説     教    箴言20章6節   ヨハネ福音書19章25〜27節

「十字架の傍らに立つ」

2011・05・01(説教11181375)  芥川龍之介の小説に「羅生門」という作品があります。かつて京都の朱雀門の楼上で行倒れ の女性の死体から衣服を剥ぎ取り、それを売って糊口を凌いでいた人間がいたという歴史書の 記述に基づき、芥川はまことに陰惨な場面を描いています。単なる歴史の一齣を超えて私たち 人間の心の内側に潜む普遍的なエゴイズムの不気味さが描かれているのです。私たちのために 血を流し、十字架にかかられた主イエス・キリストのすぐ傍らで主イエスの上着ばかりか下着 をも剥ぎ取ろうとして籤を引くローマの兵卒たちの姿に、私たちはまさにこうした(自分をも含 めた)全ての人間の心の内にある果てしない闇を見出します。それは2000年前にそういう陰惨 な事実があったという記録ではなくいま現在の私たちの姿です。私たちこそ他者を押しのけ他 者のものを奪ってまでも自分を富ませ自分を喜ばせ豊かにしようとする、そうした冷酷で自己 中心な思いと無縁ではありえないからです。私たちは「まさか自分は違う」と思うかもしれま せん。しかしそう思うこと自体が既に私たちの罪の深さを示しているのではないでしょうか。  私たちは使徒パウロがガラテヤ書で語る「ああ愚かなるかなガラテヤ人よ、われ汝らの内に キリストの御かたちの造られるまでまた産みの苦しみをせんとするなり」との御言葉を思い起 こします。問題は私たちこそ自分の中に作られたキリストの恵みの御姿(十字架にかかりたもう た主の御苦しみ)からいとも簡単に離れてしまうことです。そのとき私たちもガラテヤの人々と 同じように、他者を踏みにじってまで自分の幸福を求めるエゴイズムの罪を主に対して犯すの です。主イエスの上着と下着を剥ぎ取ったローマの兵卒たちは十字架の主イエスのすぐ傍らに いながら誰も主イエスを仰ぎ見ていませんでした。彼らが欲したものは主イエスの衣服であり、 彼らが見ていたものは足もとの双六でした。それこそ私たちが主の前に犯し続ける罪の本質で す。私たちの罪は私たちの「弱さ」ではありません。「弱さ」は罪ではありません。私たちの 「罪」は「弱さ」の中でこそ十字架の主を仰がず自分を「主」(中心)にしてしまうことです。  さらに言うなら、たとえ自分が弱くても強くても、この兵卒たちと同じように十字架の主を 仰ごうとはせず、むしろ主イエスの衣服(自分を富ませるもの)しか欲していないところに私た ちの罪の本当の姿があるのです。罪とは私たちが失敗したり挫折したりすることではありませ ん。むしろ「これこそ自分が求めていた幸福だ」という傲慢な他者を顧みない自己中心の思い の中で十字架の主を仰がず自分を主とすることが私たちの本当の「罪」なのです。その意味で あのローマの兵卒たちの姿はまさしく私たち自身の姿でもあるのです。改めて今朝の御言葉で あるヨハネ伝19章25節以下を観るとヨハネは実に印象的な言葉を記しています。25節の冒 頭「さて、イエスの十字架のそばには」という御言葉です。これは場所として考えるならあの ローマの兵卒たちと同じ場所です。その同じ場所つまり十字架の主のすぐ傍らに「四人の女性」 たちが「たたずんでいた」というのです。その女性たちは“イエスの母(マリヤ)、母の姉妹 (サロメ)、クロパの妻マリヤ、そしてマグダラのマリヤ”という、奇しくも4人中3人まで もが「マリヤ」という名の女性でした。この「クロパの妻マリヤ」の「クロパ」とはルカ伝24 章18節の「クレオパ」と同一人物という説があります。また「(イエスの)母の姉妹」という 女性はサロメという名の女性ですが、彼女はマタイ伝27章56節またはマルコ伝15章40節に よれば「ゼベダイの妻」つまり主イエスの弟子ヤコブとヨハネの母であり、このヨハネ伝の執 筆者ヨハネの母であった女性と考えられているのです。  とまれ、こうした4人の女性たちがローマの兵卒たちと同じ場所に「たたずんでいた」ので す。この「たたずんでいた」という元々のギリシヤ語は「離れず傍らに立ち続けた」という言 葉です。つまりこれらの女性たちは十字架の主に最後まで「離れず傍らに立ち続けた」女性た ちでした。彼女たちはあの兵卒たちとは正反対にただ十字架の主のみを仰ぎ立ち続けたのです。 十字架の主の御傷と御苦しみがこの自分の罪の赦しと贖いのためであることを信じ、主イエス に従った女性たちでした。特に「マグダラのマリヤ」はマルコ伝16章9節によれば主イエス によって「七つの悪霊」から救って戴いた女性でした。彼女だけではなく、主イエスの尊い救 いを与えられたことは他の人々にもみな共通していたことです。大切なことはこれらの女性た ちが聖書に登場するのは、第一に今朝の主イエスの十字架の傍らであり、第二に主イエスの墓 への葬りの場面であり、第三に復活の朝であったということです。