説     教   哀歌3章22〜23節  ヨハネ福音書20章11〜13節

「限界なき救い」

2011・06・05(説教11231380)  他の弟子たちや女性たちがみな自分の家に帰って行ったあとも、マグダラのマリアだけはた だひとり主イエスの墓の前に立ち続けていました。今朝の御言であるヨハネ伝20章11節を見 ますと「しかし、マリアは墓の外に立って泣いていた」と記されています。そして続いてこう も記されています「そして泣きながら、身をかがめて墓の中をのぞくと、白い衣を着たふたり の御使がイエスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に、すわっ ているのを見た」。  ここに「御使」とあるのは英語では“エンジェル”つまり「天使」のことです。元々のギリ シヤ語では天使を「アンゲロス」と申しますが、その本来の意味は「福音を宣べ伝える者」で す。マグダラのマリアは主の御墓(つまりキリストの御身体なる教会)に留まり続けることによ って、神が遣わされた2人の天使に最初に出会った女性になりました。そしてその天使は「イ エスの死体のおかれていた場所に、ひとりは頭の方に、ひとりは足の方に」座っていたと記さ れているのです。  古代イスラエルの墓は洞窟のような横穴式でした。その中に遺体を安置する細長い石の台が ありました。その台の頭のほうと足のほうにそれぞれ1人ずつ天使(アンゲロス)が座っていた のです。それがマリアが主イエスの墓を「泣きながら、身をかがめて」覗きこんだとき目撃し た光景でした。そのときマリアは非常に驚くと同時に神聖な思いに満たされたことでした。な ぜなら天使の務めは神からの福音(救いのおとずれ)を人に伝えることだからです。  墓は人生の終着点であり死の完成する場所であるというのが私たち人間の常識です。つまり 墓という場所は私たち人間からいっさいの言葉を奪い去る場所です。あるいはいっさいの言葉 が空しくなる場所です。たとえ私たちが墓に向かって呼びかけ話しかけようとも、墓そのもの からは何の返事もありません。当然のことです。墓はただ沈黙だけが支配する葬りの場です。 私たちのいかなる声も墓の前には空しく響くだけです。墓は人間からいっさいの言葉を奪う場 所です。しかしまさにその“沈黙だけが支配する葬りの場所”しかも“死が完成する場所”で あるその墓で、私たちに生命の言葉(福音)を語りたもうかたがおられるのです。主なる神はま さに墓の中から私たちに「天使」を通して生命の言葉を語りたもうのです。いっさいの言葉が 空しくなる場所で、その空しさを打ち破る唯一の言葉が宣べ伝えられるのです。この事態に直 面して誰が畏れを抱かずにおれるでしょう。墓の前で泣くしかなかったマリア、涙以外に言葉 を持ちえなかったマリア、そのマリアが今や「天使」を通して福音の生命の言葉を聴く者とさ れるのです。この場面をアウグスティヌスはこのように語りました「見よ、マリアは悲しみを 鎮めるためにどこに行ったらよいのかわからなかった。しかしまさにそこでこそ、彼女に対し て泣くことを禁じる天使が、ある仕方で告知した大いなる喜びが、彼女の涙に取って代わる時 がすでにそこに来ていたのである」。  「天使」の務めは教会の歴史においてこの世における教会的職務の中心として理解されてき ました。そのとおりではないでしょうか。神に立てられ神から遣わされた群れとして全ての人 に福音の言葉を宣べ伝える務め、それこそ私たちが教会の主から委ねられている「天使的職務」 としての教会の職務です。私たちはローマ・カトリック教会のように「天使の存在の証明」と か「諸天使の間の序列」というようないわゆる“天使論”を展開はしません。そうでなくて私 たちは今朝の御言葉に宣べ伝えられた2人の天使の姿に私たちの教会の使命を読み取るのです。 それは「墓」すなわち私たち人間を支配しているあらゆる「罪と死の現実」に対して主イエス・ キリストによる限りなき生命の福音を宣べ伝えることです。