説    教    イザヤ書53章12節  ヨハネ福音書19章16〜22節

「最底辺の神」

2011・04・10(説教11151372)  今朝ご一緒に拝読したイザヤ書53章12節にこうありました。「これは彼が死にいたるまで、 自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられたからである。しかも彼は多くの人の罪を 負い、とがある者のためにとりなしをした」。これこそ私たちの主イエス・キリストの御生涯 を鮮やかに描いている御言葉です。ここに主キリストは「死にいたるまで、自分の魂をそそぎ だし」たとあります。これは主が私たち全ての者の罪を背負われ、測り知れない御苦しみを担 われたことを意味しています。「とがある者と共に数えられた」とあるのは、主が私たち死す べき罪人と全く同じ立場にお立ちになられたこと、そればかりではなく十字架において、私た ちの罪の最底辺にまで降りてきて下さったことを現しているのです。  古来どのような宗教にも大別して「受容の宗教」と「拒絶の宗教」の2種類があります。肯 定的な宗教と否定的な宗教です。「受容の宗教」では人間をあるがままに肯定し受容します。 人間は本来的に善である。天地自然の神々と人間が共に飲食し交わり、人間はその寿ぎを受け、 五穀豊穣家内安全商売繁盛無病息災を祈願し、海も山も岩も木も花鳥風月・自然界の全てを神 とみなす。このような「受容の宗教」が太古の昔から日本にはありました。これに対して「拒 絶の宗教」(否定的な宗教)によれば人間というものは到底そのまま受容し肯定できる存在など ではない。人間ほど恐ろしく罪深い存在はない。だからまずこれを徹底的に否定せねばならな い。人間の本質を反省し人生を根本的に変革しようとする宗教です。そのために人間は神の前 に深刻な自己反省をすべきである。努力精進して高き目的のため精進すべきであると教えます。 これを「拒絶の宗教」と呼ぶのです。  それでは、キリスト教はこの「受容」と「拒絶」どちらの宗教なのでしょうか?。どちらか と言えばキリスト教は「拒絶の宗教」のようにも見えます。しかし「受容の宗教」のようにも 見えます。実はキリスト教はそのどちらでもないのです。この両者いずれにも決められない特 別なものが聖書の福音の本質だからです。それは何かと申しますと主イエス・キリストの御名 です。イエス・キリストという名そのものがキリスト教の(福音の)中心であり本質なのです。 つまり主イエス・キリストというかたご自身こそ福音の内容そのものであり、その全てである と言えるのです。  それならば、最も大切なことはそのイエス・キリストとはいかなるかたかということです。 もともと「受容の宗教」も「拒絶の宗教」も人間に対する神の関係を自然の一部にしてしまい ます。ただその関係が肯定的か否定的かという違いがあるだけです。肯定的であれば人間はそ のまま受け入れられますし、逆に否定的であれば人間はまず否定されてから再受容される(否定 を経た上で肯定される)だけの違いです。そこには決定的な違いはなく、ただ最初の関係が肯定 的か否定的かの違いがあるだけです。聖書の福音はそういうものではありません。私たち人間 に対する真の神の関係はそのようなものではないのです。そのことをなにより鮮やかに示して いるのが今朝のイザヤ書53章の御言葉なのです。  まずここに「彼(キリスト)は死にいたるまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数 えられた」とあります。この御言葉が現す主イエス・キリストのご生涯こそ私たちの救いその ものなのです。それはひと言で申しますなら「神は御子イエス・キリストにおいてご自身が“神 なき者のための神”であることを私たちに明確に示された」ことです。キリスト教の神は「神 なき者の神」なのです。否定とか肯定とか比較できる問題ではなく、私たち人間に対する相対 的な“かかわり”の問題ではないのです。私たちが罪によって神との関係を失ってしまった、 「神なき者」になってしまった、まさにその「神なき者」でしかない私たちの真の神(唯一の救 い主)として御子イエス・キリストは世に来られ、御苦しみを担われ、十字架におかかり下さっ た、この事実こそ福音そのものなのです。  そこで、今朝のヨハネ伝19章16節後半から以降の御言葉には、まさしく主イエス・キリス トの十字架の様子が記されています。17節から読みますと「イエスはみすから十字架を背負っ て、されこうべ(ヘブル語ではゴルゴタ)という場所に出て行かれた。