説    教    レビ記16章6〜10節   ヨハネ福音書19章12〜16節

「アザゼルの山羊」

2011・04・03(説教11141371)  今日のヨハネ伝19章12節以下において、主イエスの歩みはゴルゴダの十字架に向けて最終 段階に入られます。主を取巻く私たちの「十字架にかけよ」という怒号が響きわたる様子が今朝 の御言葉にも描かれています。特に13節を見ますと「ピラトはこれらの言葉を聞いて、イエス を外へ引き出して行き、敷石(ヘブル語でガバタ)という場所で裁判の席についた」とあります。 その日は「過越の準備の日」であり「時は昼の十二時ごろ」であったということまで記録されて います。「過越の祭」は安息日であり土曜日でしたから「過越の準備の日」は金曜日、その正午 頃であったということがわかるのです。  ピラトは外で群れ騒いでいる民衆に対して主イエスを示し「見よ、これがあなたがたの王だ」 と申しました。すると群衆はこぞって「殺せ、殺せ、彼を十字架につけよ」と叫んだのでした。 そこでピラトがさらに(いささか困惑して)「あなたがたの王を、わたしが十字架につけるのか」 と問い返しますと、今度は民衆を代表して祭司長らが申しました「わたしたちには、カイザル以 外に王はありません」。それでピラトは騒動が起こらないことを確認して16節にあるように「十 字架につけさせるために、イエスを彼らに引き渡した」のでした。かくして主イエスの十字架刑 は決定されのですが、私たちは今朝のこの御言葉の特に13節に「ピラトはこれらの言葉を聞い て、イエスを外へ引き出した」とあることに心を傾けて参りたいのです。なぜなら、この短い御 言葉の中にこそ私たちに対する主イエス・キリストの十字架の贖いの姿が凝縮されているからで す。  私たちは今朝あわせて拝読した旧約聖書レビ記16章6〜10節に心を傾けたいと思います。実 はたいへん不思議なことに、このレビ記16章6節以下の御言葉は2000年以上にもおよぶ聖書 の歴史の中で人々からほとんど関心を払われたことのない、いわば埋もれた御言葉のひとつです。 なぜ関心が払われなかったかと申しますと、この御言葉の意味する事柄が良くわからなかったか らです。解釈しようにも手がかりさえないと思われる不思議な御言葉なのです。これは通称「ア ザゼルのやぎ」と呼ばれる御言葉です。レビ記16章6節です「そしてアロンは自分のための罪 祭の雄牛をささげて、自分と自分の家族のために、あがないをしなければならない。アロンはま た二頭のやぎを取り、それを会見の幕屋の入口で主の前に立たせ、その二頭のやぎのために、く じを引かなければならない。すなわち一つのくじは主のため、一つのくじはアザゼルのためであ る。そしてアロンは主のためのくじに当ったやぎをささげて、これを罪祭としなければならない。 しかし、アザゼルのためのくじに当ったやぎは、主の前に生かしておき、これをもって、あがな いをなし、これをアザゼルのために、荒野に送らなければならない」。  ここに「アザゼル」という人物が出てきますが、この名前そのものが既に大きな謎なのです。 聖書の中でここにしか出てこない名です。「アロン」のほうは言うまでもなくモーセの3つ年上 の兄であり、祭司として全民衆の罪を神の前に執成す務めを負うていた人です。その祭司の務め の中心は犠牲の動物を屠り、神に対する宥めの供物として献げることでした。これを「罪祭」と 申します。今日の御言葉にも出てきますが“罪のための宥めの供え物”です。つまり雄牛や山羊 などの動物が屠られてその血を献げる「罪祭」の務めをアロンが果たしていたわけです。具体的 にその様子がこのレビ記16章6節以下に描かれているわけですが、その内容に大きな謎があり ます。まず「牛」のほうはその場で屠られて、その血が民の罪の贖いのために神の御前に献げら れるのですから何の問題もないのです。問題は山羊のほうです。7節に出てくる「二頭のやぎ」 です。  この2頭の山羊のために「くじ」が引かれるのです。ひとつの「くじ」は神のための籤でして、 それに当たった山羊はその場で屠られ、注がれた血がただちに私たちの罪のための犠牲として献 げられるのです。だからこちらは特に問題はありません。問題はもう一頭の「アザゼルのくじ」 に当たった山羊です。これが大きな謎なのです。聖書のどこにもこれについての説明がない。