説     教    創世記2章7節  ヨハネ福音書20章19〜23節

「主の平安と我ら」

2011・07・03(説教11271384)  「その日、すなわち、一週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人をおそれて、自分たちの おる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってきて、彼らの中に立ち、『安かれ』と言わ れた。そう言って、手とわきとを、彼らにお見せになった。弟子たちは主を見て喜んだ」。今 朝、私たちに与えられたヨハネ伝20章19節にはこのように記されているのです。この御言葉 でとても印象的なのは、言い知れぬ「恐れ」に支配された弟子たちの姿です。彼らがエルサレ ムの片隅の一室に閉じこもり、戸はもちろん窓も全てを閉めきって息を殺していたのはその 「恐れ」のためでした。全ての戸や窓を閉ざすことは外界との接触を完全に断ち切る意思の現 われです。なぜそうせねばならなかったのか。彼らには3つの理由がありました。  第1に、ゲツセマネとそれに続く主の十字架の余りに悲惨なお姿が弟子たちの心に焼きつい ていました。十字架は当時の社会における最も残酷な処刑方法です。弟子たちの目には両手両 足を釘付けられ血を流して死なれた主の凄惨な姿が焼きついていたのです。あってはならぬこ とが起ったのです。いちばん見たくないものを見てしまったのです。神の御子と信じていた主 イエスが呪われた罪人だけが受ける処刑方法で死なれた。その衝撃は深い「恐れ」となって弟 子たちの心を支配していました。  第2に、ほんの数日前、大祭司カヤパの屋敷の中庭で弟子の一人シモン・ペテロがあやうく ユダヤ人らに捕らえられそうになりました。無学な庶民であった弟子たちにとって、自分たち の顔が律法学者らに覚えられたという事実は限りない「恐れ」を生ぜしめるものでした。ペテ ロは危うく虎口を脱しましたが、他の弟子たちのもとにもいつ追手が迫るかわからない、そう いう大きな「恐れ」を感じていたのです。  第3に、この世の王になるはずだった主イエスは、死んで墓に葬られたもうたのです。しか もその遺体さえ何者かの手によって持ち去られたと彼らは思いこんでいました。頼みの綱であ った主イエスは死んで葬られ、しかもその遺体さえ墓から消え去ったのです。この事実は弟子 たちに深刻な「恐れ」を与えました。自分たちはこれからどうなってゆくのかという先行きの 見えない恐れです。彼らは自分たちが天涯孤独の身であることを嘆き、見知らぬエルサレムの 地で途方に暮れていたのです。  だからこそ驚くべきことは、まさにそのような「恐れ」に取り付かれた弟子たちのもとに復 活の主イエス・キリストが入って来られ、そこに平安を告げて下さったことです。19節には「弟 子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのおる所の戸をみなしめていると、イエスがはいってき て、彼らの中に立ち、『安かれ』と言われた」と記されています。弟子たちは外部との接触を 全て遮断していたはずです。彼らの心は(全ての戸や窓さえも)「恐れ」によって堅く閉ざされ ていたはずです。それなのに主イエスは弟子たちのもとに「はいって」来られました。そして 「彼らの中に」お立ちになったのです。つまり主イエスは弟子たちの限界を打ち破って彼らの もとに来られたのです。それが主イエスのなさりかたなのです。  そこで私たちにも、今朝の弟子たちと同じことがあるのです。たとえば複雑で煩わしいこの 社会の人間関係の中で、人から手酷く傷つけられるという経験は私たちの誰もが味わうのでは ないか。人間関係の中で大きなストレスを受け、その受けたストレスの後遺症にいつまでも悩 まされることがあるのではないでしょうか。すると私たちは2度と同じ傷を受けたくない、2 度と同じ苦しみを味わいたくないという「恐れ」から本能的に守りの姿勢に入ります。端的に 言うなら自分の心の扉を社会に対してぴたりと閉ざしてしまうのです。  よく子供同士の人間関係の中で「自閉症」という病理が問題視されます。しかしむしろいち ばん深刻な自閉症は私たち大人の世界にこそ見られるのです。教会の中でさえそれは起ります。 長く教会に来ていた人がある不和対立によってぷつりと教会に来なくなってしまう。もちろん 牧師である私にも長老会にも何の連絡も相談もないまま姿を消してしまう。そういう悲しいこ とがあります。現代は人間関係が希薄なので相手と向き合って話し合うことが煩わしくなって いる、ということではなさそうです。むしろ傷ついたと訴え、閉ざされた自分の心を無意識に 正当化して相手を審いているだけなのです。審きには言葉は必要ありません。黙って無視すれ ば審きは成り立つのです。無視することほど効果的な審きはないからです。  弟子たちも同じでした。外部に対して遮断された自分たちの小さな世界を築くことが、主を 十字架にかけた社会に対する「審き」の姿勢だったのです。だからそこには祈りも存在しませ ん。執成しもありません。対話も起りません。喜びもありません。あるのは重い沈黙と、少し の自己満足と、相手を審いたという僅かな優越感だけです。私たちの心はそれほどまでに弱く 愚かなのです。私たちこそ戸も窓も全てを堅く閉ざして生きているのです。そうしなければ自 分が保てないと錯覚しているのです。そして同じ種類の錯覚が重なり合って難しい人間関係を もっと難しくしてしまうのです。人間の罪だけが増幅される人間関係になってしまうのです。  私の神学校時代の同級生が牧会している教会で、ある年の夏、猛烈な台風によって屋根の十 字架の横の棒が吹き飛ばされてしまいました。