彼らはそこで、イエスを 十字架につけた」とあります。ここに示されている事柄は私たちの「罪」の姿そのものです。 「ゴルゴタ」(されこうべ)とは私たちの「罪」をあらわす言葉だからです。私たちの罪は私た ち自身を「されこうべ」(髑髏)のような生命なき者にしてしまうからです。こんどの東日本大 震災では東北のサッカー場や陸上競技のグラウンドが犠牲になった方々の仮設墓地になって いるそうです。いかに生命の躍動感に溢れたスポーツの施設といえども死の現実の前には無力 です。私たちの生命はいつも死によって覆われ呑みこまれてゆくものでしかありません。私た ちの生命は常に「されこうべ」のような「罪」の現実の前に無力なのです。それがゴルゴタの 地名が意味する私たち人間の罪の真相です。  それならば、私たちの主イエス・キリストは、まさにそのような測り知れない暗黒である私 たちの死のただ中に、そのどん底にまで降りてきて下さった救主なのです。神は私たちに救わ れるに値するほどの清さや正しさがあるから私たちをお救い下さるのではありません。私たち を見るならどこにも生命はないのです。束の間の肉体の生命さえ死に呑み込まれるのです。ま して「罪」によって神との関係を失った私たちにはもはや霊の生命“永遠の生命”はないので す。そのような私たちのため、まさに「神なき者」のためにこそ主イエス・キリストは全てを 捨てて人となられました。このかたは私たちを限りなく愛されました。真の羊飼いが百匹の群 れの中から迷い出てしまったたった一匹の小羊をあらゆる困難を超えて生命がけで見出し救 うように、主は生命の源であり祝福そのものである神から離れて、魂の孤独と迷いの中にあっ た私たちを見出して救うために、まず御自身が神の外に出て下さったのです。神が神でないも のにおなりになったのです。それがイエス・キリストの十字架の出来事です。本来は神の被造 物、神に愛されている子でありながら、罪によって神から離れてしまった私たちを救うために、 御子イエス・キリストはご自分の全てを献げて下さいました。  まことに主のみ、ただ我らの主キリストのみが、全ての友なき者の友となられ、疎外された 者の寄辺となられ、孤独な者に寄り添われ、病み疲れた者を訪ねて癒され、教えを請う者には パリサイ人にも丁寧に御言葉を語られ、御国の福音を全ての人々にお示しになりました。絶望 した者には上よりの平安と慰めを与え、救い無き者の救い主となられ、飢えたる者に糧を与え、 目の不自由な人の目を開かれ、耳の不自由な私たちの耳を福音の音信を聴こえるようにし、歩 みえない者の手を取って主と共に歩む平安と喜びに満たしめ、死にたる者を墓から甦らせ、そ のご生涯の歩みは測り知れない私たちへの愛によって織り成されたものでした。  しかも、そのような愛のご生涯を歩まれたのみならず、主はまさに「神なき私たちの神」と してゴルゴタの十字架への道をまっしぐらに歩んで下さったのです。人々から鞭打たれ、嘲弄 され、唾せられ、茨の冠を被せられ、十字架を背負わされ、両手両足を十字架に釘付けられ、 死に至るまで晒し者にされました。しかし主はその十字架の上からご自分を十字架につけた全 ての人々のため、すなわち私たちのために限りない祝福と赦しを祈られたのです。 ここに「神 なき者の救い」が成就したのです。「救い無き者には救いはない」が世の常識ですが、主にあ りては「救い無き者にこそ救いがある」のです。  主は今朝の御言葉に示されたように、罪状書きと共に十字架に釘付けられたのですが、その 罪状書きには本当は、私たち一人びとりの名と共に「私の罪が主イエスを十字架につけた」と 記されねばならなかったはずです。全世界の人々の測り知れない罪を一身に担われ「死にいた るまで、自分の魂をそそぎだし、とがある者と共に数えられる」ことを喜びとなしたもうて、 主は私たちの罪のためにあのゴルゴタの十字架に死んで下さいました。ご自分の全てを献げ尽 くして下さったのです。その主イエスの十字架によって、私たちの罪は贖われたのです。もは や私たちは罪と死の支配の下にはいません。永遠に変わることなく主イエス・キリストの恵み と愛のご支配のもとにあり続けるのです。主に堅く結ばれ、主の生命に覆われているのです。 その保障として主は私たちに聖霊を賜いました。私たちを教会に連ならせて聖霊の宮として下 さり、私たちの日々の生活の中に御言葉による真の祝福と幸いを満たして下さるのです。私た ちはいつどこにいても主に贖われた者であり、主が限りなく愛したもうかけがえのない主の民 なのです。