説     教    ダニエル書7章13〜18節  ヨハネ福音書18章36節

「歴史とその救い」

2011・02・20(説教11081365)  新約聖書で「人の子」という場合“神の永遠の御子イエス・キリスト”を意味します。もとも との起源は旧約聖書ダニエル書7章13節以下に記された預言者ダニエルの言葉です。「わたし はまた夜の幻のうちに見ていると、『見よ、人の子のような者が、天の雲に乗ってきて、日の老 いたる者のもとに来ると、その前に導かれた。彼に主権と光栄と国とを賜い、諸民、諸族、諸国 語の者を彼に仕えさせた。その主権は永遠の主権であって、なくなることがなく、その国はほろ びることがない』」。  そこで、ただ単に言葉の上で「人の子」と言うなら、それは単純な言葉です。英語で言えば Son of Manです。ドイツ語ならMenschensohnです。いずれも人間を意味します。言葉自体 は単純そのものです。「人の子」とは「人間」という意味ではないか。「人にすぎない者」という 意味ではないのか。他に解釈のしようがないと思えるほどです。しかし聖書が語る本来の意味で はそれは“神の御子イエス・キリスト”(永遠の主権と光栄と国とを神から賜わったかた)のみ を意味するのです。  私たちは今朝、与えられたヨハネ伝18章36節の御言葉で、ひとつの重要な問いへと導かれ てゆきます。それはローマの総督ポンテオ・ピラト、否、ここに連なる私たち一人びとりに対し て『あなたはどちらの「人の子」としてナザレのイエスを告白するのか?』という問いです。単 なる「人にすぎない者」としてか、それともダニエルが言う「神の永遠の御子イエス・キリスト」 としてか?。その問いこそ大切なのです。その答えいかんによって私たちの人生は決定されるの です。ナザレのイエスをどちらの「人の子」と告白するか、人間か、神の子か、その答えが最も 大切なのです。  ピラトはこの重要な問いに自分が立たしめられていることに気がついていませんでした。むし ろピラトは自分が主イエスを訊問していると思っていたのです。ピラトは被告人ナザレのイエス を裁くローマの総督であり、主イエスはピラトの前に裁きを受ける一人の犯罪人にすぎませんで した。言い換えるならそれは私たちの日常そのものの姿なのです。神の御子イエス・キリストの 御前にただピラトのようにしか立ちえずにいる私たちの姿です。私たちは主イエスの御前に、い つも自分を“罪なき者”としてしまう者なのです。  教会の最も古い信仰告白である使徒信条がポンテオ・ピラトの名を伝えている理由は“主イエ スを処刑したローマ総督”の名を記録する意図からではないのです。そうではなく、その名にこ そ私たち全ての者の「罪」が現れているからです。ピラトは私たち自身の名にほかならないので す。私たちは一人の例外もなく「ポンテオ・ピラトのもとに」というあの文言に自分自身の名を 当てはめてしか使徒信条を告白できないものなのです。  そこで今朝の御言葉であるヨハネ伝18章36節において、主イエス・キリストはピラトにこ う語られました。「イエスは答えられた、『わたしの国はこの世のものではない。もしわたしの国 がこの世のものであれば、わたしに従っている者たちは、わたしをユダヤ人に渡さないように戦 ったであろう。しかし事実、わたしの国はこの世のものではない』」。主イエスがここで言われた 「この世のものではない」とは「この世に属するものではない」という意味です。この世の所属 ではないという意味です。主イエスの弟子たちは、主イエスがエルサレムに入城なさったのはこ の世の王(ユダヤ人の王)となるためだと思っていました。エルサレムの民衆もみなそう思った からこそ主イエスを歓呼の声を上げて迎えました。とりわけ彼らはラザロを墓から甦らせたもう た主イエスの奇跡を聞いていました。そうした奇跡を現されるかたなら、かつてのダビデ王国の 栄光をユダヤに回復して下さるにちがいないと民衆は想い、主イエスを喜び迎えたのです。  ところが、彼らのその期待はわずか数日のちに幻滅に変りました。それは主イエスが弟子のひ とりイスカリオテのユダに裏切られ、何の抵抗もせぬままゲツセマネの園で逮捕されたと聞いた からです。その時を境にして民衆の態度は掌を返したように変りました。