説     教     詩篇27篇1〜4節  ヨハネ第一書1章1〜4節

「復活と世界」 復活日主日礼拝

2011・04・24(説教11171374)  キリストの十字架のご受難のことを英語でパッション(Passion)と申します。ここから、この パッションという言葉はキリストのご受難以外に、この世界の苦しみや苦難また悩みをあらわ す言葉にもなりました。とりわけ私たちにとって胸に迫るのは東日本大震災の壊滅的な大災害 の様子です。そして原子力発電所の事故が連続して起こり、まさにこの春は日本全体がパッシ ョンに包まれているのです。解決までにはなお多くの日数を必要とするでしょう。しかし私た ちはこの国が神の導きと祝福のもと、必ず復興を果たすことを信じています。旧約聖書のヨブ が大きな苦しみの後に真の信仰へと導かれ、以前にもまして豊かな賜物を受けたように、私た ちのこの国もこの未曾有の大災害を通して必ずや以前にもまして立派に立ち直り、より神の祝 福に満ちた国へと成長するでありましょう。  しかし、いまこの復活日礼拝にこそ敢えて問うてみたい。「パッション」とは本来キリスト の十字架の御苦しみのみを現す言葉でした。このキリストの十字架の御苦しみに私たちが自分 を重ね合わせることなどできるのでしょうか?。そうではないと思うのです。それは不可能だ と思うのです。私たちのいったい誰が「自分が味わったこの苦しみ(この難しい状況)は十字架 の主イエス・キリストの御苦しみと“同じだ”」などと言えるのでしょうか。言い換えるなら 「自分はこの苦しみによって罪を贖った」と言えるかということです。自分のこの苦しみは「キ リストの十字架と同じだ」と言えるかということです。答えは「否」です。むしろ聖書が私た ちに絶えず告げていることは、私たちが何度でも新しくキリストの唯一の十字架の出来事を、 まさにキリストの唯一の御苦難(パッション)を、自分自身と全世界への限りない唯一の救い の出来事(福音の本質)として聴き取ることです。言い換えるなら、ただ主イエスの十字架の パッションのみが私たちの唯一絶対の救いであると告白することです。  そのとき、私たちに与えられた今朝の復活日礼拝の御言葉、ヨハネ第一の手紙1章1節以下 の御言葉こそ大切であると思うのです。そこにヨハネはこう記しているのです「初めからあっ たもの、わたしたちが聞いたもの、よく見て手でさわったもの、すなわち、いのちの言につい て――このいのちが現れたので、この永遠のいのちをわたしたちは見て、そのあかしをし、か つ、あなたがたに告げ知らせるのである」。ここには聖書全体を貫いているひとつの確かな“福 音の告知”があります。それは主イエス・キリストの十字架の出来事のみがこの私たちの歴史 と現実のただ中に全ての人々の「いのち」すなわち“救い”として現された神の御業にほかな らないということです。それは私たちが「耳で聞き、目で見、手で触れる」ほど確かな主イエ ス・キリストという活きたご人格として世に「来たもの」だというのです。だからヨハネはこ こに「わたしたちは……永遠のいのちを見た」と驚くべき言いかたをしています。これは「神 を見た」というのと等しい言葉です。なぜならその「生命」は「父と共にいましたが、今やわ たしたちに現れたものである」からだと言うのです。  そこで問題はこの「今や」とは何時のことかということです。それは使徒ヨハネが活躍して いた西暦1世紀後半のことなのか、または主イエスがおられた時のことなのか、それとも初代 教会の時代をさすのか。つまり過去のことなのか?。そうではないと思うのです。この「今や」 とはまさしくこの私たちにとっての「今」なのです。現在のこの私たちの「時」のことなので す。どうしてそう言えるのか。使徒ヨハネが「耳で聞き、目で見、手で触った」ほど確かなキ リストの「永遠のいのち」の恵みをどうして私たちもまた「(今や)この耳で聞き、この目で見、 この手で触れる」ほど確かな(今の)“救いの出来事”として知る者とされているのでしょうか。 それは十字架の主イエス・キリストは同時に、復活(よみがえり)の主イエス・キリストであ られるからです。つまり、苦難(パッション)を受けたもうたキリストは同時に全ての人を罪 から贖う生命の主なるキリストであられるからです。このことを使徒ヨハネは「今や」はっき りと告げているのです。だから3節以下にはこうあります「すなわち、わたしたちが見たもの、 聞いたものを、あなたがたにも告げ知らせる。それは、あなたがたも、わたしたちの交わりに あずかるようになるためである。わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリスト との交わりのことである」。  オリンピックのマラソン競技発祥の出来事となったのは紀元前490年にアテネ郊外のマラ トンの野で起ったアテネ義勇軍対ペルシヤ正規軍との戦いでした。