説     教   詩篇35篇28節  ヨハネ福音書20章24〜29節

「トマスの告白」

2011・07・10(説教11281385)  復活された主イエスが十二弟子たちに現れたもうた時、トマスだけがその場にいませんでし た。今朝のヨハネ伝20章24節に「十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれているトマスは、イ エスがこられたとき、彼らと一緒にいなかった」と記されているとおりです。「デドモ」とは ギリシヤ語で「双子」という意味です。これは実際トマスに双子の兄弟がいたとも考えられま すが、トマスという一人の人格の中に双子のように、似ているようでいて別々の2つの部分が あったからでしょう。これはトマスだけではないと思うのです。私たちは誰でも明るい部分と 暗い部分、明と暗の2つが同居しているのではないでしょうか。私たちもまた「デドモ」なの ではないでしょうか。  これを信仰の世界について申しますなら、信仰と不信仰という2つの部分を私たちは併せ持 っているのです。遠藤周作という作家が信仰について「99パーセントの疑いと1パーセントの 信頼である」と申しています。私たちは「信仰」というと100パーセントの信頼であらねばな らないと考える。しかしそういう完璧な信仰はありえないと遠藤周作は言うのです。大切なこ とはその1パーセントの信頼でキリストの十字架に向き合っていることなのです。とまれトマ スは「信仰」と「疑い」という二面性を持つ“陰影のある人物”でした。それゆえトマスは「わ たしたちは主にお目にかかった」と言って喜んでいる弟子たちに水をさすことを言うのです。 25節の中ほどです「トマスは彼らに言った、『わたしは、その手に釘あとを見、わたしの指を その釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、決して信じな い』」。  キリストの十字架はトマスにとって決定的な絶望の出来事でした。トマスはある意味で弟子 たちの誰よりも深く主イエスをキリスト(救い主)と信じていた人です。いわばトマスは他の 弟子たちより「疑い」の部分が少なく「信頼」の部分が大きかった人だと言えます。トマスは 主イエスに対して「新しいイスラエルの王となるべきかたは、主イエスの他にはありえない」 という確信を抱いていました。主イエスの御言葉も御業も全てがトマスの心を深く捕えました。 主イエスのためなら死をも厭わぬ覚悟でした。事実11章16節でトマスはそういう発言をして います。しかしその主イエスが事もあろうにイスラエル最高議会の議員らによって神の律法を 冒した神聖冒涜の罪に問われ、さらにユダヤ総督ポンテオ・ピラトによって最も残忍な十字架 の刑に処せられたのです。その十字架に際しては十二弟子たちさえ恐ろしさの余り蜘蛛の子を 散らすように逃げてゆきました。そうした中にあってもトマスは主イエスの十字架を間近で見 ていた人なのです。  だからこそ彼は他の弟子たちに語ることができました。「わたしは、その手に釘あとを見、 わたしの指をその釘あとにさし入れ、また、わたしの手をそのわきにさし入れてみなければ、 決して信じない」と。トマスの脳裏にはあの残虐な十字架の様子が生々しく刻まれていました。 神の子と信じていたイエスが両手両足を釘付けられ、さらに脇腹に槍を突き通され、血を流し て死んでゆかれた。その遺体は封印のある墓に葬られたのです。主は十字架の上で全ての人々 のため赦しと祝福を祈られましたが、その声すらもはやトマスの耳には届きませんでした。ト マスにとって疑いえないものは主イエスの死の確かさとトマスの絶望の深さだけでした。だか ら「決して信じない」と言う彼の言葉には「復活など絶対ありえない」という確信がこめられ ています。トマスは主を限りなく愛したゆえに、主の十字架によって深く傷つき限りない絶望 に陥ったのです。その絶望を癒してくれるものなど「ありえない」と頑なにトマスは復活の事 実を否定するのです。それだけは「ありえない」と言うのです。  私たちもそれと同じではないでしょうか。