説    教   民数記21章4〜9節  ヨハネ福音書18章28〜32節

「三位一体なる神」

2011・02・06(説教11061363)  教会歴(教会の暦)に「三位一体主日」という日があります。ペンテコステの次の日曜日 のことで、今年はまだ先ですが6月19日がそれにあたります。ドイツなどでは祝日として 公休日にもなっています。われらの主イエス・キリストは十字架において救いの御業をなし 終えられ、復活されて天の父なる神のみもとに帰られました。そして弟子たちに約束なさっ たとおりに父なる神のもとから聖霊をお送りになり、この歴史の中に教会をお建てになった のです。  この教会とは何かと申しますと、父・御子・聖霊なる三位一体にいます主なる神が救いの 御業をなしておられるところです。まことの神は三つにして唯一にいまし、同時に唯一にい まして三つなるかたです。すなわち神は、御父なる神としてこの世界万物と私たちを存在へ と呼び出され、御子なる神として私たちの罪を贖って下さり、そして聖霊なる神として私た ちにキリストを主と告白するまことの信仰を与え、主の教会をここに建て、終りの完成にま で導いて下さるかたなのです。この三位一体なる神の恵みを私たちは今ここに信じ、感謝し、 讃美と栄光を帰する群れとして立てられているのです。  かつて19世紀イギリスの神学者・ジョン・ヘンリー・ニューマンは「三位一体の教理は 合理的ではない」と語った友人に対して答えて申しました「三位一体がわからないのは、そ れが不合理だからではなく、あなたが主イエス・キリストを信じていないからである」。私 たちはまことの主イエス・キリストを信じるとき、同時に三位一体なる神をも告白している のです。「イエスはキリストなり」との信仰告白に生きるとき、私たちは三位一体の教理の 上に信仰生活を築いているのです。  さて今朝の御言葉ヨハネ伝18章28節以下において、いよいよ場面はわれらの主イエス・ キリストの“十字架への判決”が下される局面に入ってゆきます。28節を見ますと「それか ら人々は、イエスをカヤパのところから官邸につれて行った」とあります。「時は夜明けで あった」とあるのは金曜日の明けがたのことです。もうこの日の正午には主イエスは十字架 にかけられたもうたのです。祭司長らは主イエスの処刑を急いでいました。なぜならユダヤ では日没を一日の始めとしていましたので、安息日である土曜日までわずか半日の猶予しか なく、何とかして主イエスの処刑を金曜日の日没までに終える必要があったからです。  そこでこの「夜明け」に彼らが主イエスをつれて行った「官邸」というのはローマ総督ポ ンテオ・ピラトの官邸のことです。ポンテオというのはギリシヤ語で「総督」という意味で すから「ポンテオ・ピラト」で「総督ピラト」という意味になるのです。ここでユダヤ人た ちは「けがれを受けないで過越の食事ができるように」と、官邸の中に入ろうとしなかった とあります。ユダヤ人にとって異邦人であるピラトの官邸に入ることは安息日の前に「けが れ」を受けることでした。だからこのような奇妙な訪問になったのです。いずれにせよピラ トにしてみれば夜明け前の迷惑な訪問者たちに立腹したに違いないのです。しかも官邸の中 には入らずピラトのほうから出てきてくれと願うこの不躾な訪問はピラトを怒らせたこと でしょう。  ですから29節を見ますと「そこで、ピラトは彼らのところに出てきて言った」とありま す。ピラトはこう訊ねたのでした。「あなたがたは、この人(ナザレのイエス)に対してど んな訴えを起すのか」。これがこの不躾な訪問者に対するピラトの質問でした。こんなに朝 早くから騒ぎを起すからには、このイエスなる人物はよほどの悪事を働いたに違いないのだ な?とピラトは訊ねたわけです。これはピラトの痛烈な皮肉でありまして、つまりピラトは 「どんな悪事を働けばこんな夜明けに総督である私を起こすことが許されるのだ?」と訊ね たのです。  かつてドイツにカール・レーヴィットという優れた哲学者がいました。戦前に来日して東 北大学などで教鞭をとったことがある人です。