説     教    ヨブ記30章16〜17節  ヨハネ福音書18章25〜27節

「われ汝を贖えり」

2011・01・30(説教11051362)  「シモン・ペテロは、立って火にあたっていた。すると人々が彼に言った、『あなたも、あの 人の弟子のひとりではないか』。彼はそれをうち消して、『いや、そうではない』と言った」。今 朝の御言葉ヨハネ伝18章25節はこの緊迫した場面をまず私たちに伝えています。場所は主イ エスの裁判が行われた大祭司カヤパの家の中庭でした。十二弟子のひとりシモン・ペテロは裁判 の成行きが心配でひそかに身を隠してその中庭に潜入し、そこにいた兵卒や役人たちと共に素知 らぬふりをして焚火の火にあたっていたのです。  ペテロにしてみれば、他の弟子たちの前で主イエスに対して「たとえあなたと一緒に死なねば ならなくなっても、あなたを知らないなどとは決して申しません」と大見得を切った手前があっ たのです。他の弟子たちはどうであれ、自分は最後まで、たとえ死んでも主イエスの御跡に従う のだという強い決意がありました。だからこそペテロは身の危険をも顧みず敵地潜入を敢行した わけです。  ところが、そのような悲壮な決意のペテロの顔を焚火の炎が容赦なく照らすのです。ペテロに すれば気が気ではありませんでした。すでに中庭に入るところで記憶力の良い女性から「あなた もあのイエスの弟子ではないですか?」と誰何されたばかりでした。しかし隠れていてはかえっ て怪しまれますから、兵卒や役人たちに混じって焚火にあたっていた。そのほうが安全だと思っ たのです。ところが事態は悪いほうに進んでゆきます。焚火にあたっていた人々の幾人かがペテ ロに対して「あなたもあのイエスの弟子のひとのではないか?」と問い質しはじめたことです。  とたんに周囲の人々の視線がいっせいにペテロへと向けられました。ペテロにとっては身の竦 むような瞬間です。じっさいペテロの慌てぶりは「いや、そうではない」と打ち消したその言葉 によく現れています。わざと言葉を濁しぶっきらぼうに答えたのはガリラヤ訛りの言葉を隠すた めでした。当時のユダヤではアラム語が共通語でしたが、エルサレムの標準語とガリラヤの方言 とではずいぶんイントネーションに違いがありました。もし訛りでガリラヤ人だということがわ かれば、ペテロはたちまち主イエスの弟子だということがばれてしまうと恐れたのです。これが ペテロがその夜2度目に主イエスの御名を拒んだ出来事です。  ひとまずはこのペテロの機転によって危険は去ったかのように見えました。ペテロは自分の顔 に一斉に注がれた人々の視線が和らぐのを感じてホッとしたことでした。ところがそこに絶体絶 命の決定的な出来事が起こるのです。それは焚火の向こう側からなおじっとペテロの顔を凝視し ていた一人の人物がいたことです。その人物はじっとペテロの顔を見つめていましたが、いきな りペテロに「あなたが園であの人と一緒にいるのを、わたしは見たではないか」と詰問したので す。26節を見ますと、その人物は「大祭司の僕のひとりで、ペテロに耳を切りおとされた人の 親族の者」であったと記されています。  そうなのです。ゲツセマネの園において主イエス・キリストが兵卒たちに捕らえられたもうた とき、ペテロは隠し持っていた剣を抜いて大祭司の僕マルコスなる人物に切りかかり、その右の 耳を切り落とすという刃傷沙汰を起していました。そのとき主イエスは「なんじの剣を鞘に収め よ。剣を取る者は、剣にて滅ぶべし」とペテロを叱責せられ、そして怪我をしたそのマルコスの 耳に手を触れたもうてその傷を癒されたということがルカ伝22章47節以下に記されているの です。そのペテロに傷つけられたマルコスの「親族の者」が同じ焚火にあたっていた。その人が ペテロの顔を見て言ったのです。「ほかの人の目は騙せても私の目は騙せない。あなたはゲツセ マネでマルコスの右耳を切り落とした下手人である。だからあなたはたしかにナザレ人イエスの 弟子の一人だ」と詰め寄ったのです。  ここに至ってペテロは絶体絶命となりました。もう逃れようがないのです。たちまち周囲は騒 然となり、その騒ぎに気づいた他の人々までもペテロの周りに集まってきました。ペテロは恐怖 と混乱の極致に達し、我を失って慌てて主イエスとの関係を全面否定したのです。