説     教   哀歌3章22〜23節  ヨハネ福音書20章11〜13節

「限界なき救い」

2011・06・26(説教11231383)  他の弟子たちや女性たちがみな自分の家に帰ったあとも、マグダラのマリアただひとりは主 イエスの墓の前に立ち続けていました。今朝の御言葉ヨハネ伝20章11節を見ますと「マリア は墓の外に立って泣いていた」と記されています。単純な記述だけに彼女の悲しみが私たちの 胸に迫るのです。しかし続いて聖書は驚くべき出来事を私たちに告げています。すなわち「泣 きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人 の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」。もとの文語訳では「御 使」と訳されていましたが、もちろんこの「天使」とは英語で言う“エンジェル”です。元々 のギリシヤ語では「アンゲロス」と申しますが、その本来の意味は「福音を宣べ伝える者」で す。マグダラのマリアは主イエスの墓に(つまり主の御身体のあるところ=教会)に留まり続け ることによって、神が遣わされた二人の天使に最初に出会ったのです。その天使は「(イエスの 遺体の置いてあった所に)一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた」と記されているの です。  古代イスラエルの墓は洞窟のような横穴式でした。その中に遺体を安置する細長い石の台が ありました。その台の頭のほうと足のほうにそれぞれ1人ずつ天使(アンゲロス)が座っていた。 それがマリアが主イエスの墓を「泣きながら身をかがめて(見た)」ときに目撃した光景でした。 そのときマリアは非常に驚き、そして神聖な思いに満たされたに違いありません。なぜなら天 使の務めは神からの福音(救いのおとずれ)を人に伝えることだからです。だから天使の務め は教会の職務なのです。宗教改革者たちは天使的職務こそ教会の職務であると申しました。  墓は人生の終着点、死の完成する場所だというのが私たち人間の常識です。つまり墓は私た ち人間から全ての言葉を奪い去る所です。全ての言葉が空しくなる所です。たとえ私たちが墓 に呼びかけようとも墓からは何の返事もありません。墓はただ沈黙だけが支配する葬りの場で す。人間からいっさいの言葉を奪う所です。しかしまさにその“死が完成する場所”であるは ずのその墓で、私たちに生命の言葉(福音)を語りたもうかたがおられるのです。主なる神はま さに墓の中から私たちに「天使」(主の教会)を通して永遠の生命の言葉を語りたもうのです。 全ての言葉が空しくなる所で、その空しさを打ち破る唯一の生命の言葉が宣べ伝えられるので す。この事態に直面して誰が畏れずにおれるでしょう。墓の前で泣くしかなかったマリア、涙 以外に言葉を持ちえなかったマリア、そのマリアが今や「天使」(主の教会)を通して福音の生 命にあずかる者とされるのです。この場面をアウグスティヌスはこう語りました「マリアは悲 しみを鎮めるためにどこに行ったらよいのかわからなかった。しかしまさにそこでこそ、彼女 に対して泣くことを禁じる天使が、ある仕方で告知した大いなる喜びが、彼女の涙に取って代 わる時がすでに来ていたのである」。  「天使」の務めは教会の務めです。神に立てられ神から遣わされた群れとして全ての人に福 音の言葉を宣べ伝える務め、それこそ私たちが教会の主から委ねられている「天使的職務」と しての教会の職務なのです。だから私たちはローマ・カトリック教会のように「天使の存在の 証明」とか「諸天使の間の序列」というようないわゆる“天使論”を展開しません。そうでな く私たちは今朝の御言葉に宣べ伝えられた二人の天使の姿に私たちの教会の使命を読み取る のです。それは「墓」すなわち私たち人間を支配しているあらゆる「罪と死の現実」に対して 主イエス・キリストによる限りなき生命の福音を宣べ伝えることです。言葉のありえないとこ ろに福音による真の生命を告げることです。慰めのありえぬところにキリストによる真の慰め を告げて止まぬことです。平安のありえないところに主の賜わる真の平安を伝えることです。 それこそ私たちの教会が神から遣わされている使命です。教会の「天使的職務」なのです。  教会は主イエス・キリストの御身体です。私たちのために十字架にかかられた十字架の主の 身体であり、私たち全ての者の救いのために墓から甦られた復活の主の身体です。私たちに対 する極みなき主の愛がここに満ち溢れているのです。ですから天使的職務とは教会におけるキ リストの十字架と復活の恵みの確かさを告げることです。ここに教会が存在することそのもの が主が全ての者のために十字架にかかられ、死して葬られ、墓から甦られたことの確かな証明 です。そこで、私たちは改めて今朝の御言葉を、特にマリアが墓の中で見た光景を顧みましょ う。一人の天使は主イエスの御頭があった場所、もう一人は御足のあった場所に「座っていた」 のでした。そして天使は彼女に「婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊ねたのでした。どうして 天使は主の御頭と御足の両方の場所に「座っていた」のでしょうか?。さきほども申したよう に「天使」を意味する“アンゲロス”というギリシヤ語は「福音を宣べ伝える者」という意味 です。つまり唯一の主なるキリストのみを宣べ伝えるのが「天使」(教会)の務めです。ですか ら「天使」(アンゲロス)は「福音」(エウアンゲリオン)と同じ語源なのです。  ここで私たちは、あのオリンピックのマラソン競技を思い起こすことができます。