説     教   ダニエル書7章25〜27節  ヨハネ福音書19章8〜11節

「キリストとその権威」

2011・03・27(説教11131370)  今朝のヨハネ福音書19章8節以下には意外なことが記されています。ポンテオ・ピラトが 主イエスを本当に十字架にかけて良いものか躊躇った、思いあぐねた、そのような言葉が出 てくることです。すなわち8節に「ピラトがこの言葉を聞いたとき、ますますおそれ(た)」 とあることです。なぜピラトは主イエスの処刑を躊躇ったのでしょうか。なぜ主イエスの処 刑に「おそれ」を抱いたのでしょうか。この謎を解く鍵は続く9節の御言葉に示されていま す。9節にピラトが主イエスに対して「あなたは、もともと、どこから来たのか」と訊ねてい ることです。  この「あなたは、もともと、どこから来たのか」というのは、単に主イエスの来歴を取り 調べているのではなく、主イエスがいったい如何なるかたなのか、神の子なのか、それとも ただの人間なのか、そういう最も大切なことを主イエスに訊いているのだと解釈するべきで す。それならばなおさら、そのような最も大切な問いをポンテオ・ピラトが発しているとい う事実に私たちは驚くのです。ピラトという人物はこの問いから最も遠いところにいる人間 に見えるからです。事実そのとおりでしょう。しかしそのキリストから最も遠いはずのピラ トが、キリストについて最も大切な問いを発しているということに、私たちは神の救いの御 業の大きさを見るのではないでしょうか。  そしてそれこそ、神によって造られ、神に愛されている存在であるにもかかわらず、神に背 き、神から遠く離れて生きている私たち自身の矛盾した姿の写しなのです。私たちは使徒信 条の中で「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と主イエスの十字架の受難の事実を告 白します。そのとき私たちの意識はどこに向けられているでしょうか?。かつて2000年前に 主イエスの十字架刑を決定したローマ総督ポンテオ・ピラトという人間がいたという事実 か?。もしもそうなら、それは間違っています。なによりも私たちは使徒信条のあの言葉を、 ポンテオ・ピラトの名に私たち自身の名を重ねてしか告白できないのです。主の十字架は2000 年前にポンテオ・ピラトが決定したという過去の歴史的事実なのではない。ピラトの名に恨 みを刻んでいるのでもない。そうではなく、まさしくそこで私たち自身の名が想起されてい るのです。主なる神によって造られ、神に愛されながら、しかも神の前に神なき者として、 神から最も遠く離れた者として歩んでしまっている私たち全ての人間の姿がそこにあるので す。  そのような意味でこそ、ピラトの名は私たち自身の名なのです。まさしくそのピラト(つま り私たち)が主イエスに対して「あなたは、もともと、どこから来たのか」と訊くのです。「あ なたは神なのか、それとも単なる人なのか」と訊くのです。核心に触れる大切な問いです。 しかしそれに対して主イエスは「なんの答もなさらなかった」と記されています。今朝の9 節の終わりです。「しかし、イエスはなんの答えもなさらなかった」。現在の裁判制度ではと もかく、古代の裁判においては有罪の訴えに対して沈黙したままでいることは、その人がそ のまま罪状を認めたことになりました。ですから裁判に被告として出廷した人間は、たとえ 有罪であっても(いや有罪ならばなおのこと)あらゆる弁舌や詭弁を駆使して自分が無実で あることを訴えることが普通でした。それにもかかわらず主イエスは全く沈黙を守っておら れた。このことはピラトには信じがたいことでした。だからピラトは続く10節主イエスにこ う訊ねます「何も答えないのか。わたしには、あなたを許す権威があり、また十字架につけ る権威があることを、知らないのか」と。ピラトには主イエスの沈黙の意味が理解できなか ったのです。このままだと十字架刑は自動的に決定してしまうのです。そうすると自分のロ ーマ総督としての経歴に瑕が付くことになる。だからピラトは主イエスに「私にだけは真相 を打ち明けてみよ」と苛立ちつつ命ずるのです。  ピラトはユダヤ総督として、主イエスの生殺与奪に関するいっさいの権限が与えられていま した。「許す権威」も「十字架につける権威」も全てはピラトの手中にあったのです。「今な らまだ間に合うのだぞ。