説    教    詩篇34篇18〜20節  ヨハネ福音書19章31〜37節

「汝がための十字架」

2010・05・15(説教11201377)  主イエスが十字架の上で息をひきとられたのは安息日の「準備の日」すなわち金曜日の午 後3時ごろのことでした。ユダヤ(イスラエル)の習慣では、今日でもそうですが、安息日 は金曜日の日没と同時に始まります。とりわけこの日は年に一度の過越の祭の「準備の日」 にあたっていました。いわゆる“大贖罪日”と申しまして、イスラエルの民全体の罪の赦し と執成しを願う大切な儀式が神殿において行われる日の前日にあたっていたわけです。そこ で、この過越の祭り(大贖罪日)はイスラエルにおいて最も神聖な日とされていましたから、 十字架に処刑された犯罪人の死体をそのまま留めておくことは律法によって禁じられていま した。旧約聖書の申命記21章23節に「木(すなわち十字架)にかけられた者は、神に呪わ れた者である」と記されているように、神に呪われた者の死体を安息日までそのまま十字架 に放置することは許されませんでした。だから主イエスの死体を金曜日の日没までに十字架 から降ろす必要があったのです。  そのことが先ほどお読みしたヨハネ伝19章31節に詳しく記されているわけです。すなわ ちうあることです。「さてユダヤ人たちは、その日が準備の日であったので、安息日に死体を 十字架の上に残しておくまいと、(特にその安息日は大事な日であったから)、ピラトに願っ て、足を折った上で、死体を取りおろすことにした」。  普通、十字架にかけられた犯罪人が死に至るまで、少なくとも半日、長い場合には1日以 上かかりました。そこで安息日が迫っている緊急の場合、まだ息のある犯罪人の足の骨を折 って死期を早めたのです。残酷なことですがそれが当時の方法でした。棍棒を打ち当てて両 足の脛の骨を折り、そうして殺したのです。ところが今朝の32節と33節を見てわかるよう に、兵卒たちは主イエスと共に十字架につけられた二人の犯罪人に対してはピラトに願い出 てそのような処置をして殺したのですが、主イエスについては、すでに息をひきとっておら れたのを見て足を折る必要はないと判断し、そのまま十字架から降ろすことにしたのです。 すなわち33節に「しかし、彼らがイエスのところにきた時、イエスはもう死んでおられたの を見て、その足を折ることはしなかった」とあるとおりです。  その代わり、兵卒たちは別の方法で主イエスの死を確認することにしました。それは長い 槍で主イエスのわき腹を突き刺したことです。34節に「しかし、ひとりの兵卒がやりでその わきを突きさすと、すぐ血と水とが流れ出た」とあることがそれです。そして35節以下を見 ますと「それを見た者があかしをした」とあるように、弟子の一人(おそらくヨハネ自身) がその様子をつぶさに見ていた。そして36節には「これらのことが起ったのは、『その骨は くだかれないであろう』との聖書の言葉が成就するためである」と記され、その出来事が旧 約聖書・詩篇34篇18〜20節の御言葉の成就であったことが私たちに示されているのです。  さて、以上のこれらの事柄(御言葉)から私たちはいかなる福音を聴き取るのでしょうか。 私たちはまず第一に、兵卒たちが主イエスの足を「折らなかった」とある事実に改めて着目 したいのです。それはどういうことかと申しますと、主イエス・キリストがなによりもご自 分を“過越の祭”の永遠のいけにえ(まことの犠牲)として私たち全ての者のために献げて 下さった事実を示しているのです。  「過越の祭」においては全ての民の罪の贖いのために小羊が犠牲として献げられました。 その小羊は決して「足を折って殺してはならない」ことになっていたのです。そのことは旧 約・民数記9章12節に「その骨は一本でも折ってはならない」と定められていることにより ます。それと同じように、私たち全ての者の罪の贖いとして献げられる主イエスの十字架の 死において、主イエスはまことの過越の贖いの小羊として「その足を折られることはなかっ た」。そのように御言葉が成就したということです。それは全く父なる神の御業であったから です。ヨハネ伝3章16節に「神はその独り子をお与えになったほどこの世を愛して下さった」 とある救いの出来事が主イエスの十字架において成就したのです。植村正久牧師の言葉で言 うなら、神はまことに「痛ましき手続きを経られて」全人類の罪の贖いを成し遂げられたの です。  神が全人類の罪の贖いのためにご自身の最愛の独り子をお与えになったという事実、私た ちはこの事実のうちにまことの神の私たちに対する極みまでの愛を知らしめられるのです。 