しかしその牧師が語るには「横の棒で良かった」 と言うのです。なぜなら縦の棒は神から私たち人間への垂直の恵みをあらわすからだ。その垂 直の恵み、すなわちイエス・キリストにおける“聖徒の交わり”が確立しているなら、水平の (人間相互の)交わりはいつだって回復できる。しかし垂直の次元が失われたなら、もはや水 平の人間関係を支えるものは何もなくなってしまうからだ。私はそれを聴いて「なるほど」と 思わされました。私たちは礼拝そのものがどんなに大きな恵みであり喜びであるか、それがわ かっていなければ社会において本当の人間関係を築いてゆくことはできないのです。なぜなら 礼拝という出来事はいっさいの戸や窓を堅く閉ざしていた私たちのただ中に、十字架と復活の 主が入ってこられ、私たちの中にお立ちになられるという出来事だからです。  逆に言うなら、もし私たちが真の礼拝者として教会に連なっているなら、黙って交わりから 立ち去るという「審き」さえキリストの恵みによって克服されてゆくのです。それは主も言わ れたとおり「憐れみは、審きに打ち勝つ」からです。この「憐れみ」とは、神がその独子を賜 わったほどにこの世を愛して下さったことです。この愛を知りこの愛に生かされた者は、もは や審きにしがみつく必要はなくなるのです。むしろそのキリストの愛によってのみ、私たちは あらゆる人間関係において他者を祝福する唯一の言葉に共に生かされてゆくのです。すなわち、 主が私たちのもとに入ってこられ、私たちのただ中にお立ちになるところでのみ、私たち全て の者を死から生命へと甦らせる唯一の祝福の言葉が告げられているのです。それこそ「安かれ」 と主が弟子たちに告げたもうたことです。この「安かれ」とは「汝らに神の平安があらんこと を」という意味です。さらに原語であるギリシヤ語の意味を解くならばこの御言葉こそ「いま あなたがたを神の平安が支えている」という私たち全ての者に対するキリストの恵みの勝利の 宣言なのです。  なんという恵みでしょうか。私たちは、弟子たちは、この世にあって堅く戸を閉ざしていた のです。そのような私たちの現実にもかかわらず、否、そのような私たちであるからこそ主は 私たちのただ中に入って来られ、私たちの中にお立ちになり、そして「安かれ」「いまあなた がたを神の平安が支えている」と私たち一人びとりに告げていて下さるのです。それこそいま 私たちに注がれている礼拝者たる祝福です。礼拝とは今朝の御言葉が示す弟子たちの(私たち の)あらゆる恐れと孤立と審きを打ち破る唯一のキリストの祝福の勝利の御業です。あらゆる 交わりを喪失し、これを軽んじ、また破壊している私たちの現実に対して、神が御子イエス・ キリストにおいて、ただ恵みとして与えて下さった永遠なる“聖徒の交わり”がそこにあるの です。  そこに驚くべき奇跡が起ります。それは大きな恐れによって心を閉ざしていた弟子たちが、 キリストの祝福を携えてこの世に派遣されてゆくという奇跡です。「恐れ」によって弟子たち が逃げてきたこの世、恐れから弟子たちが遮断していたこの世に、同じ弟子たちがキリストの 祝福を受けキリストの祝福を伝える器として遣わされてゆくのです。「安かれ。父がわたしを おつかわしになったように、わたしもまたあなたがたをつかわす」と主は言われるのです。そ して私たちに派遣の証拠として聖霊をお与えになります。22節です「そう言って、彼らに息を 吹きかけて仰せになった、『聖霊を受けよ。あなたがたがゆるす罪は、だれの罪でもゆるされ、 あなたがたがゆるさずにおく罪は、そのまま残るであろう』」。  この最後の御言葉は、私たちが罪の赦しの権能を持つ(人の罪を赦したり赦さなかったりする 権威を持つ)という意味ではありません。そうではなく、これは“聖徒の交わり”としての主の 教会に委ねられた大いなる祝福の務めをあらわす御言葉です。教会が主の御名によって赦す罪 はいかなる罪でも赦され、そこにキリストの救いの御業が、その赦された人の上に現れるので す。逆にもし教会がキリストを見上げることなく、キリストを頭としないなら、私たち人間の 罪は「そのまま残る」のです。教会がキリストのみを仰ぎキリストのみを頭として歩むとき、 信仰告白に堅く立つとき、たとえ「陰府の力」もそれに打ち勝つことはないのです。私たちは キリストの御栄えのみを現わす真の教会をここに建ててゆかねばなりません。  何より主イエスは、すでに私たちのもとに来て下さったのです。いま私たちのもとに、私た ちのただ中に、御言葉と御霊によって臨在しお立ちになっておられるのです。エペソ書1章22 節が語るように、神はキリストを万物の上にかしらとして教会にお与えになったのです。それ ゆえに私たちはもはやキリストの祝福から片時も離れることのない者とならせて戴いていま す。まぎれもないこの私たちが“聖徒の交わり”によって生かされ支えられているのです。い ま私たちに与えられているキリストの恵みこそ、私たちをして真の人間関係を回復させあらゆ る「審き」に打ち勝つ祝福の力なのです。  主イエスは弟子たちに、私たち一人びとりに聖霊を豊かに与えて下さいます。私たちは聖霊 を受けて主に堅く結ばれているのです。創世記2章7節に、主なる神が人に息を吹き込まれて 生きた者とされたように、主イエスは教会を通し私たちに聖霊を与えることにより私たちを新 たにして下さる。第二コリント書5章17節「だれでもキリストにあるならば、その人は新し く造られた者である。古いものは過ぎ去った、見よ、すべてが新しくなったのである」。この 恵みのもとに、私たちはいま共にあるのです。ただ神にのみ栄光と讃美がありますように。