このレーヴィットが「キリスト教的紳士とは 何か」という興味ぶかい文章を書いています。これはヨーロッパ世界とその価値観に対する 痛烈な批判の文章です。レーヴィットはこういうことを言うのです。ヨーロッパ世界におい て最も価値ある理想的な人間像は、いわゆる「キリスト教的紳士」(the christian gentlemen)と言われる人々である。しかし聖書の中にその「キリスト教的紳士」なる人間 が果たして存在するだろうか?。これはユダヤ人でもあったレーヴィットの痛烈なヨーロッ パ批判です。そして物凄いことを言っています。「存在する」とレーヴィットは言うのです。 それは「イエス・キリストでも、その弟子たちでもない」「ヨーロッパ人が好むいわゆる“キ リスト教的紳士”にして聖書に登場する唯一の人物、それはポンテオ・ピラトである」と言 うのです。  つまりレーヴィットによれば、現代のヨーロッパ社会はいわゆる“ポンテオ・ピラト的な 似非キリスト教的紳士”を生み出す社会なのであり、真の“キリスト教的紳士”などはどこ にも存在しないではないかと言うのです。それはヨーロッパ社会だけではないのです。およ そ人間が生きるあらゆる社会において「真のキリストの弟子」が重んじられたことは未だか つてなかった。むしろ人間が重んじてきたのは常に“ポンテオ・ピラト的紳士”ではなかっ たかとレーヴィットは問うのです。今から80年も前に書かれた文章ですが、今でも鋭い光 を投げかけていると思います。もしレーヴィットの言ったとおりであるとすれば、今日の私 たちの社会もまた2000年前のイスラエル社会と同様イエス・キリストに対して「十字架に かけよ」と狂い叫ぶ社会でしかないからです。そしてその私たちはイエス・キリストを十字 架へと追いやる代わりに、ポンテオ・ピラトのような温厚にして常識的な人物を社会の理想 的人間像(キリスト教的紳士)として喜び尊重するのです。  今朝の御言葉の30節を見ますと、人々はピラトに対して「もしこの人(ナザレのイエス) が悪事をはたらかなかったなら、あなたに引き渡すようなことはしなかったでしょう」と申 しています。つまり「どんな悪事を働けば私をこんな早朝に起すことが許されるのだ」と問 うピラトに対して、祭司長らはみな「総督閣下のお怒りはごもっともでございます。されど 私たちはこのイエスなる男が、閣下の安眠をお邪魔せざるをえないほどの悪事を働いたれば こそ、敢えてこのような早朝にご迷惑をおかけした次第です」と申しているわけです。まこ とに洗練された、優雅にして紳士的な対話がここではなされているわけです。  ピラトは自分の立場が尊重されていることに安堵し満足したのでしょう、今度は逆にユダ ヤ人たちをおだてるようなことを言っています。それが31節です「そこでピラトは彼らに 言った、『あなたがたは彼を引き取って、自分たちの律法でさばくがよい』」。つまりピラト は彼らに対して「このイエスなる人物の処罰についてはお前たちの好きなようにするが良い。 私がそれを許可しよう」と申しているわけです。ところが人々はなおもピラトの立場を尊重 するのです。つまり「わたしたちには、人を死刑にする権限がありません」と申すのです。  これは事実そのとおりでした。当時のイスラエルはローマ帝国の植民地でしたから独立し た刑事法の権限を持たず、犯罪人を処罰する法的な権限は宗主国であるローマにありました。 その点ではローマには有名な“ローマ法”と呼ばれる法体系が確立していました。ローマ帝 国は「道路」と「ローマ法」の2つで世界を支配したと言われています。その伝統は今日の 国際法にも受継がれています。だから人々はその偉大なローマ法に基づいてイエスの処刑を 行って下さいとピラトに願ったわけです。自分たちの伝統(旧約聖書の律法)よりもローマ 法のほうを重んじますと恭順の意をピラトにあらわしたわけです。両者ともにどこまでも紳 士的でした。まさに相手の立場を尊重する“キリスト教的紳士”の姿がここに見られるので す。  さて、ここまで今朝の御言葉を読んで参りまして、私たちは改めて気が付きます。