説    教   エレミヤ書31章38〜39節 ヨハネ福音書18章3〜9節

「神に向かう新年」

2011・01・02(説教11011358)  主イエス・キリストはエルサレムを一望するオリブ山にある“ゲツセマネの園”という場所 で、祭司長やパリサイ人らが遣わした兵卒や役人たちに捕縛されました。その理由は、主イエ スが民衆に対して自分を「神の子」であると称し、自分を神と等しい者にしているというもの でした。神を侮辱し神の神聖を汚す罪によって、主イエスは逮捕されたのです。  これは意外な事ではないでしょうか。主イエスは神の御子であられ、神を誰よりも知ってお られるかたです。その主イエスがなぜ神を聖冒した罪に問われて十字架にかけられることにな ったのでしょう?。神にいちばん近いたかたが、いちばん大きな神への罪に問われたのです。 矛盾と言えばこれほどの矛盾はないでしょう。言い換えるなら、こうしたありえないほどの矛 盾を現実にしてしまうほど、私たちの「罪」は大きなものなのです。神の御子イエス・キリス トを、神を汚す者として十字架に送ってしまうのが私たちの「罪」の姿なのです。  それならば、今朝の御言葉に記されたゲツセマネの園における主イエス捕縛の場面こそ、ほ かならぬ私たちの「罪」の現れではないでしょうか。18章3節以下を見ますと、まずイスカリ オテのユダが先頭に立ち「一隊の兵卒と祭司長やパリサイ人の送った下役どもをひきつれ、た いまつやあかりや武器を持って、そこへやってきた」とあります。彼らの出で立ちは物々しい ものでした。まるで戦争でも始めるのかと思われるほどです。主イエス一人を捕らえるのにか くも重装備で来た理由は、彼らが恐れにとりつかれていたからでした。  それは主イエス御自身に対する怖れではなく、むしろ主イエスを取巻く人々に対する恐れで あり警戒心でした。彼らは主イエスを取巻く人々により、逆に自分たちが危害を加えられはし まいかと恐れたのです。神の御言葉や神の権威を怖れるのではなく、人間の数と人間の力を恐 れていたのです。そこにも私たちの罪の姿が示されています。真理には人間の権威が伴うはず だと錯覚することです。そのようにして本当に大切なものを私たちは見失ってしまうのです。  ところがこのように、数には数を、力には力をもって対抗せねばならないと思っていた彼ら にとって、実際にゲツセマネで目にした光景は驚くべきものでした。それは4節にあるように 「しかしイエスは、自分の身に起ろうとすることをことごとく承知しておられ、進み出て彼ら に言われた、『だれを捜しているのか』」とあることです。これは文語で読むならば『誰を尋ぬ るか』という主イエスのご質問です。普通の人なら逮捕され十字架につけられそうになれば必 死で逃げるはずです。しかし主イエスはみずから「進み出て」彼らに『誰を尋ぬるか』とお問 いになるのです。  この信じられない事態に、さすがの彼らも心底から驚き戸惑いました。その驚きの大きさが 続く5節の御言葉に現れています。すなわち「ナザレのイエスを(捜しているのだ)」と答え た彼らに対して、主イエスが「わたしが、それである」と言われたと同時に「彼らはうしろに 引きさがって地に倒れた」とあることです。この「わたしが、それである」という主イエスの お答えは、ギリシヤ語で「われこそはそれなり」という意味の“エゴー・エイミー”という言 葉です。  これは「われは道なり、真理なり、命なり」と言われる場合の「われは……なり」と同じ表 現です。旧約の出エジプト記3章14節において、主なる神がモーセに御自身を示して言われ た「われは在りて在るものなり」に相当する大切な御言葉です。ただ神と等しいかたのみが用 いることができる言葉です。しかし彼らが「引きさがって地に倒れた」のはこの御言葉の権威 に打たれたからではなく、むしろ彼らは予期に反して、主イエスご自身が進み出てこられたこ とに驚き恐れたのです。  驚く彼らに主イエスが再び「だれを捜しているのか」とお問いになると、彼らはまた「ナザ レのイエスを」と答えました。それに対して主イエスは再度「わたしがそれであると、言った ではないか。わたしを捜しているのなら、この人たちを去らせてもらいたい」と仰せになりま した。この「この人たち」とは十二弟子のことをさしています。そしてそれは、9節によれば 「『あなたが与えて下さった人たちの中のひとりも、わたしは失わなかった』とイエスの言わ れた言葉が、成就するためであった」というのです。  この主イエスの御言葉は、同じヨハネ伝の17章12節のことをさしています。すなわち主イ エスがあの“決別の祈り”において「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた 御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼らのうち、だれも滅びず、ただ滅び の子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」と祈られたことです。