説    教    詩篇145篇13〜14節   ヨハネ福音書18章37節

「二人の王」

2011・02・27(説教11091366)  主イエスの時代のアラム語で「王」のことを“メレーク”と申しました。しかしこれは単に この地上の王(いわゆる「国王」)を意味する言葉ではなく、ほんらいは「神の僕」「神に仕え る人」という意味でした。それは英語で「大臣」を意味するミニスターという言葉がほんらい 「主の僕」という意味であることと共通しています。語源に忠実な英語の辞書をひくとミニス ターの意味としてまず「牧師、特に長老教会の聖職者」と出てきます。これがほんらいの正し い意味です。「大臣」という意味になったのはずっと後の時代のことです。  そこで、今朝の御言葉ヨハネ伝18章37節において、ユダヤの総督ポンテオ・ピラトは主イ エスに対して「それでは、あなたは王なのだな」と念を押すように訊ねています。それは直前 の36節で主イエスがピラトに「わたしの国はこの世のものではない」と言われたことに対す るピラトなりの策略的な質問でした。ピラトは何とかして主イエスを政治犯として処刑しよう と考えていました。それで「おまえの言う国がこの世のものであろうとなかろうとどうでもよ い。とにかくおまえは自分がユダヤの王であるということは認めるのだな?」と訊ねたわけで す。  ピラトは思ったのです。この主イエスの裁判はことによると複雑怪奇なユダヤの宗教問題に 関わることになる。するとユダヤの民衆の反感を買い暴動が起こる可能性がある。そうなれば 総督としての自分のキャリアに瑕がつくことになる。だからピラトは自分の立場を守るために も主イエスのことを「自分をユダヤの王だと自称し、民衆を扇動して反ローマ抵抗運動を組織 した政治犯」として十字架にかける必要があったのです。それがピラトにとって最も望ましく 無難なことでした。  そのようなピラトは最初から主イエスの御言葉を聴く耳を持っていませんでした。ピラトに とって大切なことは、神の言葉を聴くことではなく、まず自分の立場を守り地位と人望を失わ ないことだったのです。だから今朝の18章37節の主イエスのお答えは、ピラトにとっては単 なる言質でしかなかった。実際ピラトは小躍りせんばかりに喜んだのです。まさにお誂え向き の答えが主イエスの口から出てきたからです。すなわち「イエスは答えられた、『あなたの言 うとおり、わたしは王である。わたしは真理についてあかしをするために生まれ、また、その ためにこの世にきたのである。だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける』」。  まさにこの瞬間に主イエスの十字架刑は決定されたと申してよいのです。それは「おまえは 有罪か、それとも無罪か?」という質問に対して、被告人であるイエスみずから「わたしは有 罪です」と答えたのと同じことだからです。「あなたの言うとおり、わたしは王である」と言 われた主イエスのお答えは、裁判の流れから言えばそれほど決定的に不利なものでした。逆に この言質さえ取ればピラトの仕事は終わったも同然でした。十字架刑は決定したのです。そこ でピラトは狡猾にもさらに自己保身に保険をかけます。自分が十字架刑を決定したという既成 事実をできれば作りたくなかった。そこでピラトは「過越の祭」のさいに恒例となっていた“特 赦”を主イエスかバラバのどちらかに適用しようではないかとユダヤの民衆に持ちかけるので す。民衆はそこでいっせいに「バラバを赦し、イエスを十字架にかけよ」と叫びます。それこ そピラトの思うつぼでした。かくしてピラトは自分の手を少しも汚さずに主イエスの処刑を決 定することができたのです。この男の血の責任は民衆にあるのであって私には責任はないぞと 言うことができたのです。  さきほどアラム語で「王」を意味する“メレーク”の本来の意味は「神の僕」であると申し ました。主イエスはご自分をただ「神の僕」として世に現す以外いかなる現しかたもなさらな かったかたです。「神の僕」はこの世のどんな権力者に対しても少しも恐れることなく、ただ 福音の真理のみを宣べ伝える者です。逆にこの世で最も貧しく軽んじられている人々に対して も限りなく謙遜に相対するのです。そこにこそ本当の自由があります。