そ もそも「アザゼル」とは誰のことなのか?。かろうじてわかるのはどうも人間ではないらしいと いうことです。さりとて神でもありません。ちょうど両者の中間であるいわば「神でもあり人間 でもある」特別な存在につけられた名前なのです。ともかくここに「アザゼル」という名のまこ とに不思議な、神人両性を備えた「真の神にして真の人」である存在が登場してくるのです。そ のアザゼルのために献げられる山羊が「アザゼルのためのくじ」に当たった山羊です。この山羊 はその場で屠られて血が注がれ罪の贖いの犠牲になるのではないのです。そうではなく、殺され ないでそのまま荒野に追放され、寂寥と孤独の中でさ迷い歩くという運命を背負わされた山羊で す。これが「アザゼルの山羊」です。主の前に生きながら荒野に追放される、そういう“贖い” が全ての人の「罪」のために献げられるのです。  私は20年ほど前にイスラエルに参りまして、現地の荒野(砂漠)を実際に見て感じたことです が、私たちが日本で思い描いているような「荒野」とは根本的に違うのです。生命あるものを全 て拒絶する徹底的な死と孤独の世界がそこには拡がっています。だいたいが岩石砂漠でして、ど こまで行っても岩だらけ石ころだらけの草木一本ない不毛の地です。ですからそこに「追放され る」ことはその山羊にとっておそらく生物として最も恐ろしい死に追いこまれることでした。最 も悲惨な孤独な死が確実にその山羊には待っていたのです。つまり荒野に追放されることは、生 命あるものとして最も恐ろしい呪われた死を“全ての人の罪の贖い”として引き受けることなの です。この「贖い」こそ真の犠牲(贖罪)です。この犠牲(贖罪)を献げるものが「アザゼルのやぎ」 なのです。これこそ新約聖書におけるイエス・キリストの十字架の「贖い」を現す預言なのです。 旧約の「アザゼルのやぎ」は新約の十字架の主イエス・キリストをさし示すものなのです。  そこで私たちは今朝のヨハネ伝19章13節の御言葉において、主イエス・キリストが「外へ 引き出された」とあることに改めて心を留めましょう。この「外」とは単なる「門の外、町の外」 という意味ではないからです。これは神との交わりの外側、つまり“神の外側”(神無き者の永 遠の滅び)という意味です。イスラエルの人々(聖書の時代の人々)にとって人間の生命は神との 交わりにありました。ですから神との交わりの外に追放されるということは徹底的な死(滅び) を意味しました。それを現すのが主イエス・キリストの十字架上での叫びです。主は十字架の上 で息を引き取られる直前「エリ、エリ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれました。それはヘブライ語 で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味です。キリスト は人からはもちろん、父なる神からさえ棄てられたもうた現実の中で完全な孤独の(滅びとして の)死を死なれたかたなのです。いわばキリストは「アザゼルの山羊」のように完全な孤独と寂 寥のうちに死なれたのです。神はその最愛の独り子、罪なき主イエスを私たちの「罪」の身代わ りとして十字架において撃ちたもうたのです。それゆえ主イエスが引き出された「外」こそ私た ちの罪の現実そのものなのです。  主イエスが「外」に引き出されたということは、主が十字架において私たちのいっさいの罪を 贖うため、私たちの罪の現実のただ中に(そのどん底にまで)お降りになったことです。「エリ、 エリ、ラマ、サバクタニ」という叫びも本来は私たちが生ける神の前に叫ばねばならなかった棄 てられた罪人の絶望の叫びであったはずです。キリストはまさに私たちのため、その罪人の絶望 の死を身代わりに死んで下さった救主なのです。主が「外に引き出された」とはそういう意味で す。ですからその十字架の主イエス・キリストの恵みとレビ記16章の「アザゼルのやぎ」の出 来事はひとつの真理を私たちに告げているのです。それは、キリストは神の外に出てしまった私 たち、神との交わりを失って絶望の死の中にあった私たちを救うために、みずから“神の外”に 出て下さった救主であるという真理です。十字架において神が神でないものになって下さった。 神が神であることを失われたのです。そこまでして主は私たちを極みまでも愛して下さったので す。  