説     教     詩篇88篇1〜8節   ヨハネ福音書19章1〜5節

「この人を視よ」

2011・03・13(説教11111366)  新約聖書はもともとギリシヤ語で書かれているものですが、単に日本語との言葉としての 違いだけではなく、日本語に翻訳したり解釈すること自体が難しいと思われる言葉が少なく ありません。今朝のヨハネ伝19章1節以下などはその代表的なところでありましょう。それ は特に5節の御言葉です。ここにポンテオ・ピラトは、処刑されるために引出されてきた主 イエスのお姿を見て、周囲にいるユダヤの人々に「見よ、この人だ」と申しています。すな わちこう記されています。「イエスはいばらの冠をかぶり、紫の上着を着たままで外へ出られ ると、ピラトは彼らに言った、『見よ、この人だ』」。  そこでこの5節においてピラトは、主イエスについて「見よ、この人だ」と申しています が、この言葉こそ昔から解釈が大きく分かれるところです。たとえば新共同訳聖書ではここ を「見よ、この男だ」と訳しています。またある英語の聖書では「見よ、ただの人ではない か」と訳しています。つまり「ただの人間に過ぎないではないか」という訳になっているの です。  そうしますと、新共同訳や一部の英語の聖書では、今朝のこの5節のピラトの言葉は、主 イエス・キリストが神の御子であることを否定し「ただの人間に過ぎないではないか」と嘯 くピラトの嘲笑の言葉として解釈されているわけです。それはそれでひとつの翻訳ですし解 釈です。原文のギリシヤ語を見てもそのように訳される可能性はあるのです。  しかし、たとえば1545年にルターが訳したドイツ語の聖書などを見ますと、今朝の5節は 「見よ、彼こそその人なり」というまことに意味深長な訳になっています。つまりルターは このピラトの言葉を、ただ単に2000年前の総督官邸にいた人々への問いかけだけではなく、 いまここに集う私たち全ての者に投げかけられた言葉として解釈しているわけです。  まさしく「見よ、彼これその人なり」とピラトは申したのです。ピラトにしてみれば、兵 卒たちに鞭打たれながら引出されてきた主イエスの余りの悲惨かつ滑稽な姿に改めて驚いた のでした。まず主イエスの御頭には茨で編んだ冠が被せられていました。茨の鋭い棘が容赦 なく主イエスの額に刺さりたくさんの血が流れていました。そしてその身体には「紫の上着」 が着せられていました。それは今朝の御言葉の2節に記されているように、兵卒たちが主イ エスを罵倒するために着せた「王の上着」でした。  3節を見ますと、兵卒たちは主イエスの前に進み出てわざと「ユダヤ人の王、ばんざい」と 嘲弄し、そして「平手でイエスを打ち続けた」とあります。これは「執拗に(主イエスを) 殴り続けた」という意味の言葉です。殴られて青く晴れ上がり血にまみれたまま引き出され てきた主イエスのお姿にピラトは驚きを隠せなかったのです。だからでしょうか、今朝の4 節を見るとピラトは、外で待っていたユダヤ人たちに「見よ、わたしはこの人をあなたがた の前に引き出すが、それはこの人になんの罪も見いだせないことを、あなたがたに知っても らうためである」と申しています。  言い換えるならピラトは「もうこれぐらいで許してやったらどうか?」と温情をユダヤ人 たちに求めているのです。それとの関連で5節を読むならば、場面の流れがいっそうはっき りするでしょう。つまりピラトはすでに十分痛めつけられた主イエスへの温情をユダヤ人ら に求めると同時に「見るがよい、この男の姿を。これはただの哀れな人間にすぎないではな いか」と彼らに訴えかけていると理解できるのです。「見よ、これがその人だ」とは、場面の 意味としてはそういう事柄であろうかと思います。  しかしながら、ルターが意味じくも洞察しているように、このピラトの言葉はただ単に2000 年前のキリストへの審きの場面を記録したものではない。いまここに集うている私たち全て の者に福音として聖書が投げかけている言葉なのです。