説    教    詩篇23篇1〜6節   ヨハネ福音書18章1〜2節

「ケデロンを越えたもう主」

2010・12・26(説教10521357)  今朝の御言葉には「ケデロンの谷」という聞きなれない地名が出てきます。もっとも御言葉 そのものはむしろ単純明快で、時間を追った日記のような表現になっています。すなわち「イ エスはこれらのことを語り終えて、弟子たちと一緒にケデロンの谷の向こうへ行かれた。そこ には園があって、イエスは弟子たちと一緒にその中にはいられた。イエスを裏切ったユダは、 その所をよく知っていた。イエスと弟子たちとがたびたびそこで集まったことがあるからであ る」とあることです。  この御言葉を読むかぎり、私たちはここに単純な事実が時間を追って並んでいるのを見るだ けです。主イエスは最後の晩餐ののち17章の祈りを終えられた後で「ケデロンの谷」を越え てある「園」の中へと歩みを進めたもうた。その「園」とはもちろん“ゲツセマネの園”のこ とです。その場所(ゲツセマネの園)はイスカリオテのユダもよく知っていた。なぜなら「イ エスと弟子たちとが、たびたびそこで集まったことがあるからである」と言うのです。  それでは、今朝の御言葉はいかなる福音を私たちに告げているのでしょうか?。それを解く 鍵は「ケデロンの谷」という地名にあるのです。しかも主イエスがこの「ケデロンの谷の向こ うへ行かれた」と記されていることです。  「ケデロンの谷」とは、エルサレムを囲む城壁の外側に、北から南東に向けて走る長さ5キ ロにもおよぶ谷の名前です。ヘブライ語で「暗い谷」という意味の“キデロン”という言葉に 由来しています。この「ケデロンの谷」は北から南東に向けてかなりの急勾配で下り、いちば ん下は“ヒンノムの谷”と呼ばれる大きな谷に合流しています。ですから「ケデロンの谷」の ことを「ヒンノムの谷」とも呼びました。実はこの“ヒンノムの谷”こそ“ゲンヒンノム”つ まり「地獄の消えない火」を意味する「ゲヘナ」という言葉の語源になったのです。  そこには歴史的な謂われがありました。かつてアッスリヤによってエルサレムが滅ぼされた とき、このヒンノムの谷に城壁の上からおびただしい死体が投げ捨てられたのです。そればか りでなくアッスリヤの神々に子供たちを殺して生贄にするという異教の儀式が行われたので す。これを旧約の預言者たち、特にエレミヤは最大の罪として非難しそこを「虐殺の谷」と呼 びました。数百年のちの主イエスの時代になっても、なおその場所は誰も近づかない汚れた場 所として忌み嫌われていたのです。  つまり「ケデロンの谷」はおぞましい「ヒンノムの谷」すなわち「地獄の消えない火」(ゲ ヘナ)の象徴である恐ろしい死の谷として、人々が避けて通る場所になっていたのです。私ご とですが私は約20年前このケデロンの谷を歩きました。谷の入口にダビデを裏切ったアブサ ロムの墓があります。そこから先はかなり急な傾斜になってヒンノムの谷まで降りてゆきます。 今でも荒れすさんだ淋しい場所です。谷を降りてしばらく行くと主イエスが目の不自由な人を 癒されたシロアムの池があります。私が行ったときには池の周辺にはパレスチナ難民のバラッ クが建っていました。私が珍しかったのでしょうか、大勢の子供たちが出てきて「どうしてこ んな所に来たの?」と訊きながら、私をシロアムの池に案内してくれたことを思い出すのです。  しかし主イエスの時代にはもちろん、このケデロンの谷に住む人などは誰もおらず、それこ そ名前のとおり荒涼とした暗い死の谷でした。ですから主イエスがその「ケデロンの谷」を渡 って、向こう側のオリブ山に行こうとなさったこと自体が弟子たちにとっては大きな驚きだっ たのです。どうしてイエス様はわざわざそんな汚れた恐ろしい谷を通ろうとなさるのか?。弟 子たちはみな驚き不思議に思ったに違いないのです。  弟子たちは、かつて主イエスがガリラヤに行かれるために、敢えて誰も通りたがらない忌み 嫌われたサマリヤをお通りになったことを思い出したでしょう。あそこでも福音書記者ヨハネ は「しかしイエスは、サマリヤを通らねばならなかった」と記しています。この「ねばならな かった」という特別な表現はギリシヤ語で、主イエスの歩みをただ主なる神が導いておられた ことを現わしています。主なる神のなされる恵みの必然が主イエスの歩みを導いていたのです。  そこで、主イエスは今朝のこの場面においても、同じ神の恵みの必然において歩みを進めた もうたのです。主イエスは「ケデロンの谷」を「通らねばならなかった」のです。それはなぜ でしょうか?。それは主イエスの歩みが私たちの(また全世界の)罪の贖いのための十字架を 指しての歩みであったからです。だからこそ主イエスは暗い死の陰の谷である「ケデロンの谷」 を「通らねばならない」と心にお定めになったのです。誰もが恐れ、忌み嫌い、避けようとす る“暗い死の影の谷”を、主イエスは避けたまわなかったのです。  顧みて、私たちはどうでしょうか。私たちは自分に都合の良いことや利益になること、楽し いことや嬉しいこと、誉められたり評価されることは進んで受け入れようとしますが、その逆 に、自分に都合の悪いことや損になること、辛いことや悲しいこと、貶されたり評価されない ことは、できるだけ避けて通ろうとするのではないでしょうか。