説     教   レビ記24章16節   ヨハネ福音書19章6〜7節

「主は我らの病を負い」

2011・03・20(説教11121369)  日ごろは仲たがいをしている人間どうしが共通の敵(憎しみの対象)を持つことにより仲良 くなるということが私たちの社会に往々にして見られます。いわゆる「スケープ・ゴート」(身 代わりの山羊)を差し出すことにより、自分たちの安全と結束と秩序を維持しようとする人間関 係の暗く醜い側面を私たちの社会は持っているのです。ポンテオ・ピラトの総督官邸から引き 出されてきた主イエスを見たときの「祭司長」や律法学者たちの対応がまさにそれでした。日 ごろ派閥を組み反目しあっていた彼らは、いまや主イエス・キリストという共通の憎しみの対 象(身代わりの山羊)を持つことにより手を結び仲直りしたのです。憎悪と不信に満ちていた 彼らの関係は一瞬にして“主イエスを十字架にかける”という目的のために名目上の一致を見 たのです。  頭に茨の冠をかぶせられ紫の衣を着せられ、ローマの兵士たちに鞭打たれながら官邸の外に 引き出されてきた主イエスの姿、それこそ全世界の罪を一身に担われた神のお姿でした。主の 御身体は青黒く腫れ上がり血を流していた。その姿を目にした祭司長や律法学者たちは冷笑し 満足し、自分たちこそ勝利者であると確信したことでした。彼らにしてみれば自分を「神の子」 と称していた主がかくも憐れな姿で引き出されたのを見て快哉を叫んだのです。「それ見たこ とか」と思ったのです。全能にして聖なる神を「わが父」と呼んだ者がこの世で最も惨めな姿 で鞭打たれつつ引き出されてきたではないか。そのような者がどうして「神の子」(キリスト) でありえようかと思ったのです。  彼らはこの瞬間、自分たちの決定的な勝利を確信しました。それは同時に主イエスを信じて 従ってきた大勢のユダヤの民衆に対する勝利宣言でした。彼らは民衆にこう叫んだのです「だ から言ったではないか。お前たちは無学蒙昧な『地の民』にすぎないからこのナザレのイエス の語る言葉などに喜んで耳を傾けていたのだ。しかしもう答えは出ている。この男の憐れで惨 めな姿を見るがよい。このような十字架を負う者がどうして『神の子』などでありえようか」 と。実際にユダヤの民衆もこの祭司長や律法学者らの言葉に同意したのです。本当にそのとお りだと思ったのです。こんな惨めなナザレのイエスがどうしてキリストなどでありえようか。 どうしてこんな哀れな人間に『ダビデの子にホサナ』などと歓呼の声を上げたのだろう。人々 は“裏切られた”と感じ、掌を返すように主イエスに対する憎悪を燃え上がらせました。「バラ バとイエスのどちらを許して欲しいか?」と問うポンテオ・ピラトに対して「(バラバを許し) イエスを十字架につけよ」と絶叫したのです。  いまやポンテオ・ピラトは勝利者として、激高するユダヤの民衆をまるで宥めるかのように 申しました。6節半ばの言葉です「ピラトは彼らに言った、『あなたがたが、この人を引き取っ て十字架につけるがよい。わたしは、彼には何の罪も見いだせない』」。この冷ややかな言葉の 中にこそ律法学者や民衆にもまさるピラトの神に対する欺瞞がありました。ピラトは本心から 主イエスの無罪を訴えていたわけではなく、ただ自分の手を汚したくなかったのです。下手す れば宗教論争に発展しかねないこの厄介なキリスト裁判から一刻も早く手を引きたかっただけ です。少なくとも自分の総督としてのキャリアに傷を付けたくないという高級官僚の自己保身 本能が働いていたにすぎないのです。  そして事柄は、老獪な政治家であるピラトの思惑どおりに運びました。ユダヤの人々は7節 にあるとおりピラトに対して「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼は自分 を神の子としたのですから、死罪に当る者です」と申しました。ピラトの願ったとおりの返事 をしたのです。将棋で言うなら自分の願いどおりに相手の駒が動いてくれたのです。いまや勝 利は完全にポンテオ・ピラトのものでした。