説    教  出エジプト記3章13〜14節  ヨハネ福音書17章25〜26節

「主の御名によりて」

2010・12・12(説教10501354)  今日の御言葉ヨハネ伝17章25節26節には、十字架を目前にされての主イエスの、私たち のための祈りが記されています。すなわち主イエスは私たちのためにこう祈られたのです。「正 しい父よ、この世はあなたを知っていません。しかし、わたしはあなたを知り、また彼らも、 あなたがわたしをおつかわしになったことを知っています。そしてわたしは彼らに御名を知ら せました。またこれからも知らせましょう。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛 が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」。  ここに主は「わたしは彼らに御名を知らせました」と祈られました。この主イエスの祈りは 十字架において実現した救いの恵みです。この「御名」とは唯一真の神の御名であり、私たち はその神にただキリストによって出会うからです。だから最初に主イエスは「正しい父よ」と 呼びかけておられます。この「正しい父よ」とは“全ての人を罪から救う唯一の権威ある真の 神”とう意味です。もともとのギリシヤ語では“パテル・ディカイエ”というひとつの言葉で あり、これは直訳すると「義なる父よ」という呼びかけになります。  今から約150年前、アメリカ長老教会の宣教師(ヘボン、ブラウン、フルベッキ)によって わが国にキリスト教が伝えられ、やがて1872年(明治5年)に「横浜基督公会」が設立され ました。その頃の礼拝指針を見ますと「礼拝」という言葉はまだキリスト教用語として定着し ておらず、「礼拝」は「神を呼ぶこと」と言いあらわされていました。それは旧約の出エジプ ト記12章7節に「アブラムは彼に現れた主のために、そこに祭壇を築いた。彼(アブラハム) はそこからベテルの東の山に移って天幕を張った…そこに彼は主のために祭壇を築いて、主の 名を呼んだ」とあることに基づいています。この「主の名を呼んだ」とあることこそ「礼拝」 のことなのです。主に贖われ救われた民の御言葉による喜びの応答が「礼拝」なのです。  このように、私たちの教会ではその歴史の最初から「祈りの生活」を「礼拝の生活」として 理解していました。個人の祈りの生活は教会の礼拝を中心にしてはじめて成り立つからです。 正しい礼拝の生活こそが正しい祈りの生活を生み出すのです。そしてその根源はどこにあるか と申しますと、それこそまさに今朝の主イエスの御言葉にあるのです。主イエスみずから「正 しい父よ」すなわち「義なる父よ」と父なる神の御名を「呼んで」おられることです。つまり 「祈り」とは「神の御名を呼ぶこと」であり、それが「まことの礼拝」であるということを、 主イエスみずから明らかにして下さったのです。  それならば、祈りにおいて主イエスの弟子である私たちは、この喜びと幸いにいつも生かさ れているのではないでしょうか。私たちは「祈り」と聞くと個人的なものと考えがちです。た しかに家庭において、職場において、ひとりで祈る祈りの生活はとても大切です。しかしそれ ゆえにこそ私たちはいつも「祈りの生活」が「まこと礼拝」を中心としたものになっているか どうか問わねばなりません。言い換えるならそれは、私たちの祈りがいつも「神の御名を呼ぶ」 幸いに満たされているかどうかということです。  なによりも主イエスが祈られた今朝の「正しい父よ」(義なる父よ)という最初の25節の意 味は「私たちを真に生かしめ祝福する救い(私を支える義)は、ただ父なる神にのみある」と いう信仰告白なのです。つまり「正しい父よ」とは「私たちは正しくない汚れた者であるが、 父なる神のみはいつも正しいかたである」というだけの意味ではないのです。人間と神との正 しさの比較などではないのです。そうではなく、「私たちを真に生かしめ祝福する救い(私た ちを存在の深みから支える唯一の義)は、ただ父なる神にのみあるのだ」という信仰告白なの です。比較対象の問題ではなく、私たちの「救い」はいつもただ父なる神にある、という絶対 の神信頼の祈りなのです。これを主イエスご自身が私たちのために祈られたのです。  それはなぜなのでしょう?。主イエスは永遠の昔から父なる神のまことの独子であられ、あ えて「正しい父よ」と祈る理由などないはずです。答えは25節のすぐ後に「この世はあなた を知っていません」と主が語っておられることにあります。ここで主が言われる「この世」と はまさに私たち全ての者のことです。私たちこそ父なる神を知らず、また神に叛いていた自分 の罪さえ知らなかった存在でした。言い換えるなら私たちは「神の御名を呼ぶ」ことを知らず にいた存在でした。私たちは“神の御名”そのものを知らず、「神を呼ぶ」ことを知りえずに いたのです。  私は生まれて初めて教会の礼拝に出席した日の驚きと喜びを、今でも昨日のことのように鮮 明に覚えています。高校2年生の4月のある寒い日のことでした。その日、思い切って詰襟の 学生服姿で私は教会の扉を潜りました。そこではじめて礼拝を経験し牧師先生の説教を聴きま した。いちばん驚いたことは(あたりまえなのですが)主イエス・キリストの父なる神こそ「ま ことの神」であると宣べ伝えられ、その「まことの神」に対して祈りが献げられていたことで した。私は途方もない祝福の世界の入口がそこにあると確信しました。本当の救いがここにあ ると感じました。礼拝が終わって教会からの帰り道、早く次の日曜日が来ないかと楽しみで仕 方がなかった。覚えたての讃美歌を忘れないうちに頭にたたきこみました。ひと月に一度ずつ 聖書の通読をしました。私の聖書はたちまち線や書き込みで真っ黒になりました。