主イエスを「ユダヤ人 の王」と思う者は一人もいなくなり、替わって彼らは異口同音に主イエスを「十字架にかけよ」 と罵り叫ぶに至ったのです。この民衆の態度の変化は当然ピラトの耳にも届いていました。だか らピラトは「おまえはユダヤ人の王であるか」と絶対的な優越感をもって主イエスに訊問したの です。それは「そんなはずはないだろう」という問いです。ところが主イエスは全く予想外のお 答えをなさいました。それが今朝の36節です。「わたしの国はこの世のものではない」と主は はっきりと語られた。それはピラトの想像もできない答えでした。ピラトにとって「この世のも のではない国」などなかったからです。そのピラトの思いは続く37節によく現れています。「そ れでは、あなたは王なのだな」とピラトが申したことです。これは直訳するなら「それでもとに かく、お前は王であることは認めるのだな」という意味です。「この世のものではない国」など あろうはずはない。しかしお前が「わたしの国はこの世のものではない」と言うのならそれでも 良い。ともかくもお前は自分がそのありもしない国の「王」であることは認めるのだな? とピ ラトは訊いたわけです。世慣れた上に洗練されたいかにもピラトらしいものの言いかたです。  ポーランドのノーベル賞作家ジェンキェヴィッチの「クォ・ヴァディス」という小説に印象的 な場面が出てきます。使徒ペテロがローマの街を見下ろす丘の上で“さかさ十字架”にかけられ て殉教の死をとげる場面です。ちょうど夕暮れで、丘の上から見るローマは黄金のように光り輝 いていた。ペテロを処刑するため丘の上に集まった人々は一人の例外もなくこのローマこそ永遠 の都でありローマ皇帝の権威が永遠の主権であると確信した。しかし彼らはこの世界の本質を誰 一人として知らなかったとジェンケヴィッチは語っています。「このローマの都が跡形もなく滅 び去ったとしても、永遠に滅びることのないキリストの主権が、すでにこの世界と人類の歴史と を、神のもとに取り戻したのだ」。「神の国」とは「神の御支配」「神の主権」という意味です。 主イエスの御国はまさに「この世のもの」などではなく「神の永遠の主権」そのものでした。歴 史そのものの救いがそこにあります。神から離れ滅びに面していた人類の歴史を新たにし生命を 与えるために主イエスは世に来られ、私たち全ての者の罪を全て担われて十字架におかかり下さ ったのです。私たちはその贖いにより、ただキリストを主と告白する信仰によって、何の価もな きままに「永遠の御国」の民とならせて戴いているのです。  教会は神が御子イエス・キリストによってお建てになった「永遠の御国」の出張所です。私た ちはいまこの世の旅路を歩んでいます。永遠の御国は誰の目にも見える仕方で来ているわけでは ありません。しかし既に私たちの入国手続きは済んでいるのです。天国へのパスポートは出張所 である教会で交付されているのです。入国審査は済んでいるのです。私たちの国籍と所在はすで にこの教会において「神の永遠の御国」にあるのです。このことを使徒パウロはピリピ書3章 20節に「されど我らの国籍は天にあり」と語りました。これは「今すでに、キリストにおいて、 我等の国籍は天にある」という意味です。その確かな保証として主は御父のもとから私たちに聖 霊を賜わった。私たちはすでに教会に結ばれて歩んでいるではないか。キリストのものとされて いるではないか。そのようにパウロは語るのです。  かくも豊かな救いの恵みを主の教会に連なる者として戴いているにもかかわらず、私たちはな おピラトの心を捨てきってはいないのではないか。それはキリストが主であられる神の御国とこ の世の私たちの生活、すなわち目に見える(可視的な)世界を御言葉と区別してしまうことです。 私たちは毎週礼拝のためにこのピスガ台に集まります。主の御名を共に崇め讃美を歌い御言葉に あずかります。しかし礼拝は時間としては終わります。いくら私の説教が長くても午前中には礼 拝は終わるのです。そして私たちは坂道をまた降りてそれぞれの生活へと帰ってゆきます。そう した毎週の歩みの中で私たちはいつのまにか、神に属する「聖なる清い領域」と日常に属する「聖 でなく清くもない領域」とを区別していることはないでしようか。最初のうちはキリストに対し て言い訳をします。