説    教   イザヤ書54章9〜10節  ヨハネ福音書18章15〜18節

「ペテロ主を否認す」

2011・01・16(説教11031360)  東京駅の近くにある石橋美術館に「ペテロの否認」という題の小さな油絵があります。17 世紀オランダの画家レンブラントの作品です。長いあいだオランダ王室の城を守る夜警の兵士 の姿を描いたものと思われていました。しかしそれは聖書の中の「ペテロの否認」の場面を描 いたものだということが最近の研究でわかったのです。この絵の第一印象は背景が深い闇に包 まれていることです。そして画面の中央には鎧に身をかためた兵士が立っており、その左側に ペテロと思われる人物が怯えるように佇んでいます。兵士はペテロに向かって何か話しかけよ うとしているようにも見えます。いずれにせよそれはありふれた夜の一場面です。しかしペテ ロにとってそれは生涯忘れえぬ出来事となったのでした。  ペテロは主イエスがピリポ・カイザリヤにおいて十字架の出来事を予告なさったとき、主イ エスの袖を引いて「主よ、とんでもないことです。さようなことがあってはなりませぬ」と諌 めた弟子です。またマタイ伝26章31節以下を見ますと「よくあなたに言っておく。今夜、鶏 が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われた主イエスに対して、 ペテロはすぐに「たとえあなたと一緒に死なねばならなくなっても、あなたを知らないなどと は、決して申しません」と言いました。他の弟子たちもみな「同じように言った」と記されて いるのです。  だからペテロには、たとえ死んでも主イエスに従って行くのだという強い決意と義務感があ りました。他の若い弟子たちの前で恥ずかしい姿を見せられないという思いもありました。そ れでペテロは他の弟子たちが恐れ尻込みしている中をたった一人で、捕縛された主イエスの後 をつけて大祭司カヤパの邸宅に侵入したのです。このカヤパという大祭司は同じ18章の14節 によれば「ひとりの人が民のために死ぬのはよいことだと、ユダヤ人に助言した者であった」 と記されているのです。  つまりカヤパという人物はたいへん政治的な人間でして、パリサイ人とサドカイ人との宗教 的対立という構図の中で、ユダヤの民衆を分裂させることなく、かつ宗主国であるローマ帝国 の威信も保たせるためには、民衆の中から一人の者をローマに対する反逆罪で告訴し有罪とし 処刑することが全体の利益につながるのだと助言をしたわけです。このカヤパの邸宅の中庭で 行われた主イエスの裁判が「最初に結論ありき」の見せかけの法廷であったのは当然でした。 カヤパはどんな手段を用いても主イエスを十字架にかけようと決めていたのです。神に対する 反逆の罪という、本来は私たち人間が負うべき最も重い罪名を主イエスただお一人に覆いかぶ せることによって民全体の利益をはかろうとしたのです。  実はそれは最も深い意味において、旧約聖書のキリスト預言の成就でした。しかしもちろん そのことにはカヤパもアンナスも気が付きませんでした。彼らを覆っていたのは単に夜の闇だ けではなかったからです。「罪」という名の真の暗黒が彼らの(そして私たちの)存在を覆い 尽くしていたのです。真の暗闇の中にいる人間は自分の姿さえ見えません。それと同じように 主イエスを取巻く全ての人々は自分自身さえも見えていませんでした。正義は自分にあり「罪」 は主イエスにあると信じこんでいたのです。神の独り子を「罪」に定めてまでも自分の側に真 理があると主張して止まなかったのです。そこにこそ私たち人間の罪の姿があります。「罪」 とは神を無にしてまでもおのれを富ませようとすることです。  「われは在りて在るものなり」と語りたもうた神を無にしてまでも自分を義としようとする ことです。自己栄化・自己神格化こそ私たちの罪の本質です。この罪のもたらす底知れぬ闇の 中にペテロも呑みこまれそうになりました。