言い換えるなら私たち 人間は真に「神の僕」となるときのみ本当の意味で真に自由な存在になるのです。「神の僕」 ではない生活はたとえどんなに豊かで有意義に見えましょうとも罪に支配された生活にすぎ ません。  旧約聖書・箴言20章9節に「だれが『わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められ た』と言うことができようか」と記されています。いかなる人間も自分自身の「罪」を清める (贖う)力はないということです。「わたしは自分の心を清めた」と言える人間は一人も存在 しないのです。ところが、まさにそう公言して憚らない罪をおかすのが私たちなのではないで しょうか?。つまり私たちの「罪」の本当の姿というものは、人が目で見て「善い」とか「悪 い」と判断できる事柄を超えて、いかなる人間の心の奥底にも自分の力ではどうにもならない “罪の支配”があるということです。まさにそれこそ箴言20章9節に告げられている「わた しは自分の心を清めた」とは言いえないということです。  使徒パウロは自分で自分を勝手に救ってしまう私たちの「罪」を「キリストの死にたまえる を徒になす」自己義認の罪であると語りました。自分で自分の罪を処理しようとすることです。 自分が存在の根拠であろうとすることです。自分が人生の「主」であろうとすることです。た とえ私たちが「自分は生まれてこのかた一度も悪いことをしたことがない」と言い切れる人間 であったとしても「罪」から自由な人間は一人も存在しないのです。キリストを十字架にかけ てまでも自分を「正しい」とする「罪」こそ私たち人間の“罪の本質”なのです。だからいか なる人間も「わたしは自分の心を清めた、わたしの罪は清められた」と公言することはできな いのです。それこそが「義人なし、一人だになし」という御言葉の意味なのです。  これを言葉を変えて申しますと、私たちはみな自分が自分の「王」になってしまっているの です。自分が自分の人生の「主」となっているのです。「キリスト何するものぞ」と心の奥底 では主の御力を見くびっているのです。いざという時に頼りになるものは自分だとどこかで頑 なに思いこんでいるのです。ブルンナーという神学者がこうした私たちの魂の状態を「宇宙論 的な無政府状態」と申しました。古代ギリシヤ人は人間のことを「小宇宙」(ミクロコスモス) と呼びましたが、まだそこには秩序があり中心がありました。しかし現代の私たちにおいては 秩序も中心もなく、あるのはただ一人びとりが「われこそは主である」と公言して憚らない自 称「自由人」の集まりがあるにすぎないのです。それは譬えて言えば、人間の数だけ中心があ る世界と同じなのです。虚無的な宇宙なのです。どこにも救いがない状態になっているのです。 個々の人間がみな「王」であることにより、かえって全てが「罪の奴隷」になってしまってい るのが現代の私たちの状況なのです。しかもなお悪いことにこの“現代人”という名の「王」 は自分の権利や自由を主張するばかりで義務や責任をいっさい果たそうとしません。だから少 しでも自分に都合が悪いことが起ると勝手に「王」であることさえ辞めてしまう。自分に責任 が降りかからず批判が生じない所に器用に逃げてしまいますから、ますます無秩序に拍車がか かり、ついには社会全体が目的を失ってしまう。人間が人間であることの意味さえわからなく なってしまう。そのような悲惨きわまりない状態になっているわけです。  するとどうなのでしょうか。今朝の御言葉に現された狡猾な自己保身に徹するポンテオ・ピ ラトの姿こそ、実は私たち一人びとりの姿ではないのか。自分のほかに「王」はないと堅くな に自分に固執し、自己義認の「罪」に骨の髄まで支配されて全く不自由になってしまっている 私たちの姿がここに現されているのです。それならばまさにそのような私たちに対して主イエ ス・キリストは宣言して下さるのです。これは救いの出来事です。主イエスのみが私たちの「罪」 の現実に対して「あなたの言うとおり、わたしは王である」と宣言して下さる唯一の贖い主な のです。それはこういう意味です。「あなたの言うとおり、わたしは王である」。あなたを支配 している罪の縄目からあなたを解き放つために、私はまことの「王」として、すなわち全ての 人のための「神の僕」として世に来たのだと主は言われるのです。