説     教    箴言20章6節    ヨハネ福音書18章38〜40節

「真理とは何か」

2011・03・06(説教11101367)  いにしえの人は「朝に道を聴かば、夕べに死すとも可なり」と申しました。この世界の真理、 人生の奥義をひとたび聴く幸いを得たら、もう自分の生命はその日に終わっても悔いはないと語 ったのです。それほど真剣に人間としての生きるべき道を模索したのです。これは古代の人々の 人生観ですが、今日の私たちの心にも訴えかけてくるものです。およそ人間として真実に生きよ うとする限り、悩みや屈託なしに一日を過ごしうる人は一人もおりますまい。私たちにはできる だけ容易な楽な方向に歩もうとする本能的な願望があります。言い換えるなら私たちは人生の深 刻な問題から目を逸らせ、忘れたふり、見ぬふりをして生きようとしているのです。  これがもし芝居や映画なら、深刻な場面や悲しい場面には目を塞ぎ、楽しく愉快な場面だけ見 て過ごすことができますが、実際の人生ではそうはゆきません。ときに否応なく人生の愁嘆場に 引き出され、そこで主役を演じねばならないのが私たちなのです。それを思うだけで心が塞がる、 あまりの悲しさに気も狂いそうになる、そうした深刻な人生の場面に何の準備もないまま突如と して引き出される。しかも主役を最後まで演じきらねばならない。そこに私たちの苦しみの根本 原因があるのです。言い換えるならなぜそういうことが自分の人生に降りかかってきたのかわか らない。意味が理解できない。納得できず受け入れられない。そういう事柄が容赦なく私たちを 責め苛むのです。  今朝のヨハネ伝18章38節の場面において、ローマの総督ポンテオ・ピラトは主イエス・キ リストに「真理とは何か」と訊ねています。しかし彼のこの問いは、深刻な人生の反省や悩みか らやむをえず噴き出した問いではありませんでした。むしろこの問いは人生において最も深刻な 神の御子イエス・キリストの十字架という場面に立ち会いつつ、しかもそれに目を背け続けてい るピラトが戯れ心から発した問いにすぎませんでした。それは先の37節で、主イエスが「だれ でも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」と言われたことに対するピラトの揶揄でした。 つまりピラトは「そうか、それならばお前に訊ねるが、お前の言うその真理とはいったい何なの だ?」と訊いたわけです。真剣な問いだったのではなく、むしろ主イエスを落としめ辱めようと する思惑がありました。言い換えるならピラトは自分という人間をこの大切な問いの枠の外に置 いているのです。真理の傍観者であろうとしていたのです。  ですから、たとえ言葉そのものはいかに正しくても、ピラトの「真理とは何か」という問いは 実体の伴わない「空言」にすぎませんでした。真理そのものであられる主イエスを前にしてピラ トは主イエスの内に真理を求めてはいなかったからです。しかしそれにもかかわらず、ピラトが 予期せずして口にしたこの問いこそ主イエスに対して最もふさわしい問いでした。なぜなら主イ エス・キリストは「すべての人を照らすまことの光」とてして世に来られた神の御子だからです。 この「まことの光」とは「真理そのものの光」という意味です。主イエス・キリストは「すべて の人を照らす」真理そのものとして世に来られたかたなのです。そのかたがいま「真理そのもの」 としてピラトの前に立っておられるのです。  大江健三郎という作家がいます。この人の最近の作品に一貫して流れている主題は「信仰のな い者の祈り」です。これは大江氏自身数年前に東京女子大学で行った講演のテーマともなりまし た。「信仰のない者の祈り」とはどういうことでしょうか?。大江氏は作家ですから何よりも「言 葉」を考えています。信仰のない人間にも、苦しみや悲しみの中で心から発せざるをえない「言 葉」があるはずだ。その「言葉」が「神」に向けられたものではないと誰が言いうるであろうか。 全ての人が真の神を求めているはずだ。そういう問題意識がこの作家の中にはあるのです。大江 氏自身、重度の障害を持ったお子さんの親でもあります。人生の不条理と苦難の問題を深く掘り 下げている作家なのです。  