説     教     詩篇45篇1〜7節   ヨハネ福音書18章33〜35節

「主イエスとピラト」

2011・02・13(説教11071364)  主イエスを十字架にかけることを決めたユダヤ人たちは、主の身柄をローマ総督ポンテオ・ピ ラトに委ねて立ち去りました。人気が無くなった総督官邸の中で主イエスに対するピラトの尋問 がはじまりました。それが今朝の御言葉ヨハネ伝18章33節以下の場面です。そこでこのよう に記されています。「さて、ピラトはまた官邸にはいり、イエスを呼び出して言った、『あなたは、 ユダヤ人の王であるか』」。  「あなたは、ユダヤ人の王であるか」。ピラトがこう訊ねたことには理由がありました。ピラ トのような当時のローマ帝国の高級官僚にとって、ユダヤ総督としてエルサレムに赴任すること は、まさに「労多くして益なき」貧乏籤を引くことでした。今日でもそうですがパレスチナには 数多くの民族や宗教の対立があり一触即発の危険地帯でした。ピラトにしてみればユダヤ総督の 在任期間中どうか面倒な事件や問題に関わらずに済むようにとそれこそ薄氷を踏むような思い だったのです。この嫌な仕事を数年間大過なく務めてとにかく自分の評価を落とさないことだけ がピラトの願いでした。そこに降って湧いたようなナザレのイエスの裁判です。ピラトは悩みま した。この問題の扱いを一歩でも間違えれば、そこには複雑な民族や宗教の問題が絡んでいるだ けにユダヤの民衆全体を敵に回すことになります。ただでさえ難しいパレスチナ問題に新たな火 種を投げこむことになりかねない。ピラトはこの問題に対して慎重にならざるをえなかったので す。  ですからピラトは、できるだけ簡潔かつ穏便にこの裁判を済ませようと考えました。そのため には微妙な宗教問題にはいっさい触れることなく、ただ政治的犯罪人としてだけナザレのイエス を審こうとしたのです。それが「あなたは、ユダヤ人の王であるか?」という尋問に現れたピラ トの意図でした。ピラトにしてみればユダヤ人が信じる神や宗教の問題になど関わりたくなかっ た。しかしこの世の政治の問題となれば別です。もし主イエスが「ユダヤ人の王」であると自称 していたとすれば、それはローマ法における皇帝への反逆罪となり、また民衆を反ローマ運動に 煽った「国家反逆罪」に問うことができるのです。ピラトはこの線でだけ主イエスを裁こうとし たのでした。  そこで、私たち人間にはこうした誘惑が常につきまとうのではないでしょうか。自分にとって 難しい問題を抱えこんだとき、または思わぬ重荷が自分の人生に降りかかったとき、私たちはそ れをできるだけ自分にとって都合の良いことにしようと、勝手な解釈や理屈づけを始めたがるの です。できるだけ自分を傷つけまいとして、他人に責任をなすりつけようとするのです。私たち はそれを無意識にしていることが多いのではないか。これも一種の政治的駆引きです。ピラトが 主イエスに対してしたことと同じなのです。自己保身の本能や欲求に基づく自己絶対化の「罪」 を私たちもおかすのです。私たちも気が付かないうちにピラトになっています。「ポンテオ・ピ ラトのもとに苦しみを受け」と私たちは告白します。この「ポンテオ・ピラト」の名の代わりに 私たちの名前を置くべきなのです。「この私のもとに(私のゆえに)主は御苦しみを受けたもう た」。  この時のピラトには「救い」はありません。同じ意味において、私たちにも「救い」はないの です。人間を人間たらしめるものは政治的駆引きの力学や自己保身の手続きなどではなく、真理 (まことの神)に対する姿勢にほかならないからです。ピラトが見失っていたことはその「まこ との神への関係」でした。彼はナザレのイエスの裁判を自分に都合のよい方向にもって行くこと だけを望み、主イエスがいったいどういうかたであり、どんなことをしたかたなのか、全く訊こ うとはしていません。最初から主イエスに聴く耳を持っていなかったのです。ニーチェという哲 学者は「ツァラトゥストラ」という本の中で「人を裁くことに熱心な人間を、それが誰であれ決 して信用してはならない」と語っています。この時のピラトがまさにその「人を裁くことに熱心 な人間」でした。ピラトにとって自分はイエスを裁く側であり、主イエスは裁かれる側でした。 この構図(力学的関係)を決して変えようとはしなかったのです。  このピラトに対して、主イエスはまことに驚くべきお答えをなさいます。主イエスは神の御子 キリストとしてピラトに神の権威をもってお訊ねになるのです。