マラソン の起源は紀元前399年アテネとペルシヤの間で戦われた“マラトンの戦い”にあります。不利 であったアテネ義勇軍は勇躍奮戦して恐るべき強敵ペルシヤ正規軍に勝利をおさめます。その 勝利の報せをアテネの市民に伝えるべく一人の青年が伝令に走りました。彼は42195メートル (42.195キロ)を走りぬきアテネの市民に「わが軍勝利せり」と声高く叫ぶや地に倒れて帰ら ぬ人となった。それがマラソン競技の起源と言われているのです。古代の戦争では敗戦国の国 民は全て戦勝国の奴隷となる定めでした。つまりアテネ義勇軍がもし敗れればアテネの市民は 老若男女を問わず子孫の代までペルシヤの奴隷となる定めでした。「わが軍勝利せり」との報 せは、もう私たちは誰も奴隷になる必要はない。私たちは“自由な勝利の民”なのだという爆 発的な喜びの音信そのものでした。それでこの自由と勝利の音信を古代のギリシヤ語ではエウ アンゲリオン(福音)と呼び、それをもたらす伝令をアンゲロス(天使)と呼んだのです。「天 使」という言葉の背景にはそのような歴史的事実があるのです。  そこで私たちも、いや私たちこそ、それとは較べものにならぬほど大きな真の自由と勝利と 解放の音信を主イエス・キリストから戴いている者たちではないでしょうか。自由と勝利をえ たアテネの市民たちも「罪と死の現実」に対してまで自由であったわけではありません。ひと つの国家が滅亡から救われましたが、それで人間の「罪」の問題が解決したわけではありませ ん。そこにはなお墓の中にまで届く自由と勝利と解放の音信はないのです。墓のごとき人生の 虚無の現実、私たちがいっさいの言葉を失わざるをえない「罪と死の現実」に対して、私たち は何の力も持ちえぬことに変わりはないのです。それならば、まさにその私たちの虚無の現実 のただ中にこそ神の永遠の御子イエス・キリストは来て下さいました。私たちの墓のような虚 無の中にこそ主は降りて来て下さり、十字架にかかられ、その墓に葬られて下さったのです。 そこで私たちの罪と滅びのいっさいを主が全て担い取って下さったのです。ルターが語ったよ うに、キリストは十字架において「死をもって死を滅ぼされた」のです。「死に引導を渡され た」のです。永遠の神の御国(神のご支配)が私たちの朽つべき存在を覆い尽くす恵みにいま私 たちは生かされています。この世界の現実と歴史とが十字架の主において贖われ新たなものと されたのです。そこに神から離れて放浪していた魂さえも立ち帰って真の生命に甦り、罪によ って死したる者さえもキリストの生命に甦って主の御名を崇めつつ主と共に歩む者とされて ゆくのです。  この福音の告知を伝えた天使は、一人は主の御頭のあったところに、もう一人は御足のあっ たところに座っていました。これは文字どおり「頭の先から足の先まで」という意味、すなわ ち「始めから終わりまで」(徹頭徹尾)という意味です。つまり十字架と復活の主の福音(全て の人に対する真のの救いの音信)には限界というものがない。時間と空間に支配されない永遠 の自由と勝利と解放の音信であり変わることのない喜びなのです。十字架の主の福音は「ここ までは届くけれど、ここから先は届かない」というオフリミット(圏外)を持たないのです。そ れは墓の中にさえ宣べ伝えられ、その中にある者をさえ活かしめる「限界なき救い」の音信な のです。私たちは主の御業に対してすぐ限界点を引きたがります。そのほうがわかりやすいか らです。自分の望む事柄、自分が欲する方向に主イエスを引きこもうとします。主が自分の思 い通りに動いて下さることを私たちは心のどこかで願っているのです。  しかし主のなさる御業には限界はないのです。それはいつも私たちの思いを遥かに超えてい るのです。当然のことですが主が私たちに従うのではなく私たちが主に従うべきなのです。そ の意味で今朝の御言葉はまことに大切です。天使は主イエスの御頭から御足まで「福音の全て」 を告げるために墓の中に「座っていた」からです。そこに私たちの教会の姿があります。教会 は全ての人間の言葉(人間のわざ)が虚しくなる場所(墓=罪と死の支配)に福音の全体を宣べ伝 えるために建てられたキリストの御身体なのです。ただ主の教会のみが墓の中でマリアに対し て「婦人よ、なぜ泣いているのか」と訊ねることができるのです。この「なぜ泣いているのか」 とは「あなたはもう泣かなくてもよいのだ」という意味です。「あなたの目から涙を拭う時が いま来ている(そういう出来事がここに起っている)」という意味です。あなたの目から涙を拭 い去って下さるかた、あなたを永遠の生命と喜びに甦らせて下さるかたがあなたと共におられ る。そのかたがあなたのために十字架にかかられ、墓から甦られた。その測り知れぬ慰めの事 実を、主の天使すなわち私たちの教会は全ての人に宣べ伝えるのです。その喜びのゆえに真の 神に立ち帰った者の喜びと幸いをもって礼拝者として生き続けます。主の御名を讃美せずにや まないのです。  マリアは天使に「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分 かりません」と答えました。マリアのまなざしはなお悲しみに閉ざされています。しかしそれ は次の瞬間に復活の主を見るまなざしです。そしてマリアが復活の主を見たとき、彼女はそこ に世界と歴史の唯一の救い主(贖い主)なるキリストのお姿を見いだしたのです。キリストはい まここに生きて私たちと共におられます。主がおられない場所、主の愛と恵みが届かない場所 などは存在しません。私たちの生きるかぎり、否、死を超えてまでも、ただ主の限りない慈愛 の御手が私たちの全身全霊を受け止め、贖われた全ての者と共に御国を受け継がせて下さるの です。