対立と争いの絶えないパレスチナの地に、いまキ リストを十字架にかけることによって、平和と一致と秩序が回復されたように見えたからです。 このいまいましい裁判がもたらした予想外の結果にピラトは心の底から満足しました。このピ ラトの卓越した手腕は必ず本国ローマ皇帝の耳に届き、ピラトは将来の栄転を約束されると確 信したことでした。  今朝の御言葉に現れている、これら主イエスを審く人々の姿にはひとつの共通点があるので す。それは彼らがみな誰一人として主イエスを「神の御子」「救い主」とは信じていなかったこ とです。まことの神を信じていなかったことです。むしろ彼らは主イエスが背負われた言語を 絶する苦難を見て喝采を叫び、自分たちの勝利と栄光を確信したのでした。言い換えるなら、 神の御子を殺してまでも自分たちを「正しい者」としたのです。主イエスを文字どおり“身代 わりの山羊”として自分たちの栄光を築こうとしたのです。  そこにこそ、歴史と世代を超えた私たち全ての者の「罪」があります。言い換えるなら、自 分たちは神さえも思うままに支配できるのだと考えることです。自分が神の僕なのではなく、 神を自分の僕にしてしまうことです。自分を「主」とし自分を「神」としているのです。もし そうでないなら、どうして彼らは神の御言葉のみを世に宣べ伝え、愛の御業と罪の赦しを全て の人々に現された主イエスに向かって「十字架につけよ」と絶叫することができたでしょうか。 まことにいつの時代にも私たちの「罪」はこれほど信じがたくしぶといものなのです。「ブラウ ン神父」ものの推理小説で有名なイギリスの作家ギルバート・チェスタトンは「もしわれらの 主が二千年前のイスラエルにではなく現代のイギリスに来られたとしても、われらは主に向か って「十字架にかけよ」と叫んでいたであろう」と語りました。現代もなお私たちは主イエス を十字架に追いやる罪人に変わりはないのです。  人々が主イエスを十字架にかけよと主張した根拠は旧約聖書レビ記24章16節にありました。 「主の名を汚す者は必ず殺されるであろう。全会衆は必ず彼を石で撃たなければならない。他 国の者でも、この国に生まれた者でも、主の名を汚すときは殺されなければならない」とある ことです。人々はこの言葉を字義どおりに受け止め、主イエスは神聖冒涜の罪を犯したと判断 したのです。今朝の御言葉の7節に「わたしたちには律法があります。その律法によれば、彼 は自分を神の子としたのだから、死罪に当る者です」とあるのはまさにそのことを示していま す。  しかし、彼らは(私たちは)いちばん大切な事実を忘れていました。実はこのレビ記の「主 の名を汚す者」とは、まさしく私たちのことだということです。 律法学者や祭司長らは聖書を 詳しく学んではいましたが、それを自分に対する福音の言葉としては聴いていませんでした。 「聖書読みの聖書知らず」になっていました。私たちこそそのような間違った聖書の読みかた をしていることはないでしょうか。レビ記が語る「主の名を汚す者」とはまさに私たち自身の ことなのです。言い換えるなら、主なる神が私たちに求めておられる本当の“清さ”とは、私 たちが「自分は主の名を汚していない」(正しく清い)と自分を誇るところにあるのではない。 そうではなく、まさに「主の名を汚す者」でしかありえないこの私(たち)のために十字架を 負うて下さったイエス・キリストをまことの「神の子」「救い主」と信じ告白して、主の御身体 なる教会に連なって歩むことこそ主なる神が求めたもう本当の“清さ”なのです。  「主の名を汚す」という言葉の本来の意味も「言葉で冒涜する」というような外面的・形式 的なことではありません。レビ記が言う「汚す」とは「侮辱する」という程度の意味ではなく、 まことの神を「崇めない」という意味です。つまり「主の名を汚す」とは私たちが「神ならぬ ものを神として崇める(主とする)」ことです。それこそ私たちの「罪」であると言わねばなり ません。この「罪」のゆえに私たちはピラトと同じように、十字架の主イエス・キリストにお いてまことの神を崇めず、逆にキリストのお姿の悲惨さのゆえに、キリストこそ「主の名を汚 す者」であり、自分こそ「主」であると自分を義とするのです。