それが今朝の34節の御言葉で す。「イエスは答えられた、『あなたがそう言うのは、自分の考えからか、それともほかの人々が、 わたしのことをあなたにそう言ったのか』」。  これはピラトにすれば図星を突くまことに鋭い質問でした。実はピラトが主イエスを政治犯と して裁こうと決意したのは、主イエスを訴えた祭司長や律法学者たちとの対話の中でえた妥協の 結論でした。ユダヤ人たちの反感を買うに違いない微妙な宗教的問題に立ち入ることなく、しか も主イエスを十字架にかけるためには、主イエスをローマ法における政治犯に仕立て上げる必要 があったのです。だからローマとユダヤの双方にとって最も無難な罪名を主イエスにつけたので す。すなわち自分を「ユダヤ人の王だと自称している」という「国家反逆罪」でした。ナザレの イエスは民衆を反ローマ運動へと扇動し国家への反逆を企てたとして十字架刑を宣告すること にしたのです。  ところが、その「国家反逆罪」で起訴されたはずの囚人ナザレのイエスが、ユダヤ総督であり 最高権力者であるピラトに対して逆に質問をしたわけです。ピラトが驚き不快に思ったのは当然 でした。しかもその質問は「あなたが私について『お前はユダヤ人の王か?』と訊ねるのは、誰 か他の人から聞いたから訊ねているのか?それとも自分の本心から訊ねているのか?」というこ とでした。もちろんピラトは本心からではなく穏便無難にこの問題を処理したいと思っているだ けでした。しかし彼は部下の手前、総督としての権威を保つためにも今朝の35節のような答え をする必要がありました。すなわち「ピラトは答えた、『わたしはユダヤ人なのか。あなたの同 族や祭司長たちが、あなたをわたしに引き渡したのだ。あなたは、いったい、何をしたのか』」。  つまりピラトはこう言ったのです「訊問しているのはこの私なのだ。お前の生命を奪うことも助 けることも私の酌量次第でどうにでもなるのだ。生命が惜しければ黙って質問に答えるがよい」。 この35節の「あなたは、いったい、何をしたのか」という問いもまた要するに「おとなしく白 状せよ」という命令形の言葉です。実はこれは不可解なことでして、既に主イエスの罪名は決ま っていたわけですから、ピラトにすればあとは黙って十字架にかければ事は済んだのです。しか しローマ法の規定によれば公開の裁判で有罪宣告がされなければ死刑にはできなかった。だから 形式的にこう質問したにすぎない。ここでもピラトがしているのは自己保身の手続きにすぎませ ん。  ここまで読んで参りまして、今朝の御言葉が私たちに語っている事柄は何かと申しますと、そ れはこの世界を世界たらしめ、人間を人間たらしめる唯一のものは、ピラトの側にあるこの世の 権威ではない。そうではなく、主イエス・キリストにのみあるということ。“まことの神の唯一 の福音”にのみ私たちの唯一の救いがあるということです。もしこの世の政治的手続きとして見 るならピラトに全く落度はなく、むしろ私たちはその卓越した政治能力を評価すべきでしょう。 それこそ私たちが喝采する能力なのです。そして世界はこのピラトのような価値観で成立ってい るように見えるのです。ところがそうではない。「さにあらず」と語っているのがまさに今朝の この御言葉なのです。  それは何よりも、主イエスのピラトに対する厳かな問いに現れています。「あなたがそう言う のは、自分の考えからか。それともほかの人々が、わたしのことをあなたにそう言ったのか」。 これは文語の聖書では「これは汝おのれより言ふか、はたわが事を人の汝に告げたるか」です。 この文語訳ほうが原文のギリシヤ語のニュアンスを忠実に伝えています。口語訳で「あなたがそ う言うのは、自分の考えからか」と訳すと単に責任主体云々の問題になりますが、主イエスがこ こでピラトに(いな私たちに)問うておられるのはそのような相対的なことではなく、全ての人 間は決して相対化することのできないかた(主なる神)の前に救いへと招かれている存在なのだ という恵みの宣言であり祝福の約束なのです。いまそれをあなたへの福音として信じるか否かと 主は私たちに訊ねておられるのです。  主イエスは私たちに信仰を求めておられるのです。信仰とは生ける聖なる神の御前に自分を明 け渡すことです。あるがままに神の招きに従うことです。御言葉によって新たにされることです。 もともと「ユダヤ人の王」という言葉は旧約聖書によれば、来るべき神の御子イエス・キリスト のみを現わすものでした。