説    教    詩篇30篇1〜5節   ヨハネ福音書20章1〜10節

「復 活」

2011・05・29(説教11221379)  私たちは日ごろ無意識にもせよ、自分の存在や人生の価値をいかに優れた業績を残せたか、 いかに他の人々に認められたか、いかに優秀な能力や資格を持ちいかに仕事ができたか、い かに健康であるか、そうした外側の能力によって測っています。そうした能力が多くあれば 人生には意味があり、逆にそうしたものが乏しければ自分には価値がない、そういう歪んだ 価値観を私たちは自分にも他者に対しても抱いていることが多いのです。かくして私たちの 人生は「かけがえのない汝」ではなく、取替えのきく匿名の(名を持たぬ)人間一般にすぎ なくなります。現代はまさにそうした「匿名性の時代」です。そしてこうした誤った“匿名 性の人間観”は実はまことの神との生きた交わりを失った私たちの「罪」にその根本原因が あるのです。罪による人間の「匿名性」によって私たちは例外なく帰るべき故郷を失い、パ スカルの言う“宇宙の孤児”になるからです。自分の存在を支える真の主から離れるとき、 私たちは幹から離れた枝のように虚しいものになってしまうのです。  今朝お読みしましたヨハネ伝20章1節〜10節の御言葉に「マグダラのマリア」という女 性が登場して参ります。と申しますより、今朝の御言葉の中ではこのマグダラのマリアと弟 子たちの姿だけが浮彫りにされています。これはヨハネ福音書がよく用いる「個人化」と呼 ばれる物語の描きかたです。福音書記者の主眼はもちろん主イエス・キリストの限りない愛 と恵みと救いを描くことです。しかしそこに同時に現れてくるものこそ、キリストの愛と恵 みと救いの中でこそ「匿名化」されえない人間の本当の姿なのです。それこそ福音書記者ヨ ハネはキリストの復活を物語るこの大切な場面において、大勢の人々の姿を細大漏らさず記 すこができたはずです。しかしヨハネはここでマグダラのマリアと弟子たちだけに焦点をあ て、私たち一人びとりにキリストによる救いの喜びと平安を告げています。つまり私たちも また今朝の御言葉の前でのみ、ただ“かけがえのない汝”として御言葉を聴く者とされてい るのです。神は私たちを「人間一般」としてあしらい給わず、如何なる時にも私たちをただ “かけがえのない汝”として相対して下さいます。  「マグダラのマリヤ」の「マグダラ」とはガリラヤ湖の北側にある地名でした。ガリラヤ湖 の西のティベリアという町から船で湖を渡りますと、やがて左手に特徴ある台形の岩山が見 えてきます。その山の麓一帯を「マグダラ」と呼びました。マリアはそこの出身であったこ とがその名前からわかるのです。このマグダラのマリアはマルコ伝16章9節またルカ伝8章 2節によれば、かつて主イエスによって「七つの悪霊」から救って戴いた女性です。この救い を機会としてマリアは主イエスに従うようになったのでした。主イエスの御あとに従うとは、 すなわち絶えず主イエスの御言葉を聴きつつ歩む者になることです。このことから私たちは、 彼女の姿が実は私たち礼拝者の姿と重なることを知ります。つまり今朝の御言葉はかつて二 千年前に救われたマリアという女性がいたという記録ではなく、まさに今日の礼拝者である 私たちへの限りない救いの出来事を告げているものなのです。  主イエスが十字架において死なれたのは金曜日の午後3時頃のことでした。ユダヤの安息 日が始まる日没までは数時間しかなく、その慌ただしい数時間の間に主の御身体は十字架か ら取下ろされアリマタヤのヨセフの所有する新しい墓に葬られました。土曜日の日没までは 安息日ですから丸24時間だれも墓に行くことは許されなかったのです。ですから今日の御言 葉の場面は日曜日の早朝です。日曜日の早朝はじめて主イエスを慕う女性たちは主の墓に行 くことを許されたのです。他の福音書を見ますと19章25節に出てくる4人の女性たちが揃 って日曜日の夜明けを待ちかねたように主の墓に行ったことがわかります。何をするためか。 主の亡骸に香油を塗って差し上げるためでした。  彼女たちの心は底知れぬ悲しみによって重く塞がれていました。彼女たちは朝まだ暗い道 を「いったい誰が自分たちのために、主の墓の入口を塞いでいるあの大きな石を取り除けて、 主の亡骸に香油を塗れるようにしてくれるだろうか」と心配しつつ歩いてきたのです。とこ ろが墓に着いた彼女たちが見た光景は信じられないものでした。なんと主の墓の入口は大き く開かれており、しかも中を見ると主の御身体が見当たらなかったのです。主イエスの亡骸 をお納めしたはずの墓から主の御身体が消えていたのです。  この思わぬ事態に女性たちは途方に暮れました。今朝の2節以下によれば彼女たちは急い で「ペテロともう一人の弟子」に事の次第を報せ「だれかが、主を墓から取り去りました。 どこへ置いたのか、わかりません」と告げたのです。彼女たちは最初は主の亡骸が誰かの手 で「盗まれた」のだと思ったのです。6節以下はペテロが墓の中に入って見た状況を記してい ます。主イエスの御身体を包んであった亜麻布は主の亡骸が安置されていた場所に置いてあ り、主の頭に巻いてあった布は少し離れた別の場所に落ちていた。とても詳しい状況が伝え られています。そして続く8節で場面は急展開を見せます。それはその場に3人目の弟子が 遅れて駆けつけてきたとき、この空虚になった墓を見てそして「信じた」と記されているこ とです。この「信じた」という元々の言葉はただ神に対する信仰告白だけに用いられる言葉 です。