他の福音書に よれば、ペテロは神に誓って「ナザレのイエスと自分は何の関係もない」と宣言したとあります。 つまり神に祈って言ったのです「おお神よ、私はあの十字架にかけられる犯罪人イエスとはなん の関わりもありません」と誓ったのです。それが今朝の27節の場面です。「ペテロはまたそれ を打ち消した。するとすぐに、鶏が鳴いた」。  その暁を告げる鶏の声によって、ペテロは想い起こしました。つい数時間前のことです。主イ エスに向かって「たといあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどとは 決して申しません」と申したペテロに対して、主イエスは「よく、言っておく、今日、鶏が鳴く 前に、あなたは三度、わたしを知らないと言うであろう」と言われたことを…。それに対して「そ んなことは絶対にありません」と言いきったペテロでした。「いかなることがあろうとも、自分 は絶対に主イエスを裏切らない」と堅く誓ったペテロだったのです。しかし現実には、耐え難い 恐怖と緊張の中で、気がつけばペテロは3度も主イエスの御名を拒み、主イエスとの関係を全面 否定していたのでした。主イエスの御言葉どおりになっていたのです。  取返しのつかない罪をペテロは犯したのです。神に誓ってまで「あの十字架にかけられる犯罪 人と自分はなんの関係もない」と3度も言い切ってしまったのです。ユダの裏切りは1度でした が、ペテロは3度も主イエスを裏切ってしまったのです。その結果、ペテロは生命だけは助かり ました。しかしそれはもはや抜殻に等しい空しい生命にすぎませんでした。ペテロは自分の人生 が限りない「罪」の支配の下にあることをはじめて知りました。そして他の福音書によれば、ペ テロはその場から外の暗い闇の中に走り出てゆき、誰も見ていないところで声の限りに「泣いた」 「泣き続けた」と記されているのです。  さて、今朝の御言葉において最も大切なことは、ペテロが主の御名を告白することを「打ち消 した」とあることです。1度ならず2度までも「打ち消した」という言葉がここに出てきます。 非常に強い意味の表現です。英語で「イスカリオテのユダ」と言えば“裏切り者”のことです。 しかし実はそれはペテロにこそ相応しいのです。事実聖書はユダについては主イエスの御名を 「打ち消した」とは記していない。それが記されているのはペテロに対してだけなのです。です からヨハネ福音書を虚心坦懐に読むならば、私たちはペテロの「罪」こそイスカリオテのユダよ りずっと大きな裏切りの「罪」であることを知らされるのです。  しかし大切なことはその後です。まさにそのような私たち人間の「罪」の事実のただ中で、こ のユダとペテロという2人の弟子はその後の歩みにおいて、全く違う道を進むことになりました。 2人とも“主イエスを裏切る”という「取返しのつかない罪」を犯しながら、その後の2人の歩 みは全く違ったものになったのです。すなわちユダは自分が犯した罪の結果に自分が責任を取り、 ついにみずからの生命を断つという最も悲しい結末を迎えてしまいました。それに対してペテロ は、ユダよりももっと大きな「罪」を犯しながら、再びキリストの使徒として立ち上がり、初代 教会の指導者としてその後の全生涯を福音宣教のために献げ、世界各地に教会を建て、最後はロ ーマにおいて殉教の死をとげたのです。  この両者の歩みの違いはいったいなにによるのでしょうか?。その答えは今朝の御言葉と同じ 場面を記したマタイ伝26章75節の御言葉にあります。そこにはこう記されています「ペテロ は、『鶏が鳴く前に、三度わたしを知らないと言うであろう』と言われたイエスの言葉を思い出 し、外に出て激しく泣いた」。どうか気をつけて下さい。マタイはペテロが「外に出て激しく泣 いた」のは「主イエスの言葉を思い出し」たからだと記しているのです。言い換えるならペテロ は「主イエスの言葉を思い出す」ことにおいてこそ、みずからを主イエスの恵みの御手に委ねた のです。ペテロの涙は主イエスの御手の中で(御言葉の中で)流されたのです。  これに対して、イスカリオテのユダは違っていました。主イエスを裏切るという取返しのつか ない「罪」を犯したことはペテロもユダも全く同じです。しかしユダはその「罪」の結果を自分 の力で引き受けようとした。