つまり彼女たちは聖書にお いて、主イエスの十字架の御苦しみと死と葬りと復活、つまり全世界への救いの福音の最初の 証人となった人たちなのです。  私たちはどうでしょうか?。私たちもまた主の御身体なる教会に連なる者として十字架の主 の傍らに絶えず「たたずんでいる」者とされています。それなら私たちはいまどのような「た たずみ」の姿勢をしているのでしょう?。あのローマの兵卒たちのように、自分を富ませるた めに足もとの双六しか見ていない者として「たたずんでいる」のか、それともただひたすら十 字架の主のみを凝視してやまぬ者として「たたずんでいる」のか。今朝の御言葉が私たちに問 うていることはまさにそのことなのです。今朝あわせて拝読した旧約聖書・箴言20章6節に 「自分は真実だという人が多い、しかし、だれが忠信な人に会うであろうか」とありました。 私たちはいつも心のどこかで自分を「正しい」と思っています。さらには「自分だけが正しい」 と思いこんでいます。その意味では私たちも「自分は真実だという人」の一人です。しかしそ こでこそ主は私たちに問いたまいます。それではあなたは「忠信な人」として「たたずんで」 いるだろうか。「自分は真実だ」(自分は正しい)という人はたくさんいる。しかしあなたはい ま「忠信な人」になっているだろうかと主は問いたもうのです。すなわちあなたはどこで(何 を根拠として)祝福された「忠信」な人間たりえるのかと主は私たちに問いたもうのです。こ の「忠信な人」と訳された元々のヘブライ語は「ただ神のみを仰ぎ、御言葉に聴き続ける人」 という意味です。私たちが「忠信」な人間たりうる根拠(場所)は私たちの内側には一つもな く、それはただ十字架の主イエス・キリストと神の御言葉にのみあるのです。私たちもまた、 否、私たちこそいつも十字架の主のみを仰ぎ、また神の御言葉を聴き続けて歩むとき、私たち のあらゆる弱さや破れの現実のただ中にあって、神が私たちのために備えて下さった「忠信」 な人の幸いに生きはじめるのです。私たちもまた「ただ神のみを仰ぎ、御言葉に聴き続ける」 歩みをなす者とされるのです。今朝の御言葉に登場する4人の女性たちは、まさしくこの祝福 された「忠信」の歩みを主の恵みの御手から受けた人々なのです。  この「忠信」の幸いの歩みにおいて、十字架の主の御言葉のもと驚くべき素晴らしいことが 起こります。それは十字架の御苦しみの中で主はご自分の痛みや苦しみのことを少しも口にさ れず、ただひとつのことを愛弟子に委ねられたことです。それはご自分の肉の母マリアの世話 を愛弟子に委ねられたことでした。これは主の教会の礼拝の姿を現しています。26節と27節 です「イエスは、その母と愛弟子とがそばに立っているのをごらんになって、母に言われた、 『婦人よ、ごらんなさい。これはあなたの子です』。それからこの弟子に言われた、『ごらんな さい。これはあなたの母です』。そのとき以来、この弟子はイエスの母を自分の家に引きとっ た」。  この「愛弟子」はヨハネのことと思われますが、「自分の家に引きとった」とあることから エルサレムに家を持っていたマルコのことであろうと見ることもできます。いずれにせよこの 「愛弟子」は十字架の「傍らに離れずに立ち続けた」者です。彼はこの時から主イエスの母マ リアを自分の母として迎え、ともに主の教会に仕える生涯を歩みました。だからこの「愛弟子」 とは教会に連なりキリストに結ばれた者のことです。主イエスの限りない十字架の愛によって 生かされ、支えられ、満たされ、導かれて生きる者のことであり、いまここに集うている私た ち一人びとりが「愛弟子」とされているのです。同じ新約聖書のルカ伝8章3節によれば、こ れらの「愛弟子」は「自分たちの持ち物をもって」主に従い奉仕した人々でした。つまり時間 と知恵と財と力をもって主イエスの御業に仕え、教会のわざのために献金をささげて主に仕え た人々でした。使徒行伝を観るとまさにこうした「愛弟子」(特に女性たち)によって主の教会 が建てられていったことがわかります。彼女たちは主にお従いしたのと同じ奉仕の姿勢で初代 教会と使徒たちの働きを支え、死に至るまで「忠信」な僕であり続けたのです。  教会によく仕えた一人の婦人がいました。彼女はご主人から銀婚式のお祝いに何を上げよう かと訊かれ、咄嗟に「何も物は要らないから、私と一緒に教会に行って下さい」と願いました。 そのご主人はそれが契機となって教会生活を始め、ついに洗礼を受けてその教会の長老となり 良い働きをしました。こうした願いはそのまま実現されない場合もあるでしょう。しかし十字 架の主のもとに「離れず傍らに立ち続ける」祈りがそこにあります。それこそ私たちの生涯を 祝福と生命へと導くものなのです。どうか私たちもまた、一人びとりが十字架の主のみを凝視 し「離れず傍らに立ち続ける」僕でありたいと思います。いつも御言葉に聴き、主にお仕えし 従う信仰の歩みにおいて、いよいよ健やかで熱心かつ忠信な主の僕であり続けましょう。