説    教  列王記上13章26〜32節  ヨハネ福音書19章38〜42節

「葬られ給いし主」

2011・05・22(説教11211378)  ユダヤ教の安息日が近づいていました。安息日が始まればいかなるわざも許されませんで したから、十字架で死なれた主イエス・キリストのご遺体を一刻も早く十字架から降ろし墓 に葬る必要がありました。しかし主イエスの弟子たちはみな辺境の地ガリラヤの出身でした から、エルサレムには主イエスを葬るべき墓地を見出せずにいたのです。  葬りは“死の完成”です。私たちも親しい人の死の現実に際し、臨終の祈りそして前夜式・ 葬儀と続き、最後に墓に納骨する日を迎えてはじめて「これで葬りの全てを終えた」と実感 するのではないでしょうか。実は「葬り」とは考えれば不思議な出来事だと思うのです。当 然ですが葬られる人は自分の「葬り」について“なにもなしえない”のです。私たちもいつ か自分の身体が葬られる日を迎えます。しかし私たちはその自分の「葬り」に対して自分が 何かを“行う”ことはできません。いわば「葬り」とは自分の身体が完全に他者の手に委ね られる出来事なのです。  使徒信条の中には主イエス・キリストのご生涯が要約されていますが、その中で「死して 葬られ」とある一文だけが受動形(受身)の形です。言い換えるなら主イエス・キリストは この「葬り」という出来事においてこそ、私たち全ての者を罪から贖うために徹底的にご自 分を受け身の立場に置いて下さったのです。ご自噴の身体を他者の手に委ねて下さったので す。永遠にして聖なる神が「死して葬られ」るほど完全にご自身を献げ抜いたのみならず、 私たちの手に委ねて下さった、その驚くべき出来事を私たちは今朝の御言葉において知るの です。  さて、かくもご自分を空しくされて全ての人の罪の贖いとなりたもうた主イエス・キリス トを心から救い主と信じて、主のご遺体をお納めすべき墓を用意した人物がいました。それ は今朝のヨハネ伝19章38節に記された「アリマタヤのヨセフ」という篤志の人で彼は「ひ そかにイエスの弟子となった」人物だと記されています。アリマタヤのヨセフはポンテオ・ ピラトのもとに行き、ぜひ主のご遺体を自分に引き取らせて葬らせて戴きたいと申し出たの です。また続く39節を見ますと、かつて密かに主イエスのもとを訪ねたニコデモも「没薬と 沈香とをまぜたものを百斤ほど持ってきた」とあります。「没薬と沈香」はたいへん高価なも ので、それを「百斤」というのは金額的にも相当なものでした。ニコデモは主イエスに対す る信仰の証としてこれを主イエスの「葬り」のために献げたのです。この2人ともエルサレ ムの最高議会(サンヒドリン)の議員でした。この2人の共通点は最初は「ひそかに主イエ スの弟子となった」という点にあります。  そこで改めて40節以下を見ますと「彼らは、イエスの死体を取りおろし、ユダヤ人の埋葬 の習慣にしたがって、香料を入れて亜麻布で巻いた。イエスが十字架にかけられた所には、 一つの園があり、そこにはまだだれも葬られたことのない新しい墓があった」とあります。 この「彼ら」とはアリマタヤのヨセフとニコデモそして25節以下に記された“四人の女性た ち”のことです。そしてここに備えられた「新しい墓」こそ、アリマタヤのヨセフが主イエ スのために購入した墓でした。他の福音書ではそれはヨセフが所有する墓であったとありま すから、アリマタヤのヨセフは自分の葬りのために用意していた大切な墓に主のご遺体をお 納めしたわけです。そして最後の42節を見ると「その日はユダヤ人の準備の日であったので、 その墓が近くにあったため、イエスをそこに納めた」とあります。ここから私たちは、ゴル ゴタの丘とこの墓がごく近い距離にあった事実とともに、主の「葬り」が慌しい中にもたい へん恭しく執り行われた事実を知ることができるのです。  