だからロバの子に乗られてエルサレムに入城された主イエスを、人々 はみな旧約の御言葉に従い棕櫚の葉を振りつつ「ホサナ」(今われらを救いたまえ)と叫んで迎 えたのです。「主の御名によりて来る、われらの王に、栄光あれ」と讃美の歌声をささげたので す。何よりもそれは今朝あわせてお読みした詩篇45篇1節以下によく現されています。「わた しの心はうるわしい言葉であふれる。わたしは王についてよんだわたしの詩を語る。わたしの舌 はすみやかに物書く人の筆のようだ。あなたは人の子らにまさって麗しく、気品がそのくちびる に注がれている。このゆえに神はとこしえにあなたを祝福された」。これも文語訳で読んだほう がヘブライ語原文に忠実です。「わが心はうるはしき事にてあふる。われは王のために詠みたる ものを言ひ出でん、わが舌はすみやけく書写(ものかく)人の筆なり。汝は人の子らにまさりて美 (うるは)しく、文雅(みやび)その唇にそそがる。このゆゑに神は永遠に汝をさいはひし給へり」。  ここで特に大切な御言葉は「わが心はうるはしき事にてあふる。われは王のために詠みたるも のを言ひ出でん」とあることです。キリストを待ち望む詩人は告白するのです。そのまことの「王」 が来られる。そのかたが私の、そして全世界の救いのために十字架の主として来られることを思 うたびに、私の心は「うるはしき事にてあふる」と…。そしてこの十字架のキリストの福音を宣 べ伝えずにおれなくなる。いかなる文章も言葉もその恵みを現すには足りない。そのように詩人 は畏れをもって告白しているのです。ただ信じ、御前にひざまずき、アーメンと受け入れるのみ なのです。  私たちを極みまでも愛し、全ての人の救いのために、いっさいを献げて世に来られた御子イエ ス・キリストの御前に、私たちもまた心から讃美と感謝を献げるのみなのです。このキリストの みを私たちのまことの主、永遠の救い主と信じ、告白し、主に贖われた者の群れである教会に連 なるとき、私たちもそこでこそこの詩人と同じように「わが心はうるはしき事にてあふる」る幸 いに生きはじめるのです。毎週の礼拝のたびごとに告白する使徒信条においても、私たちは主が 「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と告白しています。私たちの名前がそこに書かれて いるのです。「うるわしき事」どころではない、自己中心と醜さと罪で一杯の私たちのはずです。 「国家反逆罪」どころではない「神への反逆の罪」をおかしている私たちなのです。  まさにそのような私たちにこそ主イエスは出会われ、語って下さるのです。私たちの救いのた めにこそ主イエスは来て下さるのです。「汝おのれより言ふか」との豊かな恵みの問いをもって、 私たち全ての者の存在と人生を極みまでも愛して下さり、私たちの罪の重みを全て担ってあの呪 いの十字架にかかって下さったのです。その問いは繰返し申しますが「あなたは信ずるか」とい う信仰への主の問いです。「おのれより言ふ」とはそういう意味です。この世界は神の愛したも う世界、キリストが贖いたもうた世界であり、私たちの存在と人生もまたそのキリストの贖いの 恵みのもとにはじめて生きたものになるのです。私たちのあるがままの存在と生活のただ中に、 あの詩篇45篇の詩人が歌った「うるはしき事」(キリストの愛と恵み)が溢れるのです。  そうです。この「うるはしき事」こそ、主が私たちのためになして下さった全ての救いの御業 です。主が私たちの罪のいっさいを背負われ、十字架に死んで下さったことです。ピラトは「あ なたは、いったい、何をしたのか」と訊ねました。しかし本当に彼が訊ねねばならなかったのは 「あなたは、いったい、わたしのために、何をして下さったのか」という問いでした。ただその 問いのみが主イエスに相対する問いたりうるのです。私たちはいま、この主の御前に生きる者と されています。主が贖われた者として生命を担う僕とされています。主はいつも私たちに語って おられます。「汝おのれより言ふか」と…。主が私たちに求めたもうのは、まことの神の愛を知 り、神のみもとに立ち帰る生きた信仰なのです。そのとき私たちにはただ一つの問いしかありえ ません。否ただ一つの福音をそこで聴きうるのみなのです。それは「主よ、あなたは、いったい、 この私のために、何をして下さったのですか?」という問いであり、主の恵みのお答えがいま響 いているのです。「わが子よ、汝の罪、赦されたり」と。