私の匙加減ひとつでお前を無実にしてやることだってできるのだぞ」 ピラトはそう言いたかったのです。官邸の外では大勢のユダヤ人たちが「イエスを十字架に つけよ」と叫んでいました。ピラトには彼らの機嫌を損ねたくないという政治的判断があり ました。しかし同時に、主イエスを知れば知るほどピラトの心に主イエスに対する尊敬の念 が生じてきたのです。ピラトはできることなら主イエスから直接に教えを受けたいという願 いすら抱いていたのだと思うのです。それだからこそ、ピラトがここで最終的な切札として 自分の総督としての権威を持ち出すことは矛盾していると申すべきですが、人間とはまさし くこのような矛盾した逆さまな存在なのではないでしょうか。まさにこの矛盾を、ピラトが 逆さまであることを、主イエスは鋭く指摘なさるのです。すなわち11節の御言葉です。「イ エスは答えられた、『あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もな い。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい』」。  ローマ総督としてのピラトの権威は当時のローマ皇帝ティベリウスから受けたものでした。 しかしピラトはそれが“真の権威”ではないことを知らないのです。神の前にはそれが何の 意味もないことを知らないでいるのです。もともと「権威」と訳されたギリシヤ語は直訳す ると「本質から出た力」を意味する“エクスウシア”という言葉です。ただ神の権威だけが 人を生かしめ救う真の権威なのです。神だけが「本質から出た力」を持つかただからです。 そのことをまだピラトは知りません。だから彼は自分が持っている権威は「授けられた権威」 にすぎないことを忘れているのです。まことに逆さまにもピラトは“全ての人を救う真の権 威”は彼が向かい合っている主イエスのみが持っておられることを知らずにいるのです。こ の世界には人間に由来する“真の権威”は何ひとつないのです。“真の権威”とは私たちを救 い歴史を救う力であり、主なる神の御心が現れることです。歴史と永遠が切り結ぶことです。  いみじくもこの真理をピラトは実証することになります。彼は主イエスを生かすも殺すも自 分の権威なのだと豪語しますが、実際にはその権威はピラトのものではありませんでした。 その証拠にピラトは自分の政治的キャリア(総督としての地位)の安泰のために意に反して 主イエスを死に追いやってしまうのです。3度も主イエスの無罪をほのめかしながらそれを 守り通せなかったピラトの権威は“真の権威”(神の救いの権威)とは全く逆の人間の見栄に すぎませんでした。  何よりも主イエスの御言葉がそのことを示しています。主がピラトに「あなたは、上から 賜わるのでなければ、わたしに対してなんの権威もない」と言われたことです。この「上か ら」とは「神から」という意味です。この言葉の意味は限りなく大きいのです。なぜならこ こに主イエスはご自分が十字架にかかられるのはピラトの権威によってではなく、父なる神 の権威によって十字架にかかられるのだということを明らかにしておられるのです。ですか ら11節後半の「わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」とは、その文脈の中 で読まれなくてはなりません。つまり私たちはこれはイスカリオテのユダのことを語ってい ると理解しますがそうではない。この「わたしをあなたに引き渡した者」とはピラトの罪で あり、それゆえに私たちの「罪」をさしておられるのです。「悪魔」と言い換えてもよい。「罪」 の本質は悪魔的な滅び(虚無)への権威です。私たちを生ける真の神から引き離し、絶望と 虚無と永遠の死に投げこまんとする権威(力)です。その暗き権威に対して主イエスの救い の権威だけが勝利して下さったのです。主はご自分の死によって死の中の死である永遠の死 を滅ぼして下さったのです。ルターの言う「死の死」が十字架のキリストによって現された のです。これこそ私たち全ての者に対する祝福であり救いの出来事なのです。  だからこそ主がここで明らかになさっておられるのは、ご自分が十字架へと向かわれるの はピラトの権威などによってではなく、父なる神の救いの権威によるのだということです。 すなわち私たち全ての者に対する神の測り知れない愛によって、主は十字架への道を歩まれ るのです。