繰り返し申 しますが、何といってもいちばんの驚きであったことは、まことの神の御名を呼ぶ幸いに目覚 めたことです。「主イエス・キリストの父なる神よ」と祈る者にされたことです。  私たちはそのままでは“神の御名を知らないで”いるほかなく、自分の側から(自分の努力 や経験や知恵で)神に出会う道を持ちえない者です。その私たちのために主イエスみずから「正 しい父よ」と祈り切って下さいました。私たちに「私に繋がっていればよい」と生命の祝福を 告げて下さいました。あなたは自分で神を見いだせない。しかしあなたはただ私に繋がってい れば良いのだ。私に結ばれた人は神に堅く結ばれているのだ。あなたは私の愛の内にあるのだ。 そのように主ははっきりと語って下さいます。人間を真に人間として健やかに生かしめ、真の 自由と平安を与え、日々を神の愛の内に祝福に支えられつつ勇気をもって生きる者として、主 イエスは私たちをまさにご自身の執成しの祈りの中で新たにして下さったのです。神の御名を 知ることなく生きていた私たちを「神を呼ぶ者」として甦らせて下さったのです。  私たちはただ神の御子イエス・キリストによって、真実に“神の御名を知る”者とされてい るのです。主は言われました「わたしは道であり、真理であり、命である」と!。この「道」 も「真理」も「命」もみんな単数形です。つまり主イエスは信じる全ての者にかけがえのない 唯一の「道」と「真理」と「生命」を与えたもうかたなのです。だからこの単数形はただ文法 上の問題ではなく“かけがえのないあなたのために”という意味での単数形でもあります。主 イエスにとってどうでもよい人間は一人も存在しません。全てがかけがえのない唯一の存在で あり、神の限りなく愛したもう唯一の人格なのです。  この世界における人間の根本的な矛盾や悲惨は、私たち人間が絶対的なものを絶対的なもの とせず、逆に相対的なものを絶対化しているところに原因があるのです。それは「まことの神」 と私たちの「罪」という絶対的な唯一の問題を「どうでもよい」相対的なものにしてしまい、 逆に経済や仕事や政治や国家という相対的な問題を絶対的なものにしてしまっていることで す。そこから、人間の存在という“かけがえのない”絶対的な価値をも相対的なものにしてし まう歪を生み出すのです。かけがえのないものを「どうでもよいもの」にする罪を犯すのです。 逆に、相対化して扱うべき事柄を絶対的なもののように錯覚するのです。そのような本末顛倒 した価値観が現代社会を蝕んでいるのです。  その根本原因はいちばん基本的なところ、造り主なる父なる神との関係において、人間が“か けがえのない人格”として確立されていないことにあります。「まことの神を呼ぶ」幸いに生 きていないことによるのです。(私はよくやるのですが)洋服と同じで最初のボタンをかけ違 えると最後までおかしくなってしまうのです。まず神との正しい関係が確立されてはじめて、 人間が人間として本当に重んじられる社会が成り立つのです。私たち個々の生活においても 「まことの神を呼ぶ」「まことの礼拝」に根ざしてのみ、健やかな人間関係が作られてゆくの です。  聖書において「神の名を知る」とは、その名をもって呼ばれる「まことの神」がいつも私た ちと共にいて下さることです。そして私たちは知るのです、その「まことの神」が私たちとこ の世界をどんなに深く愛して下さるかたであるか。だから「神の御名を知る」私たちは応答と して「礼拝」を献げます。神を「知る」とは神を信じることです。そして神を信じるとき、私 たちは神の愛の内にある自分を新しく見いだすのです。そのとき私たちは他の人々をも、神が 限りなく愛しておられる“かけがえのない人格”として新たに見いだします。「神の御名を知 る」ことが根源的な意味であらゆる健全な人間理解の基礎になるのです。神の救いと愛と祝福 を知るとき、私たちはどんなに大きな勇気と平和をもって世の旅路に出て行くことでしょう。  主イエスはまさに、全ての者のために今朝の祈りを、十字架を目前にして献げきって下さい ました。26節です「そしてわたしは彼らに御名を知らせました。またこれからも知らせましょ う。それは、あなたがわたしを愛して下さったその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼ら のうちにおるためであります」。主イエスは神を知りえずにいた私たちのもとに「まことの神」 そのものとして世に来て下さいました。主イエスは神の御子ですから主イエスを見た者は父な る神を見、主イエスを信じる者は父なる神を知るのです。ですから「まことの神を呼ぶ」こと にまさる私たちの幸いと自由と平安はないのです。私たちを限りなく愛し、私たちを「罪」か ら贖うためにご自分のいっさいを献げ尽くして下さったかた、十字架にかかられて贖いとなっ て下さったかた、主イエス・キリストを通してはじめて、私たちはまことの神を知り信じる者 とされたのです。そこに私たちの新しい生命と生活が始まってゆくのです。  今朝の御言葉の最後、26節の終わりに主イエスは「それは、あなたがわたしを愛して下さっ たその愛が彼らのうちにあり、またわたしも彼らのうちにおるためであります」と祈られまし た。主はいま新たに、永遠の昔から父・御子・御霊なる三位一体なるまことの神の内にあった 永遠にして完全な愛の交わりのうちに私たちを招いていて下さいます。そのための確固たる保 障として、主は教会をお建てになりました。私たちは主の教会に連なり、礼拝者とされ、御言 葉を聴きつつ生きることによって、何の価もなきまま、無条件で、あるがままに、三位一体な る永遠の神の愛の交わりの内を歩む者とされるのです。それが全世界に対する救いの約束であ り、私たち全ての者に対する祝福なのです。そして私たちはいよいよ来週、喜びのクリスマス を共に迎えるのです。