説    教   ホセア書2章19〜20節  ヨハネ福音書20章14〜18節

「汝は誰を尋ぬるか」

2011・06・19(説教11251382)  今朝のヨハネ福音書20章14節から16節までをもういちどお読みしましょう。20章14節 です。「そう言って、うしろをふり向くと、そこにイエスが立っておられるのを見た。しかし、 それがイエスであることに気がつかなかった。イエスは女に言われた、『女よ、なぜ泣いてい るのか。だれを捜しているのか』。マリアは、その人が園の番人だと思って言った、『もしあな たが、あのかたを移したのでしたら、どこへ置いたのか、どうぞ、おっしゃって下さい。わた しがそのかたを引き取ります』。イエスは彼女に『マリアよ』と言われた。マリアはふり返っ て、イエスにむかってヘブル語で『ラボニ』と言った、それは、先生という意味である」。  主イエスの墓の前に立つマグダラのマリアは、大きな悲しみで心が塞がれたままでした。だ から彼女に天使が墓の中から「女よ、なぜ泣いているのか」と訊ねた時にも、マリアはただ「だ れかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わからないのです」と涙 ながら答えるのみでした。「わたしの主の御身体を返して下さい」と訴えたのです。マリアに とって主イエスは過去のかた(死んだかた)であり、思い出だけが頼みでした。しかしそのマリ アの悲しみの中でこそ、復活の主イエスはマリアの後ろに立っておられました。マリアはまだ その事実に気がつかずにいます。私たち人間にとっていちばん無防備なのはうしろ姿です。う しろ姿にはその人の本音(偽りなき本当の姿)が現れます。前姿は取り繕えますがうしろ姿は取 り繕うことはできません。それは人生のあらゆる場面で言えることです。人も羨む順風満帆の 人生を歩んでいるように見える人でも、意外とその背後には誰にも言えない苦しみや悲しみが あるものです。強くしっかり歩んでいるように見える人が意外に弱く脆かったりします。成功 の影にも挫折があり、強さの影にも弱さがあり、喜びの影にも悲しみがあるのが私たち人間な のです。うしろ姿にこそ私たちの本当の姿があらわれるのです。  豊臣秀吉が信長に取り立てられるきっかけになった出来事がありました。信長が越前の敦賀 を攻めたとき、両側を山に阻まれた越前街道を行く信長の軍勢の背後から突如浅井長政の軍勢 が攻め上ってきたのです。不意を突かれた信長軍は行くことも引くこともできない絶体絶命の 状態になり、10万人もの大軍が全滅の危機にさらされました。誰もが一番先に逃げ出したい。 しかし誰かが最後にならねばならない。そのとき秀吉(木下藤吉郎)が信長に申し出ました。「そ れがしがしんがりとなり、浅井の軍勢を阻みまするゆえ、その間にご退却下され」。日ごろ藤 吉郎のことを三河侍だの成上がり者だのと陰口を言っていた大名たちも彼を見直し、礼を言い つつ逃げのびていったと伝えられています。このように背後を守ることは最も危険で困難なこ となのです。登山の時にも列のいちばん後ろには最も熟練の人がつきます。草食動物の群れで も群れのしんがりはいちばん力のある個体が務めるそうです。まっすぐ進むことは容易なこと ですが、しんがりを守ることは非常に難しく犠牲を強いられることなのです。  そこで改めて丁寧に聖書を読みますと、聖書の中でも主なる神は「いざというとき」にいち ばん後ろに回られ「しんがり」を務められたことが記されているのです。出エジプト記14章 によれば、エジプトから脱出するイスラエルの民にエジプト軍が追い迫ったとき(当時世界最強 の軍隊であったエジプト軍は1日約100キロを進んだと言われています)イスラエルの民の中 には病人もいれば幼い子供や女性たちや高齢者もいたのです。どんなに恐ろしかったことでし ょう。しかし主なる神は最後の最も弱い一人が無事に紅海を渡り終えるまで「しんがり」とな って民全体を守られたのです。主イエスも同じです。