同じ新約聖書ヘブル書13章12節にはこう記されています「だから、イエスもまた、ご自分 の血で民をきよめるために、門の外で苦難を受けられたのである」。ヘブル書はキリストの十字 架の恵みを語るとき、この「門の外で」という言葉を繰返し用います。これは直接的にはエルサ レムの「門の外」という意味ですが、それは何よりも私たちの底知れぬ罪のただ中、私たち罪人 が死なねばならない絶望の死の現実を意味しているのです。まさにその絶望の救い無き者の死の 現実を、主イエスはことごとく私たちの身代わりとして引き受けて下さいました。私たちのため に「アザゼルのやぎ」となって下さいました。完全な絶望と寂寥の中に身をおいて下さいました。 讃美歌244番に「行けども行けどもただ砂原」という歌詞がありますが、まさにあの讃美歌の ようにどこまで行けども神から離れた無限の孤独と寂寥の中にあった私たちの全存在を主は極 みまでも愛し、かき抱くようにご自身のものとして下さった。そのようにして私たちの罪を贖い、 死の支配から解放し、まことの生命を与えて下さるために、主は「神なき者」の孤独と寂寥の死 を(あの「アザゼルのやぎ」のような徹底的な荒野での死を)十字架において死んで下さったので す。それこそわれらの主イエス・キリストの恵みなのです。  パスカルは、私たち人間の孤独は死において極まるのだと申しました。人間は誰でも死を全く の孤独において迎えるものです。たとえ死の床に何千人もの人々が集まって嘆こうとも、人間は 徹頭徹尾孤独で自分の死を迎えるのです。言い換えるなら私たちは最も孤独でいたくないところ (自分の死というところ)で徹底的に孤独であらねばならない存在なのです。どんなに親し愛する 者も、死の彼方にまで供をすることはできないのです。このたったひとつのことだけを考えても、 私たち人間にとって本当の救いは“まさにこの死の彼方にまで私を支え贖って下さるかたがおら れる”という事実でなければ本当の救いとは言えないのです。この死の孤独の手前にとどまるよ うな救いは私たちを生かしめる生命の力とはなりえないからです。完全な孤独と寂寥のただ中に 来て下さる救い主こそ、私たちの本当の救い主キリストなのです。  このことについて驚くべき御言葉がヨハネ黙示録1章18節にあります。復活の主イエス・キ リストがヨハネに語った言葉です。17節の途中からお読みします「恐れるな、わたしは初めで あり、終りであり、また、生きている者である。わたしは死んだことはあるが、見よ、世々限り なく生きている者である。そして、死と黄泉のかぎを持っている」。主はご自身について「わた しは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」と言われるのです。何という驚くべ き御言葉でしょう。「死んだことはある」とは、死を完全に死なれ、しかも甦られたかたしか語 りえない言葉です。いかなる人間も「死んだことはある」とは語れないのです。死を過去形には できないのです。死は永遠の現在形でしかないのです。それを過去の出来事として語りたもう唯 一のかたがここにおられる。それこそ十字架の主イエス・キリストなのです。  主イエス・キリストはその十字架の御苦しみと死において、私たちが死ぬべき完全な孤独と寂 寥の死さえご自身の身に担い取って下さいました。この十字架の主のみが私たちが「罪」におい て放浪する魂の荒野に来て下さった。そこで私たちを慈しみと恵みにおいて見出して下さった。 ただこの主のみが私たちの死の彼方にまでも私たちを支え贖い生命を与えて下さるのです。「わ たしは死んだことはあるが、見よ、世々限りなく生きている」と宣言して下さった満ち溢れる復 活の生命の恵みによって、私たちの朽つべき存在を根底から支えて下さり、永遠に私たちと共に いて下さるのです。キリスト教以外の如何なる宗教も「アザゼルのやぎ」のように私たちを救っ て下さった救主を語りません。ただ聖書だけがそのような唯一の救主イエス・キリストを世界に 告げているのです。そして主は聖霊によって御言葉と共に私たちのただ中に現臨していて下さい ます。この主のみが、今ものちも永遠までも私たちの全存在を贖い、私たちを極みまでも愛し、 私たちを導いて尽きぬ生命と喜びを与え、ご自身の祝福の内を歩む者として下さるのです。