十字架は本来最も恐ろしい呪いの道具でした。十字架に架けられて死ぬことは神から全く見 放されることを意味していました。主イエスの時代「おまえなど十字架にかかってしまえ」 という呪いの言葉ほど恐ろしい決定的な台詞はなかったと言われています。冗談にも洒落に もならないほど忌まわしい言葉だったのです。それならばその忌まわしき呪いの全てを私た ちの罪のために主イエスは受けて下さいました。ご自分が呪いの十字架に架けられることに よって私たちの罪を赦し私たちを存在の深みから贖い取って下さったのです。  三浦綾子さんの著書に「生きること思うこと」という題の随筆集があります。その中にこ ういう話が出ています。あるとき見知らぬご婦人から手紙を戴いた。それはヤクザの世界に 入っている自分の息子がパウロのように回心できるようにどうか祈って下さいという手紙で した。受け取った三浦さんは正直に言って戸惑ってしまった。それは自分がその青年のため に祈ることは少しも構わないけれども、もしその息子がヤクザ稼業から足を洗えなかったら 差出人の母親に対して済まないという思いからでした。しかしその手紙を通して三浦さんは、 自分が本当にクリスチャンとして祈りの生活を重んじてきたかどうか改めて問われる思いが したと言われるのです。正直に言って祈ることによって暴力団に入っている青年が劇的に回 心するとは信じられないでいる自分がいた。もしかしたら私たちは神を人間より「少し優れ たかた」くらいにしか思っていないのではないか。そして三浦さんは改めて畏れの心をもっ てその青年の救いのために真剣に祈りました。祈り続けたのです。するとやがて驚くべきこ とが起ったのでした。それはその青年自身からある日手紙が届いたのです。それによると彼 は事故で入院したことがきっかけで聖書を読むようになり、自分がどんなに間違った道を歩 んできたか、そしてこんなに罪深い自分をさえ神はどんなに愛し招いていて下さるか、それ を知らされて涙が止まらなかったと言うのです。そして今はヤクザの世界からきっぱりと足 を洗い、ある教会に毎週熱心に通っているというのです。そして三浦さんに対して「自分の ような人間の救いのために祈って下さって本当にありがとうございます」とお礼を書いてき てくれたのでした。「これからの僕を見ていて下さい。最後まで忠実な主の僕、信仰の厚い人 生を歩みたい。下手な字ですみません。でも、ありがとうございました。ありがとうござい ました。本当にありがとうございました」とその手紙は結ばれていたそうです。  神にとって「どうでもよい人間」は一人もいません。もし私たちがどうでもよい存在なら、 どうして主は私たちのために呪いの十字架にお架かり下さったでしょう。私たちは十字架の 主の恵みの事実から、自分の存在をもまた他者の存在をも、またこの世界の意味と目的をも、 はじめて正しく新しく知らされるのです。私たちは“この私のために十字架に架かって下さ った神の子”なる主イエス・キリストを通してはじめて自分をも他者をも正しく見つめる者 とされてゆくのです。主は私たちの罪のため、私たちを救うために、十字架において完全な 贖いを成し遂げて下さったのです。  それだからこそ私たちは、兵卒が主イエスの脇腹を槍で刺したときそこから「血と水とが 流れ出た」という事実にも心をとめねばなりません。それは単に主イエスの心臓が停止して いたという事実を告げているのではなく、霊的な真理を現しているからです。何よりも私た ちは「血と水が流れ出た」という事実から、そこに聖餐と洗礼という2つの聖礼典を思い起 こします。すなわち「血」は聖餐のぶどう酒であり「水」は洗礼の水です。しかしそれだけ でさえないと思います。何よりも私たちはこの「血」こそ私たちの罪の贖いのための御子イ エスの御血潮であり、またこの「水」こそ私たちを魂の深みから潤す「永遠の生命の水」で あると告げ知らされています。ですから大切なことは、それはともに主イエスの御身体から 「流れ出た」ものだという事実です。その主イエスの御身体こそ私たちのこの教会です。私 たちは教会生活を大切にすることによって、また礼拝者として忠実に生きることによって、 主日ごとに新しく主の十字架の贖いの御血潮の恵みに生かしめられ、また私たちを永遠に潤 してやまない「永遠の生命の水」を御言葉と聖霊によって豊かに戴きつつ主の恵みのもとを 歩む者とされているのです。  この「血と水が流れ出た」事実こそ、主イエスの十字架のゆえに、私たち全ての者に与え られている神の限りない赦しと永遠の生命の確かさを現すものです。私たちはただ十字架の 主に贖いによってのみ、まことの神のもとに立ち帰り、神の民として新しい歩みを始めてゆ くのです。