言葉のありえないところに生命の 言葉を語り告げることです。慰めのありえないところにキリストによる真の慰めを告げて止ま ぬことです。平安のありえないところに主の賜わるまことの平安の到来を伝えることです。そ れこそ私たちの教会が神から遣わされている使命なのです。教会のみにしかなしえぬ「天使的 職務」なのです。  では、なぜ教会のみにそのような奇跡的な「天使的職務」がなしうるのでしょうか。それは 教会は主イエス・キリストの御身体だからです。それは私たちのために十字架にかかって下さ った十字架の主の身体であると同時に、私たち全ての者の救いのために墓から甦って下さった 復活の主の身体です。私たちに対する極みなき主の愛がそこに満ち溢れているのです。天使の 存在は教会の存在です。そして教会の存在は主が全ての者のために十字架にかかられ、死して 葬られ、墓から甦られたことの証明です。ここに教会が存在することこそ、主が全世界の贖い 主であられることの確かな証明なのです。  そこで、私たちは改めて今朝の御言葉を、特にマリアが墓の中で見た光景を顧みなくてはな りません。そこでは1人の天使は主イエスの御頭があった場所、もう1人は御足のあった場所 にそれぞれ「すわっていた」のでした。そして天使は彼女に「女よ、なぜ泣いているのか」と 訊ねたのでした。まず私たちは第1の問いを読み解きたいと思います。どうして天使は主の御 頭と御足の両方の場所に座っていたのかということです。さきほども顧みたように「天使」を 意味する“アンゲロス”というギリシヤ語はほんらい「福音を宣べ伝える者」という意味です。 つまり唯一の主なるキリストのみを宣べ伝えるのが「天使」の職務です。ですから「天使」(ア ンゲロス)は「福音」を意味する“エウアンゲリオン”と同じ語源です。ここで私たちはあのオ リンピックのマラソン競技を思い起こすことができるでしょう。マラソンの起源は紀元前399 年アテネとペルシヤの間で戦われた“マラトンの戦い”にあります。不利であったアテネ義勇 軍は勇躍奮戦しまして恐るべき強敵ペルシヤ正規軍に勝利をおさめます。その勝利の報せをア テネの街で待つ市民に伝えるべくひとりの青年が伝令に走りました。彼は42195メートル (42.195キロ)を走りぬきアテネの市民に「わが軍勝利せり」と声高く叫ぶや地に倒れて帰ら ぬ人となった。それがマラソン競技の起源と言われているのです。古代の戦争では敗戦国の国 民は全て戦勝国の奴隷となる定めでした。つまりアテネ義勇軍がもし敗れればアテネの市民は 老若男女を問わず子孫の代までペルシヤの奴隷となる定めでした。「わが軍勝利せり」との報 せは、もう私たちは誰も奴隷になる必要はない。私たちは自由な勝利の民なのだという爆発的 な喜びの音信そのものでした。それでこの自由と勝利の音信を古代のギリシヤ語ではエウアン ゲリオン(福音)と呼び、それをもたらす伝令をアンゲロス(天使)と呼んだのです。「天使」 という言葉の背景にはそのような歴史的事実があるのです。  そこで私たちも、いや私たちこそ、それと同じ、否、それとは較べものにならぬほど大きな 自由と勝利と解放の音信を主イエス・キリストから戴いている者たちではないでしょうか。自 由と勝利をえたアテネの市民たちも「罪と死の現実」に対してまで自由であったわけではあり ません。ひとつの国家が滅亡から救われましたが、それで人間の「罪」の問題が解決したわけ ではありません。そこにはなお墓の中にまで届く自由と勝利と解放の音信はないのです。墓の ごとき人生の虚無の現実、私たちがいっさいの言葉を失わざるをえない「罪と死の現実」に対 して、私たちは何の力も持ちえぬことに変わりはないのです。  それならば、まさにその私たちの虚無の現実のただ中にこそ神の永遠の御子イエス・キリス トは来て下さいました。私たちの墓のような虚無の中にこそ主は降りてきて下さり、十字架に かかられ、その墓に葬られて下さったのです。