説    教   イザヤ書51章9〜11節  ヨハネ福音書18章10〜14節

「御心をなしたまえ」

2011・01・09(説教11021359)  主イエス・キリストがオリブ山の中腹のゲツセマネにおいて、祭司長やパリサイ人らが遣わ した兵卒たちによって捕らえられたときのことです。それまでことの成行きを見ていた弟子の ペテロが突然、隠し持っていた剣を抜いて「大祭司の僕に切りかかり、その右の耳を切り落」 とすという予想外の出来事が起こりました。この出来事によってその場にいた人々は緊張の極 致に達したのです。  今朝、拝読しましたヨハネ伝18章10節によれば「その(ペテロに耳を切り落とされた)僕 の名はマルコスであった」とあります。「マルコス」つまり「マルコ」という名の兵卒の耳を ペテロは剣で削ぎ落としてしまったのでした。人間の耳は怪我をすると意外にたくさん血が出 るものです。マルコスの耳から流れた鮮血を見て、たちまち仲間の兵士たちは興奮し叫びまし た。一触即発の事態になりました。  まさにその両者の緊張のただ中に、主イエスの厳かな御声が響いたのです。11節の御言葉で す「すると、イエスはペテロに言われた、『剣をさやに納めなさい。父がわたしに下さった杯 は、飲むべきではないか』」。ルカ伝22章51節によれば、主イエスはそれからマルコスの耳に 手をお触れになり、その傷を癒したもうたと記されています。またマタイ伝26章52節によれ ば、主イエスはペテロに対して「あなたの剣をもとの所におさめなさい。剣をとる者はみな剣 で滅びる」と言われたのでした。  主イエスがここで、ペテロなどの弟子たちに言われた最も大切なことは「父がわたしに下さ った杯は、飲むべきではないか」ということでした。主イエスは天の父の御心のままに十字架 への道を歩もうとしておられます。ご自分の全てを献げきっておられるのです。だから主イエ スを捕縛するため武器を携えて来た人々に対しても黙ってご自分を委ねたまいました。彼らの 暴虐を平然とお受けになり、それこそ「父がわたしに下さった杯」であると言われたのです。  すでにその主イエスの御思いは、あのゲツセマネの祈りに現されていました。主イエスはゲ ツセマネ(オリブ絞りの場所)と呼ばれる園において、血の汗を流されて私たち全ての者のた めに祈りを献げて下さいました。ご自身の歩みをゴルゴタの十字架に向けて定めて下さいまし た。そこで「アバ、父よ、できるならば、この杯をわれより取り去りたまえ。されどわが思い にあらで、御心のままになしたまえ」と祈られたのです。私の思いではなく、父よあなたの聖 なる御心のみが成りますようにと、全世界の「罪」のために執成しの祈りを献げて下さったの です。  私たち人間はいつも、自分を富ませることや自分を喜ばせることだけを熱心に追い求めてい ます。そこに例外はありません。ベンサム流に言うなら社会の目的は「最大多数の最大幸福」 にあるのです。こうした価値観を常識としている私たちには主イエスの御言葉が他人事のよう に聞こえるのではないでしょうか。そうすると私たちは本当の人生の基盤を持つことができな いのです。祝福された生命の喜びに生きえなくなるのです。もし人生の幸福が「最大多数の最 大幸福」にあるのなら、自分はいつもその「多数」の外側にいることになるからです。これに 対して聖書は明確に「神の招きによる新しい生命と人生」を私たちに示します。  いまは茶道の初釜の季節ですが、裏千家の家元に伝わる国宝の茶碗は、安土桃山時代に安南 (今のベトナム)からもたらされたものです。しかしその茶碗はもとはベトナムの農民たちが ご飯を盛る名もなき瀬戸物にすぎませんでした。それはいつ国宝になったのでしょうか?。そ の茶碗を千利休が見出し選び取った瞬間に国宝になったのです。天下に双びなき名宝になった のです。それなら神と私たちとの関係においてはなおさらではないでしょうか。私たちは神の 御前に罪人であり滅ぶべき存在にすぎません。しかし神はその私たちを救うために御子キリス トを世に与えたもうた。言い換えるなら、御子キリストにおいて私たちを永遠の生命へと選び 招いて下さったのです。本当の愛(神の聖なる愛=アガペー)は価値を奪い取るのではなく、 価値なき者に真の価値を与える永遠の愛です。その神の愛によってのみ、私たちは人生の揺る ぎなき基盤と祝福の生命を持つ者とされるのです。  それは既にこの礼拝に反映されているのです。礼拝のことをドイツ語で“ゴッテスディーン スト”と言います。これには2つの意味があります。第一は「神に対する私たちの奉仕」。第 二は「私たちに対する神の救いの御業」です。大切なのは第二の意味です。私たちは無条件で なんの値もなきままに御国の民(天の国籍を持つ者)とされたのです。「かけがえのないあな た」として御前に生きる者とされたのです。それを決定的に現わすものが礼拝です。この礼拝 は主イエス・キリストの十字架の贖いの恵みの上に成り立っているものなのです。それはさら に具体的には、今朝の御言葉の中に最も確かな答えがあるのです。それは「父がわたしに下さ った杯は、飲むべきではないか」と言われ、黙って十字架への道を歩んだ下さった主キリスト の恵みの上にこそ、礼拝という出来事は成り立っているのだということです。  私たち人間には自分なりの主イエスへの従いかたがあります。それは必ずしも悪いことでは ありません。