説    教    エゼキエル書37章1〜6節  第一ペテロ書2章1〜5節

「建てられて神の家となる」 聖霊降臨日主日

2011・06・12(説教11241383)  聖霊降臨日(ペンテコステ)主日礼拝を迎えました。我らの主イエス・キリストは十字架と 復活と昇天ののち、父なる神のみもとから弟子たちに約束の聖霊をお送りになり、そこに最初 の教会が誕生しました。その主の教会を通して今ここに聖霊によって現されているキリストの 救いの御業を覚え、感謝と讃美を献げる私たちです。今朝の旧約聖書エゼキエル書37章1節 〜6節を拝読しますと、そこに「霊」または「主の霊」という言葉がたくさん出てきます。も とのヘブライ語では「神の息」という言葉です。ほんらい「息」とは「生命」のことですから 「神の息」とは「神の生命」を意味します。それは何より聖霊のことです。つまり聖霊は「神 による新しい生命」を私たちに与えて下さるかたです。それならペンテコステは私たちに「神 による新しい生命」が注がれ、そのことによりキリストの教会が建てられた喜びの日です。私 たちに「神の生命」が与えられた記念日なのです。  そこで、今朝のエゼキエル書37章1節以下の中心的な音信は「あなたがたを生かす」と言 われる主なる神の恵みの宣言です。この「生かす」と訳された元の言葉は「よみがえらせる」 という意味のヘブライ語です。つまり今朝の御言葉ではっきり示されている“主なる神による 救い”とは、神が聖霊によって私たちにご自分の生命をお与え下さることにより、私たちを死 の淵から「よみがえらせ」て下さる救いの出来事なのです。ここで神は繰返し預言者エゼキエ ルに「人の子よ、これらの骨は、生き返ることができるのか」と問うておられます。エゼキエ ルが聖霊によって導かれた場所は世にも恐ろしい死の谷でした。そこには一面に人骨が散乱し、 しかもそれらの骨は「皆いたく枯れていた」のです。たぶん戦争か虐殺があった場所だったの でしょう。鬼哭啾々たるその死の谷の真中で預言者エゼキエルは「これらの骨が生き返ること をあなたは信じるか?」と主なる神に問われるのです。  旧約の預言者とはどういう人々かと申しますと、生命から最も遠く隔たった人間の罪と死の 現実の中で、神による新たな「救いの生命」の到来を語った人々です。それにしてもエゼキエ ルへの問いはなんと凄まじいことでしょう。エゼキエルはいま白骨が累々と散乱する死の谷で 「これらの骨がよみがえることを信じるか」と問いたもう神の御声を聴くのです。そしてその 御声を信じたのです。この世の常識では全くあり得ないことです。しかしエゼキエルは「主な る神よ、あなたはご存じです」と信仰をもって答えます。エゼキエルが導かれたその「死の谷」 は私たち人間の「罪」を現しています。私たちは真の神から離れ生命を失った存在でした。累々 と散乱した白骨のような望みなき死せる者でした。そこでこそ今朝のエゼキエル書37章6節 は「そこであなたがたはわたしが主であることを悟る」と告げるのです。これこそ主なる神の 約束です。「神の霊」すなわち「聖霊」が私たちに与えられるとき、生命なき白骨のような私 たちが神を「主」として「悟る」者とされる。新しい生命が与えられるのです。この「悟る」 とは「信じる」ことです。キリストを「主」と告白し、聖霊によって建てられたキリストの教 会に連なり、礼拝者として生きることです。それは私たちが神に愛されたかけがえのない存在 であり、神の愛の内にしか生きえない存在であることを「知る」(悟る)こととひとつの恵みな のです。  先日、東日本大震災で罹災し、津波で犠牲になったと思っていた家族が生きていて再会でき たという喜びの様子が報じられているのを見ました。地震から10日間ぐらい消息がわからな かった。しかし探し続けていた。そしてついに再会できたのです。そこには限りない喜びがあ りました。家も何もかも失われていても愛する家族と再会できた喜びで全てが満たされたので す。引き裂かれてはならない家族が、再びひとつになった喜びと幸いです。人間どうしの関係 においてさえこれほど大きな喜びがあるのなら、まことの神を知りまことの神の愛に立ち帰っ た喜びと幸いはどんなに大きなものでしょうか。私たち人間にとって「よみがえりの生命」と は神から遠く離れていた私たちが御子イエス・キリストによる罪の贖いにより何の価もなきま まに「神の子」にならせて戴いたことです。それこそが「神を知る」ことです。13節と14節 にも同じことが語られています。