗟に牧師はこう答えました「勝手に死 んで下さったから、なおさら有難いのではないですか?」。その一言で彼は目から鱗が落ちた ように洗礼を受けることを決意したのです。そこでこの男性の目が開かれた理由こそ今朝の御 言葉が示す福音なのではないでしょうか。この男性の言う「勝手に」とは私たちが「知らない ところ」で主がどんなに「数多くの御業」をなさって下さったかということです。この「勝手 に」ということを自分を中心に理解すると「大きなお世話」となるのですが、視点を変えてキ リストを中心に理解すると、それは有難く尊い恵みとして私たちに迫ってくるのです。  言い換えるなら、主は私たちの側に何の受け入れ態勢が無いにもかかわらずご自分の全てを 私たちの救いのために与えて下さった。それこそ「勝手に」十字架に死んで下さったのです。 この「勝手に」とは別の言いかたをするなら完全に「自発的な行為」だということです。つま り主が私たちのためになさった御業は私たちの求めに応じての行為などではない。私たちに根 拠を持つ行為ではないのです。私たちがどれだけ熱心に願ったからとか、どれだけ功徳を積ん だからとか、どれだけ良い行いをしたからとか、そういう私たちの資格や状況にいっさい関わ りなく(私たちにいっさいの根拠を持たず)ただ私たちを愛する限りない愛のゆえに主は全く 自発的に「勝手に」ご自分を十字架において罪の贖いとして献げて下さいました。キリストの 御業はそれを受ける私たちの状態によって変わるものではないのです。私たちは逆です。たと えば何か人に善いことをしたとき、相手がそれに気が付いて感謝してくれることを心の中で期 待するのです。そして相手が気付いて感謝してくれれば満足し、逆に気付かず感謝してくれな ければ裏切られたような思いになるのが私たちなのです。  それだけのことを考えても、キリストの愛がどんなに素晴らしいかわかるのです。しかもキ リストが私たちに下さったのはちょっとした善い行いなどではなくご自分の生命そのもので す。その大切な生命を下さるのに、私たちがそれに対して感謝してくれるだろうとか、喜んで くれるだろうとか、そういう思惑すらいっさいなく主はただ自発的に(全き恵みとして)私た ちのために贖いの死をとげて下さったのです。私たちに対する限りない愛のゆえに、まさに私 たちの眼から見るなら「勝手に」私たちのために死んで下さったのです。だからこそその十字 架の恵みは全ての人を救う唯一の神の力なのです。その救いは受け手の状況によって少しも変 化することはないのです。 それゆえにこそ今朝のヨハネ伝20章31節にはこう記されている のです「しかし、これらのことを書いたのは、あなたがたがイエスは神の子キリストであると 信じるためであり、また、そう信じて、イエスの名によって命を得るためである」。ヨハネは 語るのです。聖書が書かれた目的はただ一つである。それは全ての人が「イエスは神の子キリ ストであると信じるためであり、またそう信じて、イエスの名によって命を得るためである」 と。聖書を読むとはそういうことです。「イエスは神の子キリストである」という信仰告白に 導かれない聖書の読みかたはありえません。そしてまさにその「イエス・キリスト」の御名が 私たちに真の生命を与えるのです。それは罪によって神との交わりを失っていた私たち、神か ら離れ神に叛くしかなかった私たちが、キリストに結ばれることによって神との永遠の交わり の内に生かされる存在になることです。その確固たる保障として主はこの教会を私たちに与え て下さいました。教会はキリストの御身体であり、私たちはここに連なることによって永遠の 生命に結ばれ、主の恵みに生かされつつこの世の旅路を主と共に歩む者とされるのです。  ほかならぬ今ここに連なる私たち一人びとりが、そのような主の民・主に贖われた者となら せて戴いているのです。私たちは記念の場所を持っています。鎌倉霊園の葉山教会墓所です。 毎年10月の最終主日には「帰天者記念墓前祈祷会」が献げられます。その墓所に集うたびに 私たちに与えられる思いは、主がいかに絶大な恵みをもって「聖徒の交わり」(聖なる公同の使 徒的教会)に連なる私たちを御国に入らせて下さったか、神の愛の永遠の勝利とご支配の中に生 ける者も死せる者も入れて下さっているかということです。それこそ主が「勝手に」十字架に かかって下さった恵みによって私たち全ての者に与えられている幸いであり祝福なのです。そ れゆえ私たちにとっての真の幸いは、ただ天に召された愛する者たちと御国で再会を果たすこ とにあるのではありません。欠けの多い人間どうしがいかに幸いな再会を果たすともそこに永 遠の喜びがあるわけではないのです。そうではなく私たちにとって本当の幸いと喜びは私たち がいつの日にか愛する者たちと共に御国で主の御顔を仰ぐことにあるのです。その意味ではこ の主の御顔を仰ぐ礼拝の時こそ永遠に変わらぬ神の愛の勝利の恵みをこの世の旅路の中で先 取りしていることなのです。  私たちの歩む道、なお遠く険しくありましょうとも、私たちがこの人生において出会ういか なる幸過幸も、胸塞がれる悲しみも、途方に暮れる苦しみも、心乱れる悩みも試練も災害も、 その全てを含めまして、神を愛する者(神に愛されキリストと共に歩む者)には一つたりとも 意味なきものはありません。神の愛の現れない人生でないものはない。私たちにとって益なら ざるものはない。そういう神の支配なさる世界、神の御心の成る世界に私たちは生かしめられ ているのです。全てにまさってキリストご自身が私たちのために、私たちを救うための「記さ れざりし御業」を成し遂げて下さいました。この世界は「記されざりし主の御業」によって常 に満たされ支えられ守られているのです。私たちの存在もそうです。私たちの人生もそうです。 そこに私たちは無限のキリストの愛を見出します。キリストの愛の永遠の勝利を確信します。 まさにヨハネが告げているように「この書に書かれていないしるしを、ほかにも多く、弟子た ちの前で行われた」主イエスこそ、私たちの永遠の主であられ、神であられ、導き手であられ るのです。