私は最近、幾つかの大江作品を立て続けに読んで、その全てに共通しているものがドイツの詩 人リルケの「祈り」と共通した姿勢だと気がつきました。リルケはこういうことを語っているの です。信仰を持った人間の余裕ある祈りの言葉より、信仰のない人間の真剣な懐疑(疑い)のほ うがはるかに神に近いと。これは逆説ですが私たちにもよく理解できるのではないでしょうか。 もっとも大江健三郎という作家の魅力は、自分が「信仰のない人間だ」ということを大上段に振 りかざさない点にあります。むしろ彼によれば、自分は「信仰のない人間」なのではなく「信仰 を持っているとは言えない人間」なのです。そういう謙虚な意識がこの作家の文学形成の原動力 になっていると思います。その意味で大江氏は隠れたキリスト教求道者です。  ではポンテオ・ピラトはどうでしょうか?。ピラトは主イエスに対して「真理とは何か」と問 いました。この問いそのものは言葉としてはとても真実な、否、真実以外ではありえないもので す。しかしピラトは主イエスに対して真剣な懐疑者であろうとさえしていません。あくまでロー マ総督として主イエスを訊問しているだけです。だから余裕綽々たる問いなのです。たぶんピラ トには彼なりの「真理」に対する答えすらあったのでしょう。その答えに満足していたので、形 式的に主イエスに「真理とは何か」と訊ねただけなのかもしれません。いずれにせよピラトは主 イエスから答えを期待してはいないのです。  私たちにも同じことがないと言い切れるでしょうか。日曜日のたびに教会に来て礼拝を献げて いる私たちにも、このピラトの頑なで傲慢な姿勢(余裕綽々たる祈り)が現れることはないでし ょうか?。私たちこそ「信仰者のふりをした不信仰者」になってはいないでしょうか。御言葉を 聴く以前に既に自分の中で答えを出していることはないでしょうか?。自分が共感できる部分だ けを聴き、あとは聴かないという態度でいることはないでしょうか。もしそうなら私たちもポン テオ・ピラトの心に深い部分で似ています。それは「真理とは何か」という人間にとって最も真 剣な問いをすら「空言」としてしまう砕かれない心です。主イエスの御言葉を聴いているふりを して、実は少しも聴いてはいない頑なな心が私たちの中にもあるのではないでしょうか。  それはエルサレムの群衆も同じでした。その前日まで神殿の中庭で喜んで主イエスの説教に耳 を傾けていた同じ群衆が、もう次のこの日には主イエスに対して「十字架にかけよ」と絶叫して いることを私たちは今朝の御言葉で見るのです。バラバとイエスとどちらを赦してほしいかと問 うピラトに対して「イエスではなく、バラバを!」と叫ぶ群衆の姿を視るのです。群衆は一致し て拳を振り上げ「イエスを十字架にかけよ!」と狂い叫ぶのです。そこにもまた私たちの罪の姿 があるがままに現れているのです。  旧約聖書の箴言20章6節、今朝あわせて拝読した御言葉にこうありました。「自分は真実だ という人が多い。しかし、だれが忠信な人に会うであろうか」。これは箴言の著者である預言者 が語ったことです。私たち人間は常に「自分はいつも真実だ」と主張する。自分の中に真理があ ると自惚れている。「しかし」と預言者は申します。この「しかし」は重いのです。「だれが忠信 な人に会うであろうか」。この「忠信な人」とは「神のみを仰ぐ人」という意味のヘブライ語で す。言い換えるなら十字架の主イエス・キリストにまなざしを止めて動かない人のことです。そ の人は言葉で「真理とは何か」と問うことはしないかもしれない。しかし既に十字架の主を仰ぎ、 主を信じ、主をみずからの永遠の救い主と告白することにおいて、この「忠信な人」は真理その ものに出会っているのです。  ローマ時代の人々は「真理」と聞くとすぐに「眞」「善」「美」の3つを思い浮かべました。「眞」 とは知識、「善」とは道徳、そして「美」とは芸術のことです。「真理」をめぐるこの3つの立場 はそのま、近代のヘーゲル、カント、シュライエルマッハーへと受け継がれました。彼らによれ ば「眞」「善」「美」はそのまま宗教の座(出発点)でさえあるのです。こうした現代にも通用す る価値観をピラトも持っていたと言えます。洗練された答えです。しかしその3つは全て高いと ころから私たちを見下ろしている真理です。私たちに対して「ここまで昇って来い、そうすれば あなたは救われるだろう」と告げている真理です。