私たちの「復活の生命」とは主イエス・キリストを信じる信 仰によりまことの神に立ち帰ることです。  すると、今朝の御言葉の中に幾度も「わたしが」という言葉が繰返される理由がわかるので す。主なる神ご自身のことです。神はいま「死の谷」のようなこの歴史と世界の現実のただ中 に聖霊によってキリストによる限りない罪の赦しと復活の生命を与え、そこに私たち全ての者 を教会によって招いておられます。それを「あなたは信じなさい」と言われるのです。私たち 一人びとりがエゼキエルと同じ御言葉を聴く者とされているのです。「死の支配しかありえな い世界の現実が、復活の喜びの生命に立ち上がり、救われることをあなたは信じるか」と問わ れているのです。「主なる神よ、あなたはご存じです」という答えだけが私たちのなしうる唯 一の答えです。たとえ私たちがどんなに自分と世界に絶望しようとも、主なる神は絶対に私た ちに絶望したまわない。その確かな証拠が聖霊による教会の建設です。いま私たちは聖霊によ って生かされ、神の生命に覆われているのです。それは私たちの肉体の死さえ覆う本当の生命 です。だからパウロは私たちの「からだ」を「聖霊の宮」と呼びました。私たちはキリストの 御身体なる教会に連なることにより、キリストの復活の生命に豊かにあずかる者とされている のです。キリストの生命が聖霊によって満ち溢れる幸いに生かされているのです。  それならば、主が私たちに求めておられることは、私たちが本当の信仰の生涯を、日々喜び と希望と感謝の人生を歩むことです。聖霊はたえず私たちに私たちと世界に対する神の御心を 教えて下さり、私たちが神の御心を求めるようにさせて下さるからです。そのことが今朝の新 約・ペテロ第一の手紙2章1節以下に記されています。「だから、あらゆる悪意、あらゆる偽 り、偽善、そねみ、いっさいの悪口を捨てて、今生れたばかりの乳飲み子のように、混じりけ のない霊の乳を慕い求めなさい。それによっておい育ち、救に入るようになるためである。あ なたがたは、主が恵み深いかたであることを、すでに味わい知ったはずである。主は、人には 捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。この主のみもとにきて、あなたが たも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キ リストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい」。  この「今生れたばかりの乳飲み子のように」という言葉をラテン語で“クワジモドゲンティ” と言いますが、これはペンテコステに始まる新しい生活(生命)をあらわす言葉です。私たちに はいつも御言葉が「霊の乳」として聖霊によって豊かに与えられているのです。ペンテコステ はその恵みの中に私たちと全世界の人々が招かれていることです。人間が人間たりうるのはた だ真の神の言葉(聖霊なる神の恵み)によるのです。主は「人はパンによって生きるものではな く、ただ神の御口より出る、ひとつひとつの言葉によって生きる」と言われました。この生命 のパン(「霊の乳」)である神の愛にのみ私たちの人生の永遠の基盤があります。そこに罪と死 の支配は終わりを告げ、白骨累々たる死の谷間さえ神の息に甦るのです。私たちは「子よ安か れ、なんじの罪ゆるされたり」と宣言したもう主の御声を聴いているのです。それこそご自分 の全てを献げて贖いとなられた主の御声です。  だからこそ、私たちはいまイエス・キリストという「尊い生ける石」に連なる「生ける石」 とならせて戴いているとペテロは語るのです。石を積み上げて造った建物にとって、どんな小 さな石もなくてならない大切な「生ける石」です。どれひとつ欠けても建物は成り立ちません。 キリストという唯一の「要石」に連なるなら、どの石もみな必要な「生ける石」であり不必要 な「死んだ石」はないのです。私たちはそれぞれの人生の中で聖霊によってキリストを信じキ リストに連なる者とされ、まことの神の愛を「悟る」者とされて新たな霊の生命に甦り、とも に主の御身体なる教会の尊い「生ける石」とされているのです。要石であるキリストに連なっ て「霊の家に築き上げられる」喜びと幸いに生きる者とされているのです。この「霊の家」は 聖なる公同の教会であり、死に打ち勝つ唯一永遠の神の家です。その「生ける石」とされて私 たちは「建てられて神の家と」なり「霊の家に築き上げられ」るのです。今日はその喜びの記 念の日なのです。