そこに現代社会のあらゆる悲 惨の根源があるのです。  使徒パウロはかつてパリサイ人サウロであったとき、そのような誤った“清さ”(自分の義) に生きていました。自分は「主の名を汚す者」などではないと頑なに思いこんでいました。サ ウロには「自分の義」について溢れるほどの自信があり、その自信(誇り)こそ自分の「益」(救 い)だと確信していました。しかしそのサウロに復活の主イエスが出会われたとき、サウロの それまでの「誇り」は塵芥のように消え去り、自分こそ「主の名を汚す者」であることがはっ きりとわかりました。その自分の罪のために神の御子イエス・キリストは十字架にかかられた ことを信じ、パリサイ人サウロは贖われた主の僕(使徒)パウロとして生まれ変わりました。 本当の喜びと平安が与えられたのです。  ピラトも祭司長や律法学者らも、ユダヤの民衆も、なにより私たちも、この喜びと平安へと 招かれているのです。私たちが知るべきことはただひとつです。それは私たち全ての者の「罪」 を背負われ十字架への道を歩まれる「神の御子」がいま私たちに出会っていて下さるという事 実です。主の想像を絶する辱めの姿こそ私たち全ての者の「罪」の贖いのための御苦しみなの です。茨の冠を被せられ、永遠の滅びとしての十字架を担わねばならなかったのは私たちでし た。私たちこそ永遠の死を死なねばならなかった者なのです。その私たちに代わって、神の永 遠の御子キリストが十字架を担って下さいました。限りない辱めと嘲りを受けられ、ただ私た ちの救いのために十字架の道をまっすぐに歩んで下さいました。ここに全ての人々の本当の救 いがあるのです。  イザヤ書53章4節は「まことに彼(キリスト)はわれわれの病を負い、われわれの悲しみを になった」と語ります。しかし私たちは「思った」ともイザヤは語ります。「彼(キリスト)が 打たれたのは、神にたたかれ、苦しめられたのだ」と…。この者は自分の犯した大きな罪の報 いを受けたのだと私たちは思った。しかしイザヤは「そうではない」と告げるのです。「彼(キ リスト)は、われわれのとがのために傷つけられ、われわれの不義のために砕かれたのだ。彼 はみずから懲らしめをうけて、われわれに平安を与え、その打たれた傷によって、われわれは いやされたのだ」。だからイザヤ書53章は「だれがわれわれの聞いたことを信じえたか」とい う驚きの言葉で始まっています。私たちの耳を疑う出来事がここにあるというのです。天地の 創造主なる全能の聖なる神が、このいと小さき罪人なる私を救うために、いっさいの栄光を捨 てて人となられ十字架を担って下さった。この福音の事実こそ最も驚くべき出来事なのです。 「主は我らの病を負われた」のです。  古代ギリシヤには“苦しまざる神”という思想がありました。神は苦しみ(パトス)から解 放されているという考えです。神は苦しみを受けず、死なないからこそ神である。死は苦しみ の極致であるから、苦しむ者は神から離れていると思われたのです。しかしまさにイエス・キ リストにおいて、神は“苦しまざる神”などではなく、私たちの「罪」のために苦しみを担わ れ、私たちの救い(喜びの生命)のために死んで下さったかたであることがはっきり現された のです。それを明らかに示すのが今朝の御言葉なのです。  罪とは私たちが“神の外に出てしまった”ということです。その私たちを救うために、神み ずからが“神の外”に出て下さった…。それがイエス・キリストのご生涯なのです。私たちは この十字架の主イエス・キリストにおいてのみ、まことの神の愛と恵みと救いを知るのです。 いま私たちは神に堅く結ばれた者・復活の生命に覆われた者とされているのです。この十字架 の主にこそ全ての者に対する神の極みまでの愛が鮮やかに現れているのです。  私たちはいまここにおいて、その神の愛と恵みに贖われ、救われ、永遠の生命を与えられて いるのです。もはやいかなる支配も、権威も、闇の力も、死も、キリストにおける神の愛から、 私たちを引き離すことはできないのです。