説     教    詩篇22篇17〜18節  ヨハネ福音書19章23〜24節

「天衣無縫なる主」

2011・04・17(説教11161373)  今朝の御言葉ヨハネ伝19章23節24節には、主イエスを十字架につけたローマの兵卒たち が、主イエスが着ておられた服を籤引きで奪い合ったということが記されています。それは古 代イスラエルにおいて犯罪人の処刑に立ち会ったローマの兵卒なら誰でもしていたことでし た。当時の習慣によれば十字架刑を執行した兵卒たちへのいわば「余禄」(私的給与)として、 処刑された犯罪人の衣服がなかば公然と与えられていたのです。そこで改めて今朝の御言葉を 読み直してみましょう。23節です。「さて、兵卒たちはイエスを十字架につけてから、その上 着をとって四つに分け、おのおの、その一つを取った。また下着を手に取ってみたが、それに は縫い目がなく、上の方から全部一つに織ったものであった」。  ここに「上着」とあるのは当時のユダヤの民衆が普通に着ていた外套のような丈の長い服の ことです。兵卒たちが戯れに着せた「紫の衣」は十字架につける直前に主イエスから剥ぎ取っ ていました。だからこの「上着」とは主イエスがもともと着ておられた服のことです。これを 兵卒たちはみずからの「余禄」として主イエスから剥取ったわけです。そこには“どうせ死ぬ 者に服など必要ない”という非道な論理のほかに、当時のユダヤ社会において服または布地が 非常に貴重な財産であったことが伺われるのです。殊にイスラエルのような乾燥した砂漠地帯 に住む者にとって、服は直射日光から生命を守るための防護具であり生命の綱でした。昔の日 本でも着物は立派な財産でしたが、それと同じような感覚が古代イスラエルにはあったのです。  そこで兵卒たちはその「上着」を4つの部分に分けたわけですが、そこから彼らの人数が4 人であったことがわかります。この「四つに分けた」ということも(私はその方面に詳しくあ りませんが)当時の「上着」は縫目から自然に4つに分けられたようです。しかし問題は主イ エスの「下着」を剥ぎ取るときに起こりました。なぜなら主イエスが着ておられた「下着」に は縫目というものがなく、23節の終わりに記されているように「上の方から全部一つに織った もの」だったからです。そこで次の24節にはこうあります。「そこで彼らは互に言った、『そ れを裂かないで、だれのものになるか、くじを引こう』。これは、『彼らは互にわたしの上着を 分け合い、わたしの衣をくび引きにした』という聖書が成就するためで、兵卒たちはそのよう にしたのである」。籤を引いて誰のものにするか決める必要があったのです。  私はかつてイスラエルに参りましたとき、主イエスが十字架を背負われゴルゴタまで歩かれ た“ヴィア・ドロローサ”(悲しみの道)と呼ばれる道の遺跡で当時の大理石の敷石の上に彫ら れた双六の跡を見ました。故国を離れてユダヤに駐留し不遇と無聊を託つていたローマの兵卒 たちにとって、賭事でもある双六は気晴らしの遊びでした。彼らもたぶんそうした双六によっ て主イエスの「下着」を賭けて“籤を引いた”のではないでしょうか。そこでこの「下着」と いうのは、私たちが考える下着とは違います。昔の長襦袢のようなものだと考えれば良いと思 います。襦袢なしに着物を着ることがありえないのと同じように、ユダヤにおいても「下着」 なしに「上着」を着ることはありませんでした。まずこのことを心に置いて戴きたいと思いま す。4つに分けられた主イエスの「上着」は縫目がないゆえに分割できなかった「下着」があ ってはじめて存在したのです。実はこのことは今朝の御言葉を読み解く上でとても大切なこと です。というのは「天衣無縫」という言葉があります。日本語としての意味はかならずしも今 朝の御言葉に合致しません。しかし主イエスの「下着」に縫目がなく上から下まで“一枚織り” であったということはまさに「天衣無縫」の事実を証明するものではないでしょうか。それは 単に主イエスのご人格だけに言われることではありません。それは何よりも教会の本質につい て言われるべきことです。  私たちは教会をどのようなものと信じているでしょうか。私たちは教会を「主の家」であり 「信ずべきもの」と正しくわきまえているでしょうか。教会は主イエス・キリストの御身体で あり、これは観念や絵空事ではありません。教会は神の御子イエス・キリストが十字架の贖い により世界と歴史のただ中に建てたもうた“神の宮”です。この世界は教会を通して神の祝福 と愛を注がれ、全ての人がそこに招かれているのです。私たちが連なるこの教会はキリストの 血によって贖い取られたものです。そのことを私たちは信じ告白し「教会は主イエス・キリス トの身体である」と感謝をもって神を讃美します。今日は礼拝後に教会総会があります。教会 総会は教会員が祈りと責任をもって神の御業に仕えることです。議員ではない教会員も同じ志 をもって主の教会に連なります。  私たちが礼拝に招かれているのは御子イエス・キリストの十字架の贖いの恵みによるのです。 