だからこそ主は今朝の御言 葉の中で「わたしは真理についてあかしをするために生れ、また、そのためにこの世にきたの である」と言われました。この「真理」とは全ての人を「罪」から贖い真の自由を与える“福 音の真理”です。「あかしをするため」とは宣べ伝えるため、世に現すため、という意味です。 主イエスは私たちの底知れぬ罪の最底辺にまで身を落として来て下さり、その最底辺である十 字架において私たちの「罪」と死のいっさいを永遠に贖い取って下さったキリスト(救い主) なのです。  今朝あわせてお読みした詩篇145篇の14〜15節にこうありました。「主はすべて倒れんと する者をささえ、すべてかがむ者を立たせられます。よろずのものの目はあなたを待ち望んで います。あなたは時にしたがって彼らに食物を与えられます」。まことに私たちのために十字 架にかかりたもうた主キリストのみが、罪の内に倒れ、かがみこみ、飢えている私たち全ての 者を、慈しみによって支え、平安のもとに立たしめ、生命の御言葉をもって永遠に養って下さ るのです。ここに「よろずのものの目はあなたを待ち望んでいます」とあります。人間は全て 一人の例外もなくこの真の唯一の「王」であるキリストを待ち望んでいる存在なのです。ピラ トでさえ例外ではないのです。現にピラトは主イエスに対して「真理とは何か」と質問を投げ 返しているのです。そのようなピラトにさえ、否、私たち全ての者に、すでに主イエスは告げ ていて下さいます。「だれでも真理につく者は、わたしの声に耳を傾ける」。この「だれでも」 とは“一人の例外もなく”という意味です。真理を求める者、本当の自由と幸いを求める者は、 すでに私の声を聴いて歩んでいる。私はすでにその人に出会っていると主は告げて下さるので す。パスカルはパンセにおいて「汝、心を安んぜよ。もし汝にして我と逢わざりしなば、汝は われを求めざりしならん」と語りました。これはパスカルが聖書において聴いた主の御声です。 私たちが主を訪ね求めるより遥かに先にまず主みずからが私たちを御心にとめ、見いだし、出 会っていて下さるのです。「わたしは王である」との主の御声は、ただその恵みと共にしか聴 きえないものなのです。  まさにその恵みを思いつつ、私たちは第一コリント書14章24節25節を心にとめたいと思 います。そこには教会員みなが「預言をしている」教会に与えられる祝福が告げられています。 この「預言をしている」とは、教会に連なる一人びとりが神の御言葉によって絶えず養われ、 まことのキリストの教会を建てていることです。私たちの群れがそのような主の教会であるな ら、主は約束して下さるのです。「全員が預言をしているところに、不信者か初心者がはいっ てきたら、彼の良心はみんなの者に責められ、みんなの者にさばかれ、その心の秘密があばか れ、その結果、ひれ伏して神を拝み、「まことに、神があなたがたのうちにいます」と告白す るに至るであろう」と。 ここに「責められ、さばかれ、あばかれ」るものとは何か?。それ こそ私たちの罪の中心にある自己義認、自分が存在の根拠であろうとする宇宙的な無秩序の 「罪」のことなのです。それが教会において現臨したもう主イエスの御前に「あばかれ」ると き、もはやその人は自分の「罪」を自分で抱えている必要はなくなるのです。罪あるがままの 自分をその重荷もろとも、キリストの御前に投げ出して生きることができるからです。そこに 本当の解放と自由が与えられます。そしてその人は告白するというのです「まことに、神があ なたがたのうちにいます」と。  まことに、私たちにも主イエス・キリストは尊い救いの御業を現して下さいました。神を離 れて放浪の内にあった私たちの存在を愛の御手の内に捕え、復活の生命を与え、御国の民の喜 びを与えて下さいました。いま私たちは知ります、ここに生ける神の救いの御業が現れている ことを…。その御業の中に私たちの存在と人生全体が新しくされていることを。そして私たち は共に主を讃美し感謝と喜びをもって礼拝者の歩みを続けてゆきます。死したる者が主の贖い によみがえり、教会に結ばれることによって永遠の生命に結ばれ、御言葉の養いのもとに心を 高く上げ、代々の聖徒らと共に主に贖われたる者の幸いの道を、私たちも歩んで参りましょう。