そこで、今朝の御言葉は非常に多くの豊かな福音の真理を私たちに伝えているのですが、 私たちはその中からおもに3つの点に心を留めて参りたいと思います。まず第一に心を傾け たいことは、先ほども触れたように主イエス・キリストは私たちの救いのためにこの「葬り」 の出来事においてこそ完全に無力な者となって下さったという事実です。何よりも私たちは 主が神の永遠の御子であられつつ、死んで墓に葬られるかたとなられた事実に深く思いを致 すのです。このことは主イエスの十字架の死が“本当の死”であった事実を示すものです。 言い換えるなら主イエスは“この向こう側に復活があるとはとても思えない”それほど深い “本当の死”を死んで下さったかたなのです。自分は今から十字架で死ぬけれども3日後に 甦るのだから死んだって構わないと言われて死なれたのではない。それをはっきり示すもの が死の完成としての「葬り」を主がお受けになったという事実なのです。  「葬り」と聴くとき私には鮮烈なひとつの思い出があります。それは私が高校生のとき、 同じクラスの親しい友人が急性白血病で亡くなり、文字どおり土の中に葬られたことです。 農家の長男であったこの友人は今では時代劇の中でさえ観られない樽型の棺桶に押し込めら れ、彼の生家から数百メートル離れた先祖代々の墓地に葬られました。僧侶の読経のあとで 私たち同級生らは代わる代わる棺桶を担いで墓地まで歩き、深く穿たれた墓穴に友の亡骸を 降ろし上から土をかけて埋葬しました。そこには慰めの片鱗さえありませんでした。癒され えない悲しみと絶望と虚無だけがありました。その出来事をきっかけにして私は聖書の御言 葉に導かれ、生まれて初めて教会の礼拝に出席するようになりました。私は使徒信条で主イ エスが「死して葬られ」たと告白するたびにその日の出来事を思い起こします。主イエス・ キリストはまさしく「葬り」という決して癒されえない悲しみと絶望と虚無のただ中に身を 置いて下さった救い主(キリスト)なのです。神から離れ神との交わりの外に出てしまった私た ちを救うためにキリストご自身が神の外に出て下さった。神ではない者になって下さった。 神が神であられることを止めてまでも私たちを極みまでも愛し抜いて下さった。それがあの 十字架と「葬り」の出来事なのです。まことの神はご自分の全てを献げて私たちの贖いとな って下さいました。まことの神の愛と御業が主イエスの「葬り」の出来事の中に余すところ なく輝き現れているのです。  第二に私たちが心を留めたいことは、アリマタヤのヨセフが自分の墓に主イエスをお納め したことです。アリマタヤのヨセフほどの地位と財力の持主なら他に幾らでも墓を用意でき たでしょう。しかしヨセフは自分のために用意しておいた最も大切な墓に主イエスの亡骸を お納めしました。彼はそれを心から望み実行したのです。またニコデモも没薬と沈香を百斤 も用意して主イエスの「葬り」のために献げました。これらの事柄は何を意味するのでしょ うか。それは彼らが主イエスの「葬り」の出来事の中に自分に与えられた確かな「救い」の 事実を見てそれを心から信じたということです。言い換えるなら彼らは主イエスの葬りにお いて“福音の本質”を見たのです。それは、主イエス・キリストは私たちの「滅び」をさえ 担い取って下さったかただということです。「葬り」が死の完成ならば、ヨセフは自分にとっ て死が完成するその場所に(まさしく自分のための墓にも喩えられる世界と人生の現実のただ 中に)十字架の主イエス・キリストをお迎えしたのです。だからニコデモもまたこの世で最も 価値ある大切なものを十字架の主にお献げしたのです。すなわち彼らは罪あるがままの自分 の現実の中に十字架の主をまことの救い主としてお迎えしたのです。  このヨセフもニコデモも共に最高議会の議員でした。