つまり今朝の御言葉が問うているこ とは、ピラトや当時のユダヤ人たちが主イエスをどう見るかではない。いまここに連なって いる私たちが主イエス・キリストをいかなるかたと信じ告白しているかなのです。  すなわち、ここで御言葉を語っておられるかたは、主なる神ご自身なのです。言い換える なら「見よ、これがその人だ」と主なる神は、ポンテオ・ピラトを通して私たち一人びとり に告げておられる。「見よ、これがその人だ」あなたはこの人をいかなるかたとして信じ告白 するのか? それこそがいま私たち一人びとりに神が問うておられる最重要問題なのです。神 は最も悪しき者をさえ歴史における救いの御業のためにお用いになられます。この世界は神 の世界でありますなら、最悪とも思える事柄の中からさえも、私たちの想いを超えた祝福と 助けが現れるのです。  それでは「見よ、これがその人だ」とさし示される御声のままに、私たちがそこに見いだ すかたいったいどなたでしょうか?。それは人間の姿とも思えぬほど徹底的に虐げられ痛み つけられ踏みにじられて、十字架にかけられるために引渡されたもうた神の御子イエス・キ リストのお姿です。そのお姿を私たちは相応しく思い描くことさえできません。なぜならま さに主イエス・キリストこそは他と比較することさえできない本当の死を、すなわち永遠の 滅びとしての絶対の死を私たちの身代わりとなって担われた唯一のかただからです。私たち はキリストの身に現れた測り知れない御苦難をただ詩篇88篇1節以下の御言葉によって、全 世界に与えられた救いと生命の福音として聴き取るのです。このように告げられていること です。これこそは十字架における主イエスの祈りを最もよく現している詩篇の言葉です。「わ が神、主よ、わたしは昼、助けを呼び求め、夜、み前に叫び求めます。私の祈りをみ前にい たらせ、わたしの叫びに耳を傾けてください。わたしの魂は悩みに御ち、わたしのいのちは 陰府に近づきます。わたしは穴に下る者のうちに数えられ、力のない人のようになりました。 すなわち死人の中に捨てられた者のように、墓に横たわる殺された者のように、あなたが再 び心にとめられない者のようになりました。彼らはあなたのみ手から断ち滅ぼされた者です。 あなたはわたしを深い穴、暗い所、深い淵に置かれました。あなたの怒りはわたしの上に重 く、あなたはもろもろの波をもって、わたしを苦しめられました」。  ここに詩人は「わたしは穴に下る者のうちに数えられ、力のない人のようになりました」 と語っています。自分はその苦難のゆえに「死人の中に捨てられた者のように、墓に横たわ る殺された者のように」なったと言います。まさにこれらの事こそ十字架においてイエス・ キリストの上に起こった事柄なのです。すなわち、測り知れないご苦難と死と葬りの出来事 が、私たちのためにキリストの身に起こったのです。  私たちが罪人であるとは、私たちの認識や自覚の範囲内にあること、つまり私たちが実感 しうることではありません。ちょうど癌に冒された人が最初は自覚症状を持たないのと同じ ように、私たち人間の罪にも自覚症状というものがないのです。では自覚症状とは何かと言 いますと「自分は神に叛いている」という感覚です。「自分は神に叛いている」という感覚が ないまま、しかも叛きの罪に侵されて生きているのです。自覚症状がないので、自分は健康 であり病気などではないと思いこんでいます。言い換えるなら、私たちは「神に対して死ん でいる」存在でありながら、自分は死んでなどいない、健康そのものだと思いこんでいるの です。人間の本当の幸いである真の神への立ち帰りは少しも求めず、目の前の慰めに自分を 委ねてしまう存在です。身体の怪我や病気に対しては極端に神経質な私たちが、それより遥 かに深刻な病である神への叛きの罪に対しては驚くほど鈍感であり無神経であり、自覚しよ うとさえしないのです。  