しかしときに私たちは、主イエスを捕吏の手から守ろうとして剣を抜いたペテロ のような“自分中心の従いかた”をしてしまうのではないでしょうか?。主イエスに対する忠 実さという意味で言うなら、剣を抜いたペテロにも道理があったかもしれません。「黙ってイ エス様を渡すわけにはいかない」という義憤に駆られたのです。他の弟子たちもみな「わが意 を得たり」と思ったかもしれません。「ペテロよ良くやった。剣には剣で対抗するほかないの だ」と…。  しかしそれは、ペテロの思いに従うことであって、主イエスの御心に従うことではありませ んでした。ペテロは自分の意のままに行うことが主イエスに対する従順であるかのごとく思い 違いをしたのです。いわばペテロは「主よこんな杯を飲んではいけません」と主イエスに言っ たのです。それはあのピリポ・カイザリヤにおける出来事と同じでした。あの時もペテロは、 主イエスがご自分の身にやがて起こる十字架を予告なさったとき、主イエスの袖を引いて「主 よそんなことがあってはなりません」と諌めたのでした。そのとき主イエスはペテロに対して 「サタンよ引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ。あなたは神のことを思わずに人のことだけ を考えている」と仰せになり、主の弟子たる真の道をお示しになったのです。  私たちはここに敢えてひとつの問いを持ち出すことができるでしょう。私たちは病気や止む をえない事情を除いて「この一度の礼拝ぐらい休んでもかまわない」と自分で判断できるほど 強く賢く完全な存在なのでしょうか。私たちは自分の魂に責任を持ちうる存在なのでしょうか。 自分の存在を自分で支えうる存在なのでしょうか。そうではないと思うのです。私たちにとっ て毎週毎回の礼拝こそ“かけがえのない”一期一会の礼拝であり、キリストの尊い御招きでは ないでしょうか。私たちは主イエスのために剣を抜いても、主イエスの十字架からは逃げてし まう者ではないでしょうか。それならば何度でも今朝の主の御言葉に立ち帰らねばなりません。 主は言われました「汝の剣をさやに納めよ。父が我に給いし杯は飲むべきなり」と。  現代人に共通する最大のキーワードは「自己実現」だそうです。いかにして社会の中で自分 をアピールし表現するか。自分を社会的な価値ある存在として伸ばしてゆくかに人生の意味が あると一般社会は考えています。私たちにもそういう価値観を持つようにと促す社会です。す るとその反面、社会的に見て自己実現が少ないと思われる人、社会貢献度の少ない人は、人間 としても価値がない存在だと決めつけられてしまうのです。それに対して私たちキリスト者は どう在るべきなのでしょうか?。もちろん社会的な貢献も意味があります。自己実現が間違い なのではありません。しかし私たちキリスト者にとっては、人生の唯一の「主」は自分でも社 会でもなく、十字架の主イエス・キリストであります。人生の目的は自己実現にあるのではな く、神の御心が成就することにあるのです。キリストの御心が実現することにあるのです。  アウグスティヌスが言うように、人間は全て神の造りたもうたものなのですから、神に立ち 帰るまでは真の平安と幸いを得ることはできないのです。キリストの御心が実現することにこ そ、あらゆる人間にとって真の意味での自己実現があるのではないでしょうか。それは多様化 し、細分化し、分裂してゆく自己実現ではなく、一致し、ひとつ思いになり、共にキリストの 御業のために祈りを合わせ、励んでゆく、新しい生きかたを生み出すものです。  教会はよく“ノアの箱舟”に譬えられます。ノアの箱舟はキリスト教会の旧約における「し るし」です。そのノアの箱舟には世にある全ての人々が招かれています。人間である限り招か れていない人は一人もいないのです。しかしそれが一個の船であるならば、歴史の大海の中を 永遠の港をめざして航海してゆくことには多くの困難が伴います。そこで最も大切なことは、 乗組員一同の心がいつもひとつになっていることです。大牧者であられ船長であられる主イエ ス・キリストの御心にいつも従順な群れ(クルー)になっていることが大切なのです。もし船 の中で幾つもの自己実現が対立し、自分が中心になったとしたら、それこそ「船頭多くして船 丘に登る」という結果になるのです。私たちはこの歴史の荒波の中で、唯一の船長なる主イエ スの御心にいつも従うクルーであらねばなりません。なにより主イエス御自身がはっきりと言 われました。「汝の剣をさやに納めよ。父が我に給いし杯は、飲むべきなり」と!。そして主 はこうも言われました。「わたしが語る言葉は、わたしから語るのではなく、父がわたしのう ちにあって語っておられるのである。わたしが世になすわざは、わたし自身のわざではなく、 父がわたしの内にあって、御業をなしておられるのである」と。  主イエスは「わが思い、わが業」ではありません。ただひたすら父なる神の御言葉、父なる 神の御業をなしたもうたのです。それなら主イエスの弟子である私たちはなおさらではないで しょうか。礼拝者として毎主日ごとの礼拝に養われ、これを重んじ、生活の中心となし、社会 に在っても家庭においても、わが思いの実現することではなく、主イエス・キリストの御心が 成就し、キリストの恵みが世に現され、キリストの愛と祝福が世に現れることを喜び誇りとす る、そのような新しい生活へといよいよ私たちは進んで参りたいと思います。