絶対的に不利だと思われて いたアテネ義勇軍は激戦のすえついに圧倒的多数のペルシヤ軍に勝利しアテネの平和は守ら れることになりました。この勝利の喜びを伝えるために一人の青年が伝令に走るのです。この 青年はマラトンの野からアテネまで42.195キロを走りぬき「わが軍勝利せり」と市民に勝利 の音信を伝えたあと、そのまま息絶えたと言われています。この伝令のことを、また伝えられ た勝利と自由の音信そのものを「福音」(エウアンゲリオン)と呼んだのです。それならば使 徒ヨハネは「今や」キリストのパッションの伝令になりきって、私たち全ての者にキリストの 復活による勝利と自由の音信を告げているのです。自分が見たこと聞いた事柄(すなわちイエ ス・キリストの復活の事実)をあなたがたに伝えずにはおれない、それを聞いた者はもはや自 分が捕らわれ人ではないことを知るからだ。もはや自分が罪と死の支配のもとにはいないこと を知るからだ。そのように聖書は私たちに告げているのです。  キリストの復活において、マグダラのマリアを始めとする女性たちがそこで見た最初の“徴” は、大きな墓の入口の石が動かされていて墓の中が空虚になっていたという出来事でした。何 びとの力によっても動かしえぬ死の力がキリストの復活の勝利の出来事によって「今や」動き、 死人が納まっているはずの墓が「今や」復活によって空虚なものにされた出来事です。御子イ エス・キリストはその十字架の御苦しみと死によって私たち全ての者の罪と死の贖いとなられ、 墓から復活されることによって私たちに永遠の生命をお与えになったのです。罪と死にキリス トが完全に勝利され、その勝利に私たちを御自身の御身体なる教会を通して豊かにあずからせ て下さるのです。だからこそ使徒ヨハネはこの「永遠のいのち」の本質のことを「交わり」(聖 徒の交わり)と呼びました。この「交わり」とは、御父・御子・御霊なる三位一体の神の永遠の 愛の交わりの中に私たちが何の価も資格もなくして「今や」招き入れられていることです。だ から先ほどの3節の御言葉でも「わたしたちの交わりとは、父ならびに御子イエス・キリスト との交わりのことである」と語られているのです。  この「交わり」のことをギリシヤ語では“コイノニア”と申します。これは「聖なるかたに あずかる」という意味です。私たちは「今や」みなキリストにあずかる者とされているのです。 この「あずかる」とは「結ばれる」ことです。キリストとの「交わり」とはキリストに「結ば れる」ことです。罪によって死んでいた私たちのその「罪」という動かぬ岩を「今や」主イエ スが復活によって動かして下さったからです。そしればかりでなく、私たちが囚われていた死 の世界(死の支配権)を「今や」主イエスが空虚なものにして下さったからです。この救いの 出来事(永遠のいのち)が「今やわたしたちにも現れた」のです。それゆえにこそ今朝の御言 葉は4節にこう語っています「これを書きおくるのは、わたしたちの喜びが満ちあふれるため である」。もうここには使徒ヨハネと御言葉を聴く私たちとの区別さえないのです。「今や」聖 徒たちの群れである見えざる公同の教会と私たちのこの地上の教会は「今や」まさに復活の主 イエス・キリストの現臨において一つの群れとされているからです。私たちは「今や」みなキ リストの復活の生命にあずかる者とされているのです。  ある一人の優れた神学者が今朝のこのヨハネ第一の手紙1章1節以下についてこう語ってい ます。「ここにみなぎり溢れているものは今イエス・キリストの御名を崇め喜ぶ限りない霊の 祝祭すなわち真の礼拝である」。「霊の祝祭すなわち真の礼拝」とこの神学者は申します。まさ しくその喜びのゆえにヨハネは何度でも「イエス・キリスト」の御名のみを語るのです。それ は満たされた豊穣の世界の現実の中で祝われる祝祭などではありません。いま世界を(この国 を)覆い尽くしているかに見える混沌と虚無の現実の中で、人間が人間であることを失ってゆく かに見える破壊的な苦しみの中で、まさに私たちが言葉を失い呆然と佇むほかはない廃墟の現 実の中で、まさにその廃墟のような世界の現実を極みまでも愛し慈しんで、そこに永遠の生命 を与えるためにご自身の生命の全てを惜しみなく与えて下さった唯一のかたがおられるので す。  そのかた(十字架の主キリスト)の現臨と復活の恵みのゆえに「今や」私たちは、この私たち があるがままに「生命の家」主の復活の御身体に結ばれていることを知るのです。この廃墟に 等しい世界がそのあらゆる破壊的な様相にもかかわらず「今や」生命の家に主の復活の御身体 によって贖われ、希望と完成へと導かれていることを確信することができる。そのような復活 の主と共にある「今」を私たちはここに新たに迎え、全世界の主の民と共に、また天にある贖 われた聖徒らの群れと共に心からなる讃美と感謝を十字架と復活の主イエス・キリストに献げ、 御名を崇めるものです。