そこで私たちの罪と滅びのいっさいを主イエス のみが全て担い取って下さったのです。いみじくもルターの言うように、キリストは十字架に おいて「死の死を成遂げられた」のです。「死に引導を渡された」のです。永遠の神の御国(神 のご支配)が私たちの朽つべき存在を覆い尽くす恵みにいま私たちは生かされています。この世 界の現実と歴史とが十字架の主において贖われ新たなものとされたのです。そこに神から離れ て放浪していた魂さえも立ち帰って真の生命に甦り、罪によって死したる者さえもキリストの 生命に甦って主の御名を崇めつつ主と共に歩む者とされてゆくのです。これが奇跡でなくして 何が奇跡でしょうか。  この福音の告知を伝えた天使は、1人は主の御頭のあったところに、もう1人は御足のあっ たところに座っていたのです。これは「頭から足の先まで」という意味です。すなわち「始め から終わりまで」(徹頭徹尾)という意味です。すなわち十字架と復活の主の福音(全ての人に 対するまことの救いのおとずれ)は限界というものをいっさい持たない。時間と空間に支配さ れることのない永遠の自由と勝利と解放の音信であり変わることのない喜びなのです。十字架 の主の福音は「ここまでは届くけれど、ここから先は届かない」というオフリミットを持たな いのです。不到達点を持たないのです。それは墓の中にさえ宣べ伝えられ、その中にある者を さえ活かしめる「限界なき救い」のおとずれなのです。私たちは主の御業に対してすぐに限界 点を引きたがります。そのほうがわかりやすいからです。自分の望む事柄、自分が欲する方向 に主イエスを引き込もうとします。言い換えるなら主が自分の思い通りに動いて下さることを 私たちは心のどこかで願っているのです。  しかし主のなさる御業には限界というものはなく、それはいつも私たちの思いを遥かに超え ています。当然のことですが主が私たちに従うのではなく私たちが主に従うべきなのです。そ の意味で今朝の御言葉はまことに大切です。天使は主イエスの御頭から御足まで「福音の全て」 を告知するために墓の中に「すわっていた」のです。私たちの教会もそれと同じです。教会は いっさいの人間の言葉が(人間のわざが)虚しくなるその場所(墓)において福音の全体を宣べ伝 えるために存在しているキリストの御身体です。だから、ただ主の教会のみが墓の中でマリア に対して「女よ、なぜ泣いているのか」と訊ねることができるのです。  この「なぜ泣いているのか」とは「あなたはもう、泣かなくてもよいのだ」という意味です。 「あなたがもはや泣かなくてもよい出来事がここに起っている」という意味です。あなたの目 から涙を拭い去って下さるかた、あなたを永遠の生命と喜びに甦らせて下さるかたがあなたと 共におられる。そのかたがあなたのために十字架にかかられ、墓から甦って下さった。その測 り知れぬ慰めの事実を、主の天使すなわち私たちの教会は全ての人々に宣べ伝えるのです。そ の喜びの事実のゆえに、まことの神に立ち帰った者の喜びと幸いをもって私たちは礼拝者とし て生き続けるのです。主の御名を讃美し続けずにはやまないのです。  マリアは天使に「だれかが、わたしの主を取り去りました。そして、どこに置いたのか、わ からないのです」と答えました。マリアのまなざしはなお深い悲しみに閉ざされています。し かしそれはまもなく復活の主の御手によって開かれるまなざしです。そして主によってまなざ しを開いて戴いたとき、マリアはそこに世界と歴史の唯一の救い主(贖い主)なるイエス・キリ ストを見いだすのです。キリストはいまここに生きて私たちと共におられるのです。主がおい でにならない場所、主の愛と恵みが届かない場所などどこにも存在しないのです。たとえ私た ちが死んで墓に葬られる時にも、ただ主の限りない慈愛の御手のみが私たちの全身全霊を受け 止め、主に贖われた全ての者と共にこの私たちをも朽ちぬ生命に甦らせて下さるのです。