福音書を読むとエルサレム(十字架)を 目前とせられた主イエスが弟子たちの先頭に立って歩まれたので、弟子たちは「みな驚き恐れ た」と記されています。それは逆に申すなら主イエスがいつも弟子たちの「しんがり」となっ て歩んでおられたということです。  今朝の御言葉においても、その主イエスの恵みははっきりと私たちに現されているのです。 マリアは深い悲しみに心塞がれて墓に向かって泣いているだけでした。泣くこと以外に何もな しえなかった。限りない空しさだけが彼女の存在を覆いつくしていた。しかしまさにそのよう な空しさの只中にあるマリアのうしろ姿を見つめて復活の主イエス・キリストは御声をかけて 下さったのです。「マリアよ」と彼女の名を呼んで下さったのです。名を呼ばれるとは“かけ がえのないあなた”として主が私たち一人びとりを呼んでおられるということです。たとえ私 たちのまなざしが主の御姿を見失っているときにも、主のまなざしは変わることなく私たちを 見つめていて下さるのです。私たちの心が悲しみや挫折や悩みによって塞がれている時にも、 主の御心はいつも変わることなく私たち一人びとりに注がれているのです。  「マリアよ」と名を呼ばれた彼女は「ふり返って」主イエスに「ラボニ」と答えました。こ の「ラボニ」とは「ラビ」(先生)というヘブライ語に「私の」という語尾をつけた敬愛の表 現です。マリアが普段から主イエスをお呼びするとき使っていた言葉です。主イエスは墓に向 かって泣いているマリアの後ろにずっと立っていて下さったのです。マリアがただ一人で悲し みに打ちひしがれ、戸惑い、絶望していたその時にこそ、主イエスは彼女と共に彼女の背後に いて下さったのです。そしてマリアの全身全霊を守り支えていて下さったのです。マリアが最 も深い悲しみと苦しみの中にいたときにこそ、復活の主イエスが彼女の後ろにいて下さったの です。それは2つのことを意味していると思います。まず第一に、主イエスがマリアの後ろに 立っておられたということは、主イエスがマリアと同じ角度から彼女の悲しみや苦しみを見つ めておられたということです。マリアが悲しみに心塞がれつつ墓に向かって涙していたとき、 主イエスは彼女と同じく墓のほうを向いて、言葉にならない彼女の悲しみと苦しみのあるがま まを受け止めていて下さったのです。  私たち人間にはこれが最も難しいことなのです。同情のことを英語で“シンパシイ”と申し ます。これは「パトス(苦しみ)を共有する」という意味です。他者の悲しみや苦しみを自分 のものとして担うことです。しかしまさにそのことが私たちにはいちばん苦手なのです。「他 人の不幸は蜜の味」という厭な言葉があります。私たちは他人の陥った不幸や悲しみを「蜜の 味」だと思うことはないかもしれない。しかしその相手が嫌いな人間や不愉快に思う相手であ った場合、その人間が不幸になるのを見て心のどこかで溜飲を下しているのが私たちではない でしょうか。ナチスの強制収容所を体験したヴィクトール・フランクルという医師が、病気に なって働けなくなり絶望に陥ったある看護師に、本当に大切なことをわかって欲しいと願って このように申しました。「あなたの今の状態は看護師としてこれまで看取った病人たちに不誠 実だと思いませんか。もしあなたが病気で働けない人生は無意味だという態度を取るなら、病 気の人たちはどんな思いがするでしょう。もしあなたが今の自分に絶望するなら、あなたは自 分の価値を健康と働きの大きさに見出してきたことになります。しかもそう振る舞うことによ って、あなたは全ての病人から生きる権利と存在することの深い意味を奪い取ることになるの ではないでしょうか」。  主イエスは私たち全ての者に対して、私たちの「死に至る罪」という病を徹底的にご自分の ものとして担って下さったかたなのです。私ごとですが私は学生時代に花山信勝という浄土真 宗の偉いお坊さんから2年間仏教学の講義を受けました。巣鴨プリズンでA級戦犯とされた 人々の最後を看取られた人です。