人間の力に救いを求めてしまったのです。すなわちユダは銀貨30 枚で祭司長たちに主イエスを売ったことを悔い、その銀貨をそっくり祭司長たちに返そうとした のです。「わたしは、罪なきおかたの血を流す罪を犯してしまいました。いまこの銀貨30枚を 返しますから、どうかわたしの犯した罪を赦して下さい」と願ったのです。それに対する祭司長 らの答えは実に冷酷極まりないものでした。「それは我々の知ったことか、お前の好きなように するがよい」と言われたのです。それはユダにとって絶望の宣言でした。絶望したユダはついに 自らの「罪」の重みに耐え切れず、銀貨30枚を神殿の聖所に投げ棄てて、みずからの生命を断 つという最も悲しい結末を迎えてしまったのです。  私たちはここに何を見るのでしょうか。ペテロの魂もユダの魂も、みずからが犯した「罪」を 悔いる涙の中で砕けたのです。砕けし魂の重みは同じなのです。自分という存在にからみつく罪 の重荷、その重荷を支えるものが何ひとつない状態に置かれたという点では両者の間に少しの違 いもありませんでした。では違っていたのは何だったのでしょうか?。それは砕かれた魂が何に 向かって注がれたかというその方向でした。何に救いを求めたかにありました。人にであったか、 イエス・キリストにであったかです。ユダの悔改めは人間に向けられました。それゆえユダの魂 は絶望に向かって砕けてしまったのです。人間には「罪」を贖ういかなる力もありません。自分 の罪さえ背負えないのが人間なのです。その人間にすぎない祭司長らにユダは罪の赦しを求め、 その結果、罪の赦しではなく審きだけを与えられ、ユダは絶望せざるをえませんでした。ユダの 魂は絶望に向けて砕かれてしまったのです。取返しのつかない罪を贖い存在を取返して下さる神 にではなく、取返しのつかない罪に絶望と呪いと審きしか宣告しえない人間のもとに、ユダは自 分の心を注いでしまったのです。神に対してではなく人間に救いを求めてしまったのです。  ペテロはそうではありませんでした。ペテロが犯した「罪」の大きさはユダを上回るものでし た。しかしペテロはただ主の御言葉のみを思い起し、主の御言葉の中で「激しく泣き続け」まし た。ペテロは人間にではなく、神の御子イエス・キリストの愛と赦しの御手の中に、ただその御 手の中にのみみずからの全てを委ねたのです。「罪」によって砕かれた魂の全てを主イエスの御 手に委ねたのです。それこそペテロが「イエスの言葉を思い出した」と記されていることです。 そして、ただキリストに向けて注がれたペテロの砕けた魂を、キリストはことごとく御手に受け 止めて下さいます。その涙のひとつさえも軽しめられることなく、ただ主イエスのみがその全て を受け止め、赦し、真の悔改めと新しい生命へと導いて下さるのです。  人間にではなく主イエスに砕かれた魂を注いだペテロは、その日の鶏の鳴き声と果てしない涙 の記憶と共に主への感謝と讃美に生き続けました。その夜、どこにも救いがない果てしない闇の 中でペテロは古き自分に死に新しいキリストの生命に甦らされました。あの鶏鳴の瞬間こそペテ ロの復活の時でした。その夜の記憶にペテロは感謝しつつ、全生涯をキリストの僕として勇気と 感謝をもって生き、真のキリストの証人たる生涯を歩みぬいたのです。バッハのコラールにある ように「目覚めよと呼ぶ声」にペテロは自分の全てを委ねたのです。  私たちもそのような者としてここに召されています。主の教会に連なり、御言葉に共にあずか り、聖霊によっていま現臨しておられる主イエス・キリストの恵みにあずかる者とされているの です。私たちにも肉体のみならず魂をも覆う深い闇が訪れることがあります。ペテロのような暗 い闇の経験を私たちも持つことがあるのです。しかしその中にあってこそ私たちはただキリスト に砕かれた魂を注ぎます。人にではなくただ主の御手に自分を委ねます。そこでこそもはや私た ちは方向を失うことも、進むべき道に迷うことも、自分をも他人をも審くこともないのです。主 の御名を拒む「罪」に支配され、主の御顔を忘れて人の力に頼る罪は、主が贖い取って下さった からです。「目覚めよと呼ぶ声」が私たちのもとに響いているのです。「恐るるなかれ、われ汝を 贖えり」と宣言したもう十字架の主がいま私たちと共におられるのです。