身も心も損なわれてゆくような深い絶望や悲しみ を経験するとき、私たちもまた「この絶望から自分を立ち上がらせてくれるものなど“決して ありえない”」と思うのです。確かなものは自分の絶望の深さと、この世界また人生の虚しさ だけだと思い込むのです。そして苦悩の中でこそ私たちは奇妙な自己正当化を始めます。それ は「確かなものはこの自分の苦しみだけであり、これを理解してくれるものなどありえない」 という自己正当化です。先ほどの遠藤周作の言葉で言うなら「99パーセントの疑い」だけが確 かなものだと思い込むことです。そのとき私たちの中でいつの間にか「100パーセントの信頼 でないものは信仰の名に値しない」という審きの方程式が出来あがってしまいます。そして自 分は信仰のない駄目な信者だと勝手に自分で自分を審きはじめるのです。  当然、同じ審きは他者の信仰生活に対しても向けられます。「あの人があんなに恵まれた信 仰生活ができるのは理解ある家族に恵まれているからだ」と思ったり「自分にはそういう家族 がいないから信仰生活はできない」と失望したり「健康でなければ教会生活はできない」と思 い込んだり、とにかく私たちは本当に勝手な理屈や自己中心の論理を振りかざして自己正当化 を始めキリストを拒み始める。そのとき信仰は形骸化し息苦しく不自由な律法になってしまい ます。私たちは聖書の中のパリサイ人を非難しますが、現実の生活で自分がパリサイ人になっ ていることに気がつかないのです。そしていつの間にか「信仰」は「信心」に変化してしまい ます。信じる自分の「心」が大事だ。自分の信心は弱いだろうか強いだろうか…。それはもは や「信仰」ではありません。信仰とは十字架の主を救い主と仰ぎ主の御声に自分を投げかける ことです。主の恵みに自分を委ねることです。自分の「疑い」と「信頼」の割合を測って絶望 したり安心したりすることが信仰ではないのです。たとえ「99パーセントの疑い」の中でさえ 私たちは主の御声に信頼して生きることができるのです。それは私たち一人びとりにいま、主 が御言葉を告げていて下さるからです。大切なことは、戸や窓を堅く閉ざしていた弟子たちの もとに復活の主が入って来られ、弟子たちの中に立たれたのと同じように、いまトマス(そして 私たち)のもとにも主イエスは入って来て下さる、まさにその恵みの事実こそ大切なのです。  そして復活の主イエスはトマスの前にお立ちになるのです。それは同じ安息日の出来事でし た。26節以下をお読みしましょう「八日ののち、イエスの弟子たちはまた家の内におり、トマ スも一緒にいた。戸はみな閉ざされていたが、イエスがはいってこられ、中に立って『安かれ』 と言われた。それからトマスに言われた、『あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさ い。手をのばしてわたしのわきにさし入れてみなさい。信じない者にならないで、信じる者に なりなさい』。トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』。イエスは彼に言われ た、『あなたはわたしを見たので信じたのか。見ないで信ずる者は、さいわいである』」。よく トマスのことを「実証主義的懐疑論者」だという人がいます。そのとおりかもしれません。少 なくとも「実証主義」という言葉は当たっているようです。トマスは人がどう言うかではなく、 実際に自分の目と手で復活の主イエスを確認しようとしたからです。その意味ではトマスは非 常に正直な人です。しかし実証主義によって「疑い」が克服されることはありません。つまり 実証主義によって「信仰」すなわち「イエスは主なり」という信仰告白に導かれることはない のです。  「ベン・ハー」の原作者として有名なアメリカの作家ルー・ウォレスは、最初はトマスと同 じような徹底的な実証主義の立場から、キリストは存在しなかったというドラマを書く予定で イスラエルを詳しく調査しました。しかしウォレスはもしキリストが存在しなかったならどう して世界にはキリストを信ずる群れ(教会)が存在するのか、その謎をどうしても解くことがで きませんでした。