「主よ、私にはこの世での生活もあるのです。いつも礼拝の時のような気持 ちで生きるわけにはゆかないのです」。やがてその言い訳はキリストの御力を見くびる自己中心 の思いに変ってゆきます。「主よ、あなたは私の日常生活の、こんなにどろどろとした、醜く汚 い部分には目を背けておられるのでしょう」という身勝手な思いです。するといつのまにか私た ちの心はピラトの心に似て来るのです。私たちもいつのまにかキリストを訊問する側に立ってし まう。御言葉を聴いて生きる生活ではなく、自分の言葉しか聞かなくなってしまうのです。  それならば、私たちは今朝しかと知りたいのです。主は今朝の御言葉ではっきりと「わたしの 国はこの世のものではない」と言われたことを…。もしキリストの御国・キリストの主権がこの 世に所属するものであったなら、私たちは言い訳をせざるをえないでしょう。キリストは聖なる かた、私たちは汚れた者である、そしてその両者には何も接点はないのだと…。私たちはキリス トの御力を侮るでしょう。主よたとえあなたといえどもこんな醜い私には救いの力をお持ちにな りますまいと。現に私たちはそのような罪をおかすのではないでしょうか。いつのまにかピラト になっているのではないでしょうか。  それならば、まさにそのような私たちにこそ主ははっきりとお告げ下さいます。「わが国はこ の世のものならず」と。「この世のものではない」とはこの救いには限界がないということです。 キリストの御国(救いの御業)には国境がないのです。もしあるとすればそれは私たちが勝手に 引いているのです。パウロは「キリストは罪人を救うために世に来て下さったという言葉は、確 実で、そのまま受け入れるべきものである」と語りました。すでに神が最愛の御子を私たちに与 えて下さったという事実、そして御父の御心のままに主は十字架を担われたという事実、その十 字架の恵みによって打ち立てられたキリストの御国(永遠の恵みの主権)のみが歴史を救い私た ちを救う唯一の主権なのです。その御国こそが変ることのない私たちの「天の国籍」なのです。 その「天の国籍」を与えられているからこそ、私たちはこの世の生活と神の御国とを区別する必 要がないのです。  私たちの人生は裏表の2つのチャンネルを持つものではない。私たちは「神と富とに兼ね仕え ることはできない」のです。そうではなく、キリストによっていっさいの罪と死から贖われてい る私たちは、この世界の全体と人生の全体を余すところなく「神の御国」として受継ぐ者とされ ているのです。私たちの日常生活の全てが神の御国におけるかけがえのない歩みとされているの です。なぜならキリストは「この世」を愛し「この世」のために十字架にかかられたからです。 父なる神は「その独り子を賜ひしほどに世を愛したもう」たかただからです。私たちはまことの 主に仕えるとき、もはや「富」(この世)を自分の「主」としません。私たちはただ「神」のみ をわが主と告白することによってのみ「富」を「主」とすることなく、それを正しく用いる者と されているのです。「神と富とに兼ね仕えることはできない」とはそういう意味です。  ペテロは異邦人伝道をためらっていたとき、天使によって「神が清めたもうたものを、汚れて いるなどと言ってはならない」と告げられました。私たちの人生と歴史は主イエスがその救いと 祝福のためにご自分の全てを献げて贖い取って下さったものなのです。むしろ私たちがただ「神」 のみを「主」とするとき、私たちはこの可視的な(目に見える)世界と私たちの人生の全てはあ るがままに「神の永遠の御国」(神の永遠の恵みの主権)に結ばれていることを知るのです。だ から私たちキリスト者は“世捨て人”にはなりません。キリストが生命を献げてまで愛されたこ の世界、またこの世界の歴史の全体を、私たちはかけがえのない祝福として賜わっているからで す。  今日も私たちは、この礼拝を終えたら坂を降りてそれぞれの生活の場へと遣わされてゆきます。 そしてそれこそは、神が御子キリストによって限りない祝福をもって贖い取って下さった私たち の人生そのものなのです。キリストが共におられる歩みなのです。御国の旅路そのものなのです。 そのことをしかと心に留めて勇敢なる信仰の歩みを、主の僕たる者の生活を、心を高く上げて続 けて参りたいと思います。