それ以外のいかなる権威によっても主は動かされたまわないのです。だから主は 私たちをもその救いの権威の内に堅く守って下さいます。主イエスが世に現して下さる救い の権威は全ての人の救いの出来事です。それのみが全ての人間に授けられた権威そのものの 救いでもあるのです。この神の永遠の権威を見失うとき、人間の権威は恐ろしいものになる のです。それを授けられた人間に自己満足と大義名分を与えるゆえに、権威の用いかたを一 歩まちがえると取返しのつかないことになるのです。今度の原発の事故も根本にはこの人間 の「罪」の問題があるのです。津波に対する危険性を指摘されていながら、推進派は経済効 率優先の立場から、反対派は原発を廃止すべきだという立場から、現実を見据えた修理をせ ず理念ばかりが先行した結果あのような事故になったのです。  人間の権威は「上から賜わった権威」でないかぎりたえず間違いを犯すものです。主イエス・ キリストを信じて真の神に立ち帰ることによってのみ、私たちはこの世界におけるいっさい の権威を神の御心に相応しい仕方で担うことができるようになるのです。現実問題を正しく 見据えて正しい対策が打てるようになるのです。それは主イエス・キリストのみが神の権威 に死に至るまで服して下さった救い主であるからです。神の権威にのみ服したもう主イエ ス・キリストを「わが主・救い主」と告白し、主の教会に連なって歩むときにのみはじめて 私たちは人間としての健やかな歩み、また真の自由と幸いとを神の揺るがぬ救いの権威(祝 福の権威)のもとに回復するのです。  マタイ伝8章5節以下にカペナウムの百卒長のことが出てきます。彼は自分の愛する部下 (僕)の病気の癒しを主イエスに願い、そして主イエスにこう申しました。「主よ、わたしの 屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。 そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいま して、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『来い』と言えば来ますし、また、 僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。主イエスはこの百卒長の信仰に感心され、 弟子たちや周囲の人々に「よく聞きなさい、イスラエルの人々の中にも、これほどの信仰を 見たことがない」と言われました。この百卒長は主イエスを罪と死に勝利するキリストと告 白しているのです。自分も小さな権威の下にあるが、自分が命ずることを部下たちは必ず行 ってくれる。それならばまして神の御子であられるあなたがお命じになるとき、罪と死の支 配も打ち砕かれると信じますと百卒長は告白するのです。主イエスをこの世界に罪の赦しと 贖いと復活を現したもう神の権威(キリスト)と信じ告白するのです。私たちもまた主をそ のような救い主として心から信じ告白して主の教会に連なって歩んで参りたいと願います。 教会は陰府の力をも打ち伏せるキリストの権威の満ち満ちたる神の家なのです。  主はピラトに対して「わたしをあなたに引き渡した者の罪は、もっと大きい」と言われまし た。どうか気をつけて下さい。ここで主は私たちを支配している罪の力の大きさを語られま したが、その力の勝利を語られません。罪の支配に対しては主が決定的な御言葉をすでに語 っておられます。それこそ今朝の「あなたは、上から賜わるのでなければ、わたしに対して なんの権威もない」と言われたことです。たとえ罪の暗闇が今もこの世界を覆い尽くしてい るように見えても、その暗きの権威は「上から賜わった権威」すなわち神から出たものでは ないゆえに、すでに十字架の主イエスの前に完膚なきまでに打ち砕かれ滅ぼされているので す。神の救いの権威のみを現わされ、神の御心をご自身の御心とせられ、私たちを極みまで も愛したもうその愛のゆえに、あの十字架を担って下さった主イエスのみが全ての罪の支配 から私たちを贖い出して下さり、私たちを義とし、永遠の生命を与えて下さるのです。まさ にその権威によってこそ主イエスはここに聖霊による教会をお建てになりました。その教会 に私たちは連なる者とされています。いま主イエスの限りない救いの権威のもとに贖われ、 ともに生かされているのです。