それはさら に旧約聖書の詩篇41篇9節の御言葉に基づいているのです。それは「わたしの信頼した親し い友、わたしのパンを食べた親しい友さえも、わたしにそむいてきびすをあげた」と記されて いることです。  ここに私たちは「わたしの信頼した親しい友、わたしのパンを食べた親しい友さえも」とあ ることに心をとめたいのです。私たちは日常生活の中で、信頼していた人から裏切られるよう な目に遭ったとき、怒りと絶望感に囚われるのではないでしょうか。相手を許せないと思うの ではないでしょうか。しかしそのように人間関係で自分が受けた傷に敏感な私たちが、主イエ スに与えた御傷に対しては驚くほど鈍感なのです。私たちのまなざしもまた、今朝の御言葉に 出て来る武器を携えた「兵卒」たちと同じように、神の御言葉ではなく人間の数と力にしか注 がれていないのではないか。私たちも彼らと同じように、主イエスに手をかける以前から「地 に倒れ」てしまっている者たちなのではないでしょうか?。  それならば、主イエス・キリストはまさしくそのような私たちのために、十字架への道をま っすぐに歩んで下さいました。なによりも今朝の御言葉において、主イエスは私たち一人びと りに問うておられます。「だれを捜しているのか」(誰を尋ぬるか)と。新しい年を迎えました。 私たちはこの年、いったい誰を尋ねて歩むのでしょうか。この「尋ねて」という字は「向かっ て」という意味です。つまり主イエスは私たちに「あなたはいま、誰に向かって歩んでいるの か」と問うておられるのです。  この主イエスの厳粛な問いに対する彼らの答えは「ナザレのイエスを」というものでした。 「ナザレのイエスという名の男だ」と答えたのです。ここには「キリスト」という言葉は一度 も出てきません。つまり彼らにとって主イエスはキリストではなく、ただの人間に過ぎなかっ た。神聖冒涜の罪を犯した犯罪人に過ぎなかったのです。  私たちはここに、いかなる人間の「罪」を見るのでしょうか。それはまさしく、すでに神の 御子イエス・キリストを「ナザレのイエス」としか見ていないことで、みずから「地に倒れ」 てしまっている人間の姿ではないでしょうか?。幹から離れた葡萄の枝のように、生命と祝福 の源である真の神から離れ、肉体の生命以外の本当の生命を失ってしまっている現代社会の 人々の姿がここに現れているのです。「誰を尋ねているのか」と問われて答えうる人が一人も いない社会です。それは「なぜ生きているのか」と問われて答えうる人間が一人もいないとい うことです。自分の存在を支える基盤のない根無し草の人生になってしまうのです。  そのような私たちに対して、主イエスは幾度でもお問いになって下さいます。「誰を尋ぬる か」と!。あなたは「誰に向かって歩んでいるのか」と!。そして最も大切なことは、そのよ うに問いたもう主イエスみずから、たった一人で私たちに出逢って下さるということです。つ まりキリストは私たちの側の条件が整っているから出会って下さったのではないのです。ユダ にも兵卒たちにも祭司長らにも、キリストに出会う相応しさ(信仰)は無かったのです。無い から武器を携えて来たのです。  しかし、そのような彼らにも、否、そのような彼らだからこそ、主イエスはたったお一人で 出会って下さるのです。「あなたは、誰に向かって歩んでいるのか」と問うて下さるのです。 主イエスと共にパンを食べた者ですら叛いて「踝を上げる」あらゆる罪の現実の中で、ただ主 イエスお一人だけが生命の御言葉をもって私たちに出会って下さるのです。みずからの罪の重 みによって「地に倒れ」るほかない私たちを、主イエスの御声だけが立ち上がらせて下さるの です。そこに主イエスの無条件の聖なる招きがあります。それは「あなたは、私に向かって歩 む者になりなさい」という御招きです。  主イエスはいま、黙って捕縛の手におかかりになります。少しの抵抗もなさらず、彼らのな すがままに委ねたまいます。十字架への道をまっすぐに歩みたもうのです。実にそのことが、 私たちと全世界に対する、主イエス・キリストの限りない救いの御業であり祝福の基なのです。 神を見るまなざしの無いところに信仰のまなざしを与え、地に倒れた人々に立ち上がる生命の 御言葉を与え、どこに向かって歩むべきか知らないでいる全ての人々に、歩むべき唯一の道で ある御自身をお与えになるのです。  この主イエス・キリストの恵みの御業が、私たちのあらゆる不信仰と罪に勝利しているので す。倒れるほかない私たちの存在を覆い尽くして下さっています。今すでにこの教会において、 主の復活の御身体なるこの教会において、私たち一人びとりが、主の与えたもう永遠の生命に あずかって生きる者とされているのです。ここに、私たちを生かしめ、祝福し、導いてやまぬ 新しい一年の主の御手があります。感謝と喜びをもって、主に向かって歩んでゆく私たちであ りたいと思います。