この花山先生によれば日本で最も深く仏教経典を理解したの は聖徳太子だそうです。しかしその聖徳太子も仏が衆生の病をわがものにするという場合、そ れはあくまでも「応病」であって「実病」ではないと語っている。仏の本質は空であるから病 むということはありえない。そこに仏教とキリスト教との根本的な相違があると言われました。 花山先生は偉大な仏教学者ですが、キリスト教だけにあって仏教にはない福音の本質とも言う べき十字架による罪の贖いを謙虚に正確に捉えていたのです。  キリスト教の神は「有りて有るもの」ですから仏教で言う「空」の対極にある唯一絶対的な 実在です。それならその絶対的実在であられる主イエス・キリストが私たち罪人の罪を担って 十字架に死なれたということは、永遠にして聖なる神の本質において「罪」が受け止められた ことです。すなわちキリストは私たちのために「実病」を担われたかたなのです。神から離れ た私たちを真の神の子として下さるために永遠の神の子イエス・キリストが神の外に出て下さ ったのです。それは私たちに生命を与えるため、神が神であることを失ったほどの出来事でし た。まことの神は徹底的にご自分を犠牲になさりご自身の全てを罪人のために与えたもうかた なのです。主イエスがマリアと同じ角度で彼女の苦しみを担われたとはそのような意味です。 そしてそこにこそ福音の本質が輝いているのです。  第二に、主イエスはマリアの背後にいて下さいました。彼女の背後におられたということは、 悲しみと苦しみによって崩れてしまうマリアの全存在を主イエスが堅く守り支えていて下さ ったということです。私たちは表の顔は繕えますが背中は繕えません。悲しみや苦しみがいか にその人を立ちえなくさせているか、それは背中にあらわれるのです。疲れも寂しさも辛さも やるせなさもみな背中が物語ります。それならば主イエス・キリストは表向きの取り繕われた 私たちと接したもうのではなく、私たちの裏の(背中の)隠された本音を見つめてその影の部 分(負の部分)をも含めて私たちをあるがままに愛し、守り、支えていて下さるかたなのです。  「頑張らなくては駄目だ」と言われ「もっと頑張れ」と求められて自分でもそうしなければ と思い必死で頑張って生きようとする私たちを、ただその期待に応ええている部分からだけ見 つめて評価している人間と主イエスは根本的に違います。頑張れなくなっている私たち、頑張 りようがない私たち、頑張っても追いつかないでいる私たち、そして他者も自分をも審いてし まう私たち、そのような私たちのあるがままの現実を、すなわち私たちのあるがままの弱さと 脆さをそのままに限りなく愛し、そのような私たちの背中を見つめ、慈しみ、理解していて下 さるのが主イエス・キリストなのです。そればかりではありません。私たちの絶望の根源をた どるならその行く先には必ず「罪」の問題があるのです。私たちは生まれながらに神から離れ 神に叛き神の栄光を讃えず自分をほめたたえ、自分の利益と喜びのみを求める存在です。その ような私たちの作り出す世界はなんと歪な恐ろしい虚無の世界になっていることでしょうか。 パウロは「万物は神の子の出現を待ち望んで呻いている」と語りました。世界の全ての被造物 は御子イエス・キリストによるまことの救いを求めて今もなお呻きの中にあるのです。真の救 い主、私たちをまことの神の子として下さるキリストを待ち望んで止まないのです。  そのような私たちに、ただ主イエスのみが「誰を尋ぬるか」と御声をかけて下さいます。あ なたが尋ね求めている本当の救いが、本当の喜びと平安が、本当の生命と幸いが、いまあなた のもとに来ている。今朝の言葉はその救いの事実を私たちに力強く語り告げ、私たちを生ける 神の御子・永遠の主なるイエス・キリストへと導くものであります。主は私たちの存在を常に 慈しみの御手をもって支えて下さいます。私たちはこのかたに向かってマリアとともに「ラボ ニ」と心から信仰を告白し主に従う歩みを続けて参りたいと思います。