つまり弟子たちはこの「空虚な墓」という不思議な状況を理解し受け入れただけでは なく、明らかに主イエスの復活の事実を「信じた」のです。「空虚な墓」という現実に直面し て彼らは主の復活を信ずる者に変えられたのです。  ところが同時に、今朝の御言葉の終わりの9節には「しかし、彼らは死人のうちからイエ スがよみがえるべきことをしるした聖句を、まだ悟っていなかった」とも記されています。 このことから私たちは「信じた」弟子たちも最初は迷いと戸惑いの中にあったことがわかる のです。彼らが「聖句」つまり聖書の御言葉によって復活を「(本当に)信じた」のはこの「空 虚な墓」の現実に直面した後のことなのです。その意味で弟子たちの信仰は最初はまだ受身 でした。その受身の姿勢を明白に示す言葉こそ、彼らはその「空虚な墓」からそれぞれ自分 たちの家に「帰っていった」とあることです。私たちにも同じことがあるのではないでしょ うか。あらゆる人間存在を匿名化し絶望と虚無の中に引込んでゆく罪の現実の中で、イエス・ キリストを「主」と告白し、教会に連なり、マグダラのマリアのように主に従って御言葉を 聴きつつ歩もうとする私たちも、ときに容赦なく「空虚な墓」のような現実に直面するので す。自分の弱さと無力さを嫌というほど味わうことがあるのです。そのような経験の中で私 たちもまた今朝の弟子たちのように「自分の家」に帰りたくなるのではないでしょうか。こ の「自分の家」とは「キリストの家」(教会)から離れた自分の生活のことです。  キリストに従う歩みから離れ、自分の古い価値観と衝突しない心地よさの中だけで、自分 が安心して身を屈められる場所で、主の御声に従うのではなく自分の心の要求に従い、無理 と無駄と軋轢のない人生を歩みたいと誘惑に駆られることが私たちにもあるのではないでし ょうか。キリスト者(礼拝者)であることが重荷に感じられるとき、私たちは主に従うよりも、 もっと気楽で安易な人生を歩みたいと願うことがあるのではないでしょうか。私たちが「自 分の家」に帰りたくなるのはそういう時です。言い換えるなら、私たちはキリストではなく 自分自身を人生の「主」と仰ぐ生活に「帰って」しまうのです。主人と僕が同じ自分であれ ばそこには何の矛盾もありません。自分の意思がすなわち自分の生活を決定する。そうすれ ば「自分の家」で寛ぐように気楽に生きられるはずだと私たちは思い違いをするのです。  しかし、まさに私たちはそのような誘惑の中でこそ今朝の御言葉を与えられています。そ れは、私たちがそれぞれの人生において直面する「空虚な墓」のような現実は、そこにキリ ストがおられない現実なのではなく、まさにキリストの復活の勝利と永遠に変わらぬ救いの 恵みを示す現実だということです。今朝の御言葉で私たちは何を「見る」のでしょうか?。 それは弟子たちが「自分の家」に帰っていった、そうした「罪」の現実にもかかわらず、否、 そのような私たちの現実のただ中でこそ主イエス・キリストは私たちのまことの「主」とし て墓から甦って下さったという事実です。そして最も弱いマグダラのマリアが主の復活の最 初の証人とされたのです。少しもマリアの力ではありません。彼女の計り知れぬ弱さの中に 主の絶大な救いの御力が働いて、マリアをして全人類の「復活の朝」を告げる器として下さ ったのです。「あなたがたが目覚める時が、すでに来ている」と告げる器とされたのです。マ リアは「自分の家」に帰らなかったのです、むしろマリアは「空虚な墓」のような人生の現 実のただ中でひたすら「主の家」である教会に連なって生き続けたのです。「自分の家」では なく「主の家」に生き続けたことによって、マリアは自分の弱さも破れもあるがままに主の 恵みの器とされたのです。  言い換えるなら、マリアがしたことはただ「主の家」に連なり(礼拝者として)生き続けただ けです。十字架と復活の主を仰ぎ信じただけです。それゆえ「空虚な墓」のような人生の現 実をさえ十字架と復活の主の愛の御手に支えられ、全てを恵みとして彼女は受け取りました。 そこにこそ主が私たちと共にいて下さることを信じたのです。他の人々が「自分の家」に帰 ったその同じ人生の虚しさの中で、マリアはただ「主の家」に留まって歩み続けたのです。 上野の西洋美術館にフランソア・ド・シャンパーニュという人の「マグダラのマリア」とい う絵があります。マリアが讃美を歌いつつ立ち上がる瞬間を描いた絵です。私たちもまたそ のように主の恵みの中で立ち上がる者とされているのです。それこそ私たちが常に豊かに主 から賜わっている祝福であり真実なる慰めです。私たちにいま復活の主の生命と祝福に連な る喜びが与えられています。「空虚な墓」のような私たちの人生の現実の中にこそ復活の主が 共にいて下さるのです。  この恵みに生き始めるとき、そこで私たちもまたマグダラのマリアと共に讃美を歌いつつ 立ち上がる平安に生き始めます。「空虚な墓」をいま満たしておられる復活の主の御手がいつ も私たちを支え導いて下さるのです。その復活の主こそ私たちのために贖いとなられた十字 架の主です。この十字架と復活の主の勝利の御手によってのみ、私たちは主が親しく名を呼 んで招きたもう“かけがえのない汝”として生きはじめます。自分をも他者をも、そしてこ の世界と与えられた人生の日々をも、永遠の主なるキリストの恵みのもとに新たに見いだし、 感謝をもって受け取る者とならせて戴いているのです。その恵みの中でこそ「主の家に連な る」喜びが与えられているのです。