そしてその最大のものが「死」 であると思うのです。私たちは自分がやがて死ぬべき存在であることを知っています。しかし 知っていながら、見ぬふり知らぬふりをしているのが私たちなのです。  その結果、私たちはパウロが語るように、生きながらにいつも死の影に脅え捕えられた生活、 罪と死に支配された生活を続けているのです。つまり「死」が本当に恐ろしいから、できるだ け見ないで過ごそうとするのです。自分にとって最大の不利益ですから死を避けようとするの です。しかし死は確実に私たちを捕えます。いま現に私たちを存在ぐるみ死が虜にしています。 その結果、私たちは「死んでも死にきれない」悔いを残すのです。それはたった一度の人生が 最初から最後まで死に支配されたものであったという悔いです。本当の生命に生きえなかった という悔いです。  そしてその悔いの本当の姿(本質)は何かと言えば、突き詰めて言うならば全ての人間の内 側にある「罪」に対する後悔の念に由来しているのです。大切な人生の日々をついに本当の生 命(まことの神)を知らずに過ごしてしまったという後悔の念は、私たちの人生全体をいつし か「死の陰の谷」(ケデロンの谷)に変えてしまうのです。ただ自分の利益や幸福だけを追求 して生きる人生の虚しさとそれは似ています。しかもその虚しさに気が付いた時には“既に時 遅し”なのです。  そう考えますと、実は私たち人間ほど矛盾した存在はないのです。私たちは幸福をえようと して、ますます本当の幸福から遠ざかってゆくのです。魂の故郷である真の神を離れたところ に幾ら幸福を築こうとしても、それは「死の陰の谷」(ケデロン)を歩むだけの虚しい歩みな のです。私たちはいかに自分を喜ばせるかが“幸福の条件”だと考えています。しかし人間に とって本当の“幸福の条件”はいちばん大切な「罪」の問題の解決なくしてありえません。「罪」 の贖いなくして、私たちには本当の幸福も自由もないのです。  私たちは今朝の御言葉において、主イエス・キリストの限りない愛と恵みにこそ、自分の人 生の全てを委ねることを求められ、また招かれています。“幸福の条件”はいかに自分を喜ば せるかではなく、真の神に立ち帰り神の愛の内を歩むことにあるのです。そのためにこそ、今 や私たちの主イエス・キリストは「ケデロンの谷」を渡りたもうのです。ご自分の平穏無事や 幸福を少しも求めたまわず、却ってご自分のいっさいを私たちの「罪」の贖いとして献げる十 字架の道をお選びになるのです。全ての人が忌み嫌い避けて通ろうとする「死の陰の谷」を、 ただ主イエスだけが歩んで下さるのです。このことは、主イエスが私たちのために完全な死を 死なれたことの現です。かつて私たちの友愛会でバルトの『教義学要綱』を学んだときに改め て心にとめたことがあります。それは主イエスは“その向こう側に復活ということが決してあ りえないほどの完全な死を死なれた”かただということです。主イエスは私たちの罪の贖いと して、私たちのために、完全な死を死なれたかたなのです。  それは「罪」の結果なる滅びとしての永遠の死です。本来は私たちの誰もがそれを自分で受 け止めねばなりませんでした。それは私たちにとって永遠の滅びを意味します。その私たちに 代わって神の御子イエス・キリストみずから、私たちの身代わりとなってその「永遠の滅びと しての死」を十字架において死んで下さった。そのためにこそあのベツレヘムの馬小屋にお生 まれ下さったのです。この主イエスが身代わりとなって十字架に死んで下さったことにより、 私たちはもはや主に贖われた者として、主の教会に堅く結ばれた者として、今ここに全ての罪 と死の束縛から解放されているのです。“幸福の条件”を主が十字架によって整えて下さった のです。真に自由な僕とされているのです。かつては罪と死の虜にすぎなかった私たちの存在 と生活が、今や御降誕と十字架のキリストによって、まことの生命の喜びを生きるものとされ ている。キリストの生命に預かる者とされている。それが私たち共通の喜びとなり幸いとなっ ているのです。  ケデロンの谷の向かう先はゲヘナの消えない炎です。しかしその全てを焼尽くす炎が意味す る永遠の死の中へと、主イエスはご自分の歩みを進めて下さいました。私たちのためにケデロ ンを越えて下さいました。その道の向こうにはゲツセマネの祈りがあり、ゴルゴタの十字架が 立っています。主は十字架にかかられ、死して葬られたもうために、私たちの救いのためにお 生まれになったのです。キリストの十字架の死だけが“永遠の死に勝利する唯一の贖いの死” (ルター)です。主は私たちを新たな永遠の生命に生かしめるために、そして全ての人々をそ のまことの生命に招いて下さるために「ケデロンの谷」を越えて下さいました。  その恵みを最も生き生きと語るのが今朝のこの御言葉です。私たち一人びとりがいまその恵 みに共に豊かにあずかっているのです。この福音に生きる僕として新しい年を迎えようとして います。私たちはいま「ケデロンを越えたもう主」の恵みによって、新しい主の年2011年へ と年越しをしようとしているのです。その恵みに喜んで生きる私たちでありたいと思います。