義侠心や少しばかりの勇気など「罪」の闇の前に は何の力も持ちえないのです。試練は思いがけないところからペテロを襲いました。今朝の15 節を見ますと「シモン・ペテロともう一人の弟子とが、イエスについて行った。この弟子は大 祭司の知り合いであったので、イエスと一緒に大祭司の中庭にはいった」と記されています。  この「もう一人の弟子」が誰であったかはわかりませんが、おそらくもと取税人であったマ タイではなかったかと思われます。マタイだけが大祭司カヤパやアンナスと顔見知りであった からです。マタイはいわば「顔パス」で主イエスの弟子だということは隠してカヤパの邸宅の 中庭に入ったのです。ではペテロはどうであったかと言いますと、ペテロは中に入ることまで はできず、最初は「外で戸口に立っていた」のです。しかし16節にあるように「大祭司の知 り合いであるその弟子が、外に出て行って門番の女に話し、ペテロを内に入れてやった」とあ るように、おそらくマタイの口利きによってペテロも中庭に入ることができたのです。  ペテロにとっての試練はまさにそこで起りました。その門番の女性がペテロの顔を見るや否 やいきなり「あなたも、あの人の弟子のひとりではありませんか?」と話しかけてきたことで す。この女性にしてみれば「どこかで見たことのある顔だ」と思ったのでしょう。こういう女 性の記憶力は強いです。ですからこの彼女の誰何によってペテロはたちまち動転してしまうの です。すぐに「いや、そうではない」と答えてしまうのです。続く18節によれば「僕や下役 どもは、寒い時であったので、炭火をおこし、そこに立ってあたっていた。ペテロもまた彼ら に交じり、立ってあたっていた」とあります。冬のエルサレムは夜には摂氏5度ぐらいになり ます。それで暖を取るために焚火がおこしてありました。その焚火にペテロも素知らぬ振りを して「立ってあたっていた」のです。  今朝の御言葉はここまでですが、同じ18章25節以下にその場面の続きがあります。焚火に あたっていたペテロの顔を炎が容赦なく浮かび上がらせるのです。するとそこにいた大祭司の 僕たちや下役たちまでも「あなたも、あの人の弟子のひとりではないか」と訊いてきたのです。 ペテロは再びそれを否定して「いや、そうではない」と言いました。すると3度目に決定的な ことが起ります。ゲツセマネでペテロによって剣で切りつけられ右の耳を削ぎ落とされたマル コスの「親族の者」がその場にいたのです。そして「あなたが園であの人と一緒にいるのを、 わたしは見たではないか」と捲し立てたのです。「お前はマルコスの耳を削ぎ落としたヤツだ ろう。隠したって無駄だ、俺はお前の顔を覚えているのだぞ」と詰め寄ってきたわけです。  もはや万事休すです。ペテロは3度とも「それを打ち消した」のですが、するとすぐに主イ エスが言われたとおり「鶏が鳴いた」のでした。暁を告げる鶏鳴が響いたのです。ペテロはそ れを聴いて「今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うであろう」と言われ た主イエスの御言葉を思い起し、外に出て激しく泣いたと他の福音書は記しています。レンブ ラントが描いた場面はまさしく、その鶏鳴が響く瞬間を捉えたものでした。  さて、私たちは今朝のこの御言葉からいかなる福音を聴き取るのでしょうか。第一に、私た ち人間の「罪」は測り知れない夜の闇にもまして底知れぬものであるという事実です。それな らば、その底知れぬ罪の暗黒のただ中にこそ主イエスは「十字架の主」として私たちのもとに 来て下さった救い主なのです。前者は人間の真実であり、後者は神の真実です。つまり私たち 人間の真実は、私たちが主なる神の前に測り知れぬ罪人であり、使徒パウロの言う「滅びの子」 であるという真実あるのみです。この真実に立たない人間理解は全て幻想にすぎません。譬え て言うならそれは沈みつつある船の中で優雅に食事を楽しんでいるようなものです。