それならばポンテオ・ピラトの罪、また主イエスに対して「十字架につけよ」と絶叫した 人々の罪はそのままに、ここに集うている私たち一人びとりのものでもあります。彼らはイ エスに対して口をそろえて罵り叫びました。「見よ、これがその人だ」と…。人間としての姿 さえ損なわれ苦難に打ちのめされた、この墓に下った死人のような者が神の御子キリストな どであるはずはないと叫んだのです。彼らには確信がありました。自分たちこそ健康で間違 いのない正しい人間だという確信です。私たちは弱さにおいて罪を犯すより、むしろ正しさ と強さにおいてこそ罪をおかすのです。  だからこそ大切なことは、今朝の御言葉が私たちに告げている事柄です。いま主はあなた を限りなく愛し、あなたのために十字架を担われたかたとして、私たちの罪を背負われたの です。福音は「自分の罪を自覚せよ」と言いません。そうではなく、今朝の御言葉が福音そ のものなのです。「見よ、これがその人だ」。このかたこそ私たちが凝視すべき唯一のまこと の救い主である。いま私たちのために十字架を担われるのです。私たちが信じ告白すべき唯 一の神がここにおられるのです。この神の御子イエス・キリストが私たちのために、そして この世界の救いのためになして下さった救いの御業、ただそれだけが世界と人間にとって最 も重要なのです。キリストこそ福音そのものなのです。  私たちの罪の自覚は、実はただこの十字架の主を知ること、信じることからしか生まれてこ ないのです。神がどんなに測り知れない愛をもって私たちを愛して下さっているかを知るこ とです。かけがえのない愛(キリストの十字架の贖い)によってこの自分が限りなく赦され ありのままに生かされていることを知ってこそ、そこにはじめてパウロの言う「われは罪人 のかしらなり」との認識が生まれるのです。神の愛に比較対象などがありえないのと同じよ うに、神に対する叛きの罪もまた比較対象を持たない絶対的なものだということがわかるの です。  教会生活も同じです、神が御子イエス・キリストにおいて、いかに限りなく私たちを愛し て下さったかを知るなら、それは比較対象の問題などではないのです。他の人と自分を較べ る必要はないのです。自分はこの奉仕を主のために献げるのだ。他の人はどうであっても自 分は心からの喜びをもってこの献げものを主にお献げするのだ。そういう自覚的な信仰の生 活に私たちは進ましめられてゆくのではないでしょうか。  バプテスマのヨハネはヨルダン川のほとりで主イエスと出会ったとき、人々に「見よ、世 の罪を贖う神の小羊」と語り告げました。そのときヨハネの目には全人類の罪のために十字 架を担って下さる神の御子イエス・キリストの御姿があざやかに示されていたのです。私た ちもまた主の御身体であるこの教会に連なる者たちとして、心を合わせ声をひとつにして告 白するのです。「視よ、このかたこそキリストなり」「見よ、世の罪を贖う神の小羊」と。  まことの神は、罪によって神の外に出てしまった私たちを救うために、みずから神の外に 出て下さったかたなのです。すなわちキリストは永遠の三位一体であられるにもかかわらず、 処女マリヤより生まれたもうて人となり、その人生の歩みにおいては全ての人々の罪の重荷 を担われ、十字架において測り知れない御苦しみを受けられ、死んで死の中の死を葬られ、 陰府にまで救いを(生命を)与えて下さったのです。まさにそのような「主」としてのみ、 キリストは私たちと永遠に共におられ、私たちを存在の深みから贖い取って、ご自身の復活 の生命を与えて下さいました。今ここで主の御身体である唯一の聖なる使徒的な公同の教会 に、私たちをあるがままに、ただ御恵みによって招き入れて下さり、死したる者に永遠の生 命を与え、絶望に倒れたる者を立ち上がらせ、疲れたる者を癒し、望なき者を慰め、病める 者を癒したまい、今も、後も、永遠までも、私たちと共にいて下さるのです。  まさしく、このかたこそが、「その人」(キリスト)なのです。人となりたる、まことの神 のまことの独り子なのです。