ここに は(少なくとも今朝の御言葉においては)主イエスのお姿はピラトと祭司長らとの間で交わ された紳士的な対話(駆け引き)の中にあたかも埋没しているかのごとくではないか。主イ エスのお姿は直接には出てこないのです。むしろここに出てくるのは“ポンテオ・ピラト的 紳士”の姿です。しかしヨハネはそこでこそ32節の大切な御言葉を私たちに宣べ伝えてい るのです。それは「これは、ご自身がどんな死にかたをしようとしているかを示すために言 われたイエスの言葉が、成就するためである」と記されていることです。  あたかも音楽における通奏低音のように、人間が奏でる高らかで軽やかな洗練された紳士 的なソプラノの背後に、厳かな神の御声が通奏低音のように響いていることを私たちは聞き 漏らしてはなりません。それを福音書記者ヨハネは聴き取っているのです。そして私たちに 伝えているのです。この一連の出来事の主人公は祭司長たちでもなければポンテオ・ピラト でもなく、ただ主イエス・キリストであられることを今朝の御言葉は私たちにはっきり告げ ているのです。それではヨハネが見抜いている「イエスの言葉」とは何をさしているのでし ょうか。それこそ同じヨハネ伝8章28節のことなのです。  ヨハネ伝8章28節にはこうあります「そこでイエスは言われた、『あなたがたが人の子を 上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分からは何 もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう』」。この 御言葉には旧約聖書・民数記21章4節〜9節という大切な背景があります。約束のカナンの 地に向かう途中で出エジプトの民は苦しさのあまり「つぶやく」罪をおかしました。(いま 「ツィッター=つぶやき」というのが流行っていますが、あれはおかしいですね。「つぶや く」というのは隠れて人を非難中傷することで、良い言葉ではないはずです)つまり人々は、 神が共におられる荒野の不自由な生活よりも、神が共におられなくても豊かで安定していた エジプトの生活のほうが良かったと「つぶやいた」のです。この罪によって多くの人々が死 にました。私たち人間を人間たらしめるものは物質でも生活の安定でも豊かさでもない、た だまことの神の愛と真実のみが私たちを人格たらしめ人間たらしめるものです。それを忘れ て物質の支配に人生を委ねるとき、そこで人間は「死んだ者」とならざるをえないのです。  この人々に対して、主なる神はモーセにお命じになって「火のへび」を「さおの上にかけ なさい」と言われます。そしてそれを「仰いだ者」のみが死をまぬがれたのでした。実はこ の「火のへび」こそ来るべきキリストの十字架の象徴であったのです。つまり私たちは「罪」 によって「死したる者」であっても、その死の現実の中で十字架の主イエス・キリストを仰 ぐなら(信ずるなら)そこで永遠の生命に甦らされるのです。「火のへび」とはもちろん主 なる神の主権を現す形ではありえません。それと同じように、人々の怒濤のような呪いの叫 びとピラトの権威によって十字架に追いやられたキリストの御姿も、信仰のない者の目には 世界でもっとも悲惨な死をとげたひとりの犯罪人の姿にすぎないのです。  しかし、まさにその比類なき悲惨さこそ、本当は私たち全ての者が主なる神の御前に担わ ねばならなかった罪の結果でした。まさしくその私たちが担うべき罪の結果をことごとく十 字架の主イエス・キリストは引き受けて下さった。身代わりとなって死んで下さった。その かたを仰ぎ信じる者は、もはや罪と死の支配のもとにはいないのです。キリストの復活の生 命がその人のあるがままの全存在を覆って下さるのです。そして神の御前に、神と共に、神 の御言葉の導きの内を、喜びと感謝と讃美をもって生き続ける者とされているのです。いま 私たち一人びとりがそのような生命の恵みのもとに招き入れられているのです。キリストの 十字架の確定は人のなしたるわざでした。しかしその本当の意味は、三位一体なる神のなし たもう世界の救いと祝福の御業=摂理の出来事そのものでした。その福音を今朝の御言葉は 私たち全ての者に伝えているのです。