その問題を考えてゆくうちに彼自身が長老教会へと導かれ、やがて洗礼を受 けそして1880年に書かれた作品があの「ベン・ハー」(原作のタイトルは“われらの主キリス トの物語”)なのです。実証主義よりもはるかに確かなもの、それはキリストの教会の存在な のです。教会は十字架と復活のキリストの御身体だからです。  弟子たちに再び現れて下さった主イエスは御身体(つまり教会)を通してトマスただ一人に向 き合いたまいます。そして慈愛の御声をもって「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見 て御覧なさい。あなたの腕を伸ばして、わたしの脇腹にさし入れて御覧なさい。信じない者で はなく、信ずる者になりなさい」と言われるのです。主イエスと3年間を共にして御教えを聴 き御業を見てきたトマス、しかもなお主イエスを信じないトマスのために、復活の主は御声を かけて下さいました。いま私たちにも同じように主はご自分を現わして下さいます。この礼拝 において、安息日から始まる新しい一週間の生活において、いつでも「疑い」の海に沈んでし まう私たちのために、あなたというたった一人の救いのために、復活の主はいまあなたに出会 われ、御声をかけて下さるのです。「信じない者ではなく、信ずる者になりなさい」と…。  トマスは復活の主を信じ「わが主よ、わが神よ」と告白をしました。これがキリスト教会最 古の信仰告白です。それはトマスの告白でした。「わが主」とは「あなたこそ、私の人生と存 在全体の唯一の主(救い主)です」という告白です。そして「わが神」とは「あなたこそ永遠 の神の真の独子、全世界の救いのため世に来て下さったキリストです」という告白です。この 瞬間トマスは、十字架の主のあの凄惨なお姿こそ実はこの自分の「罪」の赦しと救いのためで あったと心から信ずる者とされたのです。十字架の主であり復活の主でもあるキリストに対し、 心からアーメンと告白したのです。「あなたこそ生ける神の子キリストです」との使徒的教会 の信仰告白に堅く連なる者になったのです。トマスの疑いと絶望のただ中に「信ずる者になり なさい」との主の御声が響き渡ったとき、その御声にトマスは自分を投げかけたのです。私た ちも同じ恵みと幸いの内にいます。「わが主よ、わが神よ」これは私たち自身の信仰告白でも あるのです。この告白に連なる私たち一人びとりこそ復活の主の生命に今ものちも永遠までも、 教会により聖霊によって豊かにあずかる者とされているのです。  そして、それゆえにこそ主イエスは「見ないで信ずる者は、さいわいである」と私たちに宣 言して下さいました。この御言葉は実証的(経験的)価値観の世界に対する信仰の勝利(すなわ ち物質に対する精神の優越性)というような小さなことではありません。そうではなく、聖霊な る神がなされる御業を信ずる者になりなさいということです。まことの神は私たちの心の中の 「信頼」と「疑い」の割合によって私たちの救いを決められるようなかたではない。そうでは なく、私たちは自分を顧みるなら本当に不信仰の塊でしかなく、99パーセントの疑いどころか 100パーセントの疑いが私たちの姿です。しかしその私たちにいま復活の主は出会っていて下 さるのです。私たちはただその主に向かって自分を投げかければ良い。教会に連なってさえい れば良いのです。そのとき私たちは無条件で神の民とされ天に国籍を持つ者とされるのです。 この事実が御子イエス・キリストの十字架と復活によっていま私たち一人びとりのもとに来て いる。その恵みの事実に(神の御言葉)に対して、あなたは信じ応える者とされているではない か。そのように主は告げていて下さるのです。  伝承によればトマスは遠く海を超えてインドに福音を伝えたと言われています。インドの教 会は今でもトマスの信仰告白を喜びをもって告白しています。なによりもいまこの御言葉こそ 私たちの喜びであり生命なのです「トマスはイエスに答えて言った、『わが主よ、わが神よ』」。 この告白にいま共に生きる私たちとされているのです。