説    教    詩篇33篇20〜22節   ヨハネ福音書17章24節

「十字架なる栄光」

2010・12・05(説教10491353)  主イエス・キリストは、私たちのために絶えず祈られ、十字架の道をまっすぐに歩んで下さ いました。この十字架の主イエス・キリストの祈りに支えられてのみ、私たちの信仰生活があ るのです。その意味で今朝の御言葉ヨハネ伝17章24節はとても大切です。すなわち主イエス はこのように祈られるのです「父よ、あなたがわたしに賜わった人々が、わたしのいる所に一 緒にいるようにして下さい。天地が造られる前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わっ た栄光を、彼らに見させて下さい」。  さて、この24節は2つの部分から成り立っています。まず前半では主イエスは、私たちが いつも主イエスのおられる所に「一緒にいるようにして下さい」と祈っておられます。そして 後半では、主イエスの創造以前からの「栄光」を彼ら(私たち)にも「見させて下さい」と祈 っておられます。この2つの祈りはいっけん別々の事柄のように見えますが、決してそうでは なく、むしろこれがひとつの祈りであるところに大きな意味があるのです。  まず前半の祈りに心を留めて参りましょう。この前半の祈りの主旨は、主イエスが私たちを 「わたしのいる所に一緒にいるようにさせて下さい」と父なる神に執成しておられることです。 その“私たち”とは「あなたがわたしに賜わった人々」つまり父なる神が主イエスにお与えに なった人々のことです。具体的に申しますなら、主イエスをキリストと信じて教会に連なった 全ての人々のことをさしています。  しかし、より深くこの御言葉を味わうとき、決してそれだけの意味ではないということに気 がつきます。つまり、今ここでイエスをキリストと告白して教会に連なっている私たちのこと だけをさしておられるのではないのです。もともとこの17章の祈りの全体、ひいてはヨハネ 福音書全体を通して観るなら「御父が主イエスに賜わった人々」とは実は全世界の“全ての 人々”をさしていることが明らかだからです。つまり主イエスは、今ここに連なっている私た ちをも含めて、世にある全ての人々のために執成しの祈りを献げておられるのです。  同じヨハネ伝の14章の冒頭に、主イエスは「わたしの父の家には、すまいがたくさんある」 と言われました。そして14章の2節と3節には「わたしは……あなたがたのために場所を用 意しに行くのだから。そして、行って、場所の用意ができたならば、またきて、あなたがたを わたしのところに迎えよう。わたしのおる所にあなたがたもおらせるためである」と語ってお られます。特にこの最後の御言葉は今朝の17章24節の御言葉と全く同じ表現です。どちらも 「わたしのいる所にあなたがたも一緒にいるように」と主イエスみずから私たちのために祈ら れたのです。  私たちの信仰の歩みは「いつもキリストと共にあること」であり、そこに私たちの本当の幸 いがあり自由と平和があります。それこそ私たちの信仰生活の理想だと言えるでしょう。たと えば私たちは信仰に一筋に生きた先達を偲ぶとき「あの人はいつもキリストと共にあった人 だ」という言いかたをします。「あの人はいつもキリストと共にあった人だ」そう語るとき、 私たちの心は神への讃美と感謝に満たされます。今は天に召された人々を通して神の恵みを讃 美することこそ、私たちキリスト者に与えられた全てにまさる慰めであり喜びです。  しかし同時に、私たちはそのようなとき、こういう思いも抱くことがないでしょうか。それ は「たしかにあの人はいつもキリストと共にあった。しかし私はそうではない」という忸