そのような真理を渇望しそれに向かって昇ろ うとする意志を、古代のギリシヤ人はエロース(愛)と呼びました。それは「価値を追求する愛」 のことです。  主イエス・キリストにおいて、まことの神から私たちに現された本当の「真理」はそのような エロースの最高点に立つ真理とは根本的に違うものです。主イエス・キリストご自身が唯一の永 遠の「真理」であられるのです。神のみが「真理」(私たちの救い)そのものであられるのです。 その神の御子キリストのみが本当の真理をもって私たちを救って下さるのです。そしてそのキリ ストの「真理」は私たちを見下ろして「ここまで登ってこい」と命ずるようなエロースの真理で はありません。そうではなく、それは罪人なる私たち、神から離れて滅びの中にあった私たちの 救いのために、みずからがまずどん底まで降りて来て下さった真理なのです。だから私たちはキ リストを信じ、キリストの御身体である教会に連なって歩むとき、この「真理」そのものを歩む 者とされているのです。すでに私たちは十字架の主においてこの唯一絶対の真理と出会っている からです。  聖書においては、この「真理」そのものが私たちの罪のどん底にまで降って来た出来事を「ア ガペー」(神の永遠の愛)であると宣べ伝えています。私たちを救うのはエロース(価値を追求 する愛)などではなく、ただ「アガペー」(価値を創造する神の永遠の愛)によって救われるの です。だから私たちには主イエス・キリストを信じる信仰のみが求められています。さらに言う ならキリストの御名だけが大切なのです。私たちのために十字架にかかられ、私たち全ての者の 罪の身代わりとなり、贖いとなられたキリストの御名を信じ、キリストがお建てになった教会に 連なり、礼拝者として生きることです。そのとき私たちは「真理の御霊」による御言葉の絶えざ る養いと導きのもとにあるのです。いまここにおいて私たち全ての者が「真理」そのものである 十字架の主の永遠の愛の内に支えられ、主と共に生きる者とされているのです。  いにしえの人たちは「朝に道を聴かば、夕べに死すとも可なり」と申しましたが、私たちイエ ス・キリストに贖われ、教会に連なる全ての者たちにとっては、キリストと共に歩む日々の生活 そのものが永遠なる御国に連なるかけがえのない旅路なのです。パウロの言う「キリストのため に絶えず死に渡されている」者の生活がそこに生れます。それは同時に「キリストの生命がこの 身に現れる」生活です。キリストに贖われた者として新たにされた者の幸いの生活です。キリス トの愛の御手の内に日毎に立ち上がり、主の愛の御手こそが永遠に私たちを捕らえて離さないこ とを確信する生活です。  なによりも主は言われました。ヨハネ伝14章5節「わたしは道であり、真理であり、命であ る。だれでもわたしによらないでは、父のみもとに行くことはできない」。十字架の主キリスト のみが「道」「真理」「命」を全ての人に与えたもう救い主なのです。主を信じる者は誰でも「真 理」そのものである神に堅く結ばれているのです。たとえ私たちの人生に思いがけぬ患難試練・ 悲しみや挫折がありましても、そのどれひとつも神の愛の御手の御支配から離れたものではあり えない。この人生のあらゆる出来事や経験を通して神は私たちをアガペーの愛から離れない者と して下さる。その全てを通してますます堅く私たちを「真理」に結ばれて生きる僕として下さる のです。それこそローマ書8章28節に告げられている約束です。「神は、神を愛する者たち、 すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さること を、わたしたちは知っている」。そこに私たちの日々に変らぬ慰めがあり、平安があり、喜びと 希望と感謝があることを覚え、私たちは「真理」なる主の御名を讃美するものです。  「真理とは何か」。これこそ人生最大最高の問いです。その答えなくして私たちの生命はあり えません。まさにこの「真理」が既に十字架の主キリストによって私たちのもとに来ているので す。その恵みにおいてこそ、私たちはポンテオ・ピラトの心ではなく、主の聖徒らの心(贖われ た者の健やかで自由な魂)に生きうるのです。ヨハネ伝6章68節「主よ、われらいずこに行か ん。永遠の生命(真理)の御言葉は汝にあり」。