同じヨハネ伝12章に人間の栄誉だけ を求めて神からの栄誉を求めなかった議員たちのことが出てきますが、彼らも最初はそのよ うな議員だったかもしれません。白昼に堂々とではなく夜陰に乗じ密かに主イエスを訪ねて 信じたことは、そのような彼らの苦悩の歩みを現わしていると思います。いわば彼らは主イ エスの十二弟子のようには歩んでこなかった人たちです。しかしその肝心の十二弟子たちが 十字架の主を見捨てて逃げ去ってしまったのに対して、彼らはその危急の時に主イエスの「葬 り」に関わるという大きな役割を果たしたのです。  それと同じことが私たちの人生にもないでしょうか。私たちはこの世との関わりにおいて、 自分がキリスト者でありキリストに従う者であることを公然と明らかにせず、いわば信仰に 徹しきれないでいる自分に忸怩たる思いでいることがあるかもしれません。自分の不甲斐な さを嘆くことがあるかもしれません。私たちにとって社会は無視したり捨てたりできないも のです。その私たちにとって最も大切なことは、自分の不甲斐なさを嘆くことでも自分の弱 さに絶望することでもないはずです。そうではなく最も大切なことは、自分に与えられたそ れぞれの社会との関わりにおいて、弱く脆いままの私たちの人生のただ中にあるがままに十 字架の主をまことの救い主(キリスト)としてお迎えすることです。そして教会生活を大切にす ることです。不本意ながらこの世において主イエスに対して毅然とした態度が取れずにいた 彼らの心の苦しみや悲しみを主イエスはよく知っておられたのではないでしょうか。そして 主は彼らのその苦しみや悲しみのあるがままに彼らを限りなく愛し受け入れていて下さった のです。主はご存知であられたのです。かくも弱く脆いいわば「主の隠れ弟子」であったア リマタヤのヨセフとニコデモが、あの十二弟子たちさえも逃げていった十字架の恐ろしい現 実の中で、まさにその十字架を契機として公然と自分たちを「キリストの僕」として言い表 す日が来ることを。そしてそれはまさに私たち一人びとりの人生に主が約束して下さってい る祝福なのです。  だからこそ私たちもまた、この煩わしく誘惑の多い社会のただ中でこそ主イエスを信じ主 イエスに従う僕とされていることを、自分に与えられた大いなる祝福として感謝できるので す。私たちは社会を離れた隠遁者として主に従うのではありません。そうではなく、主が極 みまでも愛し、その救いのためにご自分の生命をも献げ「死して葬られ」て贖われたこの世 界、この社会、この私たちの人生、まさにその現実の世界を通して主に従う者とされている。 主を信じる僕とされている。主の義を賜わり主の愛の内を歩む者とされていることを感謝し、 主に従ってゆく僕であり続けることができるのです。  最後に私たちが心に留めたいことは、主イエスをお納めした墓はゴルゴタの丘のすぐ近く にあったという事実です。それは何を意味するかと申しますと、使徒信条でも「処女マリヤ より生まれ、ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け、死して葬られ…」というように「十 字架」と「葬り」は近いひとつの事柄として語られています。主イエスは御父・御子・聖霊 なる永遠の三位一体の交わりにおいて、永遠の昔から私たちの贖いのために「死して葬られ」 たまいしたかたなのです。ヨハネ黙示録13章8節に「世の創めより屠られ給ひし羔羊」とあ るとおりです。神の小羊なるキリストは世の始めより永遠まで贖い主なのです。私たちはそ のような永遠の贖い主なるキリストのご臨在によっていまここに集められ、全ての罪を贖わ れ復活の生命を与えられているのです。  これこそ「葬られたまいし主」の恵みであり、私たち全ての者への救いの福音です。「葬ら れたまいし主」のもとにこそ、私たちの生きるべき本当の生命、そして本当の人生があるの です。