罪によって神から離れていた私たちのために、主キリストは十字架におかかりになり、私たち の全ての罪を赦し御国の民として下さいました。教会はその十字架と復活の主キリストの御身 体です。私たちが教会生活を全てにまさって重んじるのは、そこでこそ私たちの全存在・全生 涯が主に結ばれているからです。私たちは主の教会に結ばれ礼拝者として生きることにより、 人生の全体が主の限りない恵みと祝福のもとにあることを知るのです。それなら私たちに与え られている教会の主なる御子イエス・キリストの恵みこそ完全無欠なのです。それは主イエス の「下着」に縫目がなく分割できなかったのと同じです。私たちを支えて下さる主の恵みもま た完全無欠なのです。このことを宗教改革者カルヴァンは「教会は十字架の主の御功において こそ唯一の聖なる公同の使徒的な教会である」と語りました。それは今朝の御言葉における主 イエスの一枚織りの「下着」に譬えられているのです。  その分割されえない聖なる公同の教会の恵みの上に立ってこそ、教会は福音を(十字架の主 にある祝福と幸いを)全ての人々に宣べ伝えるのです。それが今朝の御言葉において、主イエ スの「上着」が4つに分けられたことに現されている祝福です。この「四」という数字を教父 アウグスティヌスは「東西南北」つまり全世界のあらゆる地域・民族・国民のことでだと理解 しました。十字架の主の完全無欠な恵みの上に立ってこそ私たちの教会もまた、全ての人々に 福音を遍く宣べ伝えてやまぬ群れへと強められてゆきます。パウロが言うように「福音を宣べ 伝えないなら、自分は不幸である」とすら語る群れに変えられてゆくのです。否、私たちは今 すでにそのような群れとしてここに集められているのです。このように、今朝の御言葉の「下 着」とはキリストの完全無欠な恵みをあらわし、また「上着」とはその恵みの上においてなさ れる福音宣教のわざを示すものです。それならば4人のローマの兵卒たち(彼らは神からもっ とも遠く離れていると考えられていた人たちです)にさえも、否、その人々だからこそ主イエ スの「上着」すなわち福音の喜びは頒ち与えられたのです。実はここに連なっている私たちこ そ、この兵卒たちと同じ罪ある存在ではないか。十字架の主の御苦しみがこの私のためである ことさえ思わず、双六くじに興じ、主の上着も下着をも剥ぎ取ろうとする私たちの姿がそこに あるのです。  それならば、主イエスはまさにそのような私たちだからこそご自分の「上着」をも「下着」 をもなされるがままにお与え下さったのです。まず「上着」においては全ての人々の十字架に よる真の救いをお与えになり、次に天衣無縫なる「下着」においては唯一永遠の聖なる公同の 教会を私たちにお与えになったのです。これは主がその限りない愛からなされた御業です。私 たちを全ての罪から贖い神の子として下さるために、永遠の神の御子であられる主がご自分を 献げ抜いて下さったのです。ご自分のためには「下着」さえもお残しにならなかったのです。 まさに葬られた者の姿をもって、私たちの完全無欠な贖いとなって下さったのです。  だから使徒ヨハネはこのことを、旧約聖書の詩篇22篇の言葉が成就するためであると語り ました。この「成就」とは“実現し完成した約束”という意味です。キリストの十字架におい てこの世界の救いと祝福は実現しているのです。私たちは教会においてその喜びと勝利を先取 りしているのです。この世界になお暗い罪の力と虚無の支配が猛威を振るおうとも、私たちの 人生に予期せぬ悲しみや苦しみが襲おうとも、それだからこそ私たちは十字架の主に結ばれた 者たちとして、完成し実現した主の祝福に生きる者とされているのです。  それと同時にエペソ書3章17節以下にこう記されています。使徒パウロの祈りの言葉です 「また、信仰によって、キリストがあなたがたの心のうちに住み、あなたがたが愛に根ざし愛 を基として生活することにより、すべての聖徒と共に、その広さ、長さ、高さ、深さを理解す ることができ、また人知をはるかに越えたキリストの愛を知って、神に満ちているもののすべ てをもって、あなたがたが満たされるように、と祈る」。ここでも「四つ」のキリストの愛が 描かれています。唯一の、分割されえないキリストの十字架の恵みから、私たちのこの世界に、 「四つ」の大いなるキリストの愛が、その「広さ、長さ、高さ、深さ」が私たちのもとに注が れているのです。この「広さ」とは私たちの罪と死の支配を打ち破るキリストの愛の「広さ」 です。「長さ」とは永遠に変わることのないキリストの愛の「長さ」です。「高さ」とは私たち を導いて御国を受け継がしめるキリストの愛の「高さ」です。そして「深さ」とは私たちのた めに罪の最底辺に降りて来て下さったキリストの愛の「深さ」です。  このような主の十字架の愛によって私たちの日々の生活は根底から支えられ、また全てのこ とを通して永遠なる御国の祝福へと導かれているのです。私たちはこの主イエスの御身体なる 教会生活を全てにまさって尊び重んじ、真の礼拝者として生きる歩みをいよいよ堅くし、御言 葉に導かれ支えられつつ、キリスト者としての歩みを共に祈り、ともに励ましあいつつ続けて 参りたいと思います。