自分が歴 史と共に神なき滅びへと沈みつつあるのに、私たちはその歴史の中で楽しみを求め安逸を貪り 自分の欲するまま放蕩息子のように「自由だ」と錯覚して生きているのではないでしょうか。 まさに主なる神は御子イエス・キリストによって、私たちをその歴史と共に救いたもう唯一の 救い主なのです。沈みつつある歴史という船をその根底から支え、決して沈むことのないよう にされるために、神は愛する独子を世にお与えになったのです。  第二に、福音書記者はどうしてヨハネもマタイもマルコもルカも、この「ペテロの否認」と いう恥ずかしい(忌まわしい)夜の出来事を敢えて隠さずに記しているのでしょうか?。私た ち人間は誰しも恥ずかしい過去は隠したいものです。しかも使徒ペテロはこの福音書が記され た時代には、初代教会のために目覚しい伝道者のわざをなし、最後にローマで殉教の死をとげ た人として知られていました。信仰の生涯を最後まで貫いた本当のキリストの弟子であった、 そのペテロの言わば恥ずかしく忌まわしい「暗い夜の記憶」をどうして福音書記者たち(また キリストの弟子たち)は隠そうとしなかったのでしょうか?。  その答えはただ一つだと思います。それは彼らが、ただ主なる神のみを畏れて人を恐れては いなかったからです。それはキリストの弟子たち全てに共通する信仰による新しい生活です。 ただ主なる神のみを畏れ人を恐れない。私たちはどうでしょうか。私たちはキリスト者たる恵 みを与えられていながら、神を畏れる前に人の顔を怖れてはいないでしょうか。今朝の場面の ペテロがそうでした。ペテロはキリストと共に死ぬ覚悟だと豪語しながら、結局は神ではなく 人の顔を怖れてしまったのです。だから一人の女性の追及にさえ底知れぬ恐怖を感じ「いや、 あの人のことは何も知らない」と主を否認してしまった。自分と主イエスとは何の関わりもな いと答えてしまったのです。  私たちもそれと同じ罪を犯すのではないでしょうか。日常生活の中で、あるいは近隣や職場 関係の中で、私たちはともすると人の顔のみを恐れ、神を畏れていないことがあるのではない か。真の神を知らないで生きる生活とは、別の言いかたをするなら“この人生は汚点だらけの 生きる価値のない人生だ”と決めざるをえないことです。自分は取返しのつかない恥を晒し汚 点を付けてしまった。もう駄目だ。そう言ってうなだれ自暴自棄になり、自分をも他者をも審 いて生きるほかはなくなるのです。またはその逆に、人と自分を比較して自分は清く正しい者 だと自惚れ、あのパリサイ人のように自分で自分を義とする罪をおかすのです。  私たちが本当にキリストに贖われた新しい生を生きるとき、私たちの存在と生活は根底から 変わるのです。ただ主なる神のみを畏れ人を恐れない新しい生活、それは“この人生にいかに 大きな汚点があっても、主なる神はその私をあるがままに招き、救い、新たにして下さる救い 主である”この福音を知る者の喜びの生活が始まるのです。神は御子イエス・キリストによる 変らぬ真の新しさを私たちに与えて下さるかたです。私たちは何度でも主の御手によって立ち 上がれるし、何度でも主の恵みによってやり直せるのです。主イエス・キリストが私たちと共 にいて下さり、私たちの底知れぬ罪を贖い、招いていて下さるからです。私たちの罪の底知れ ぬ暗闇の、そのさらにどん底にまで主イエスは来て下さったのです。そこで私たちの全存在を かき抱くようにしてご自身のものとして下さり、絶望に伏す者を立ち上がらせ、新しい生命に 甦らせて下さるのです。  今朝のペテロの姿こそ私たち自身にほかなりません。キリストを3度も裏切るという取返し のつかない「罪」を犯したのはペテロではなく私たちです。しかしキリストはまさにその、取 返しのつかない底知れぬ罪から私たちを贖い出し、救って下さるために十字架におかかりにな ったのです。そのとき私たちにとっても「あの暗い夜の闇」は、主の測り知れない愛と恵みと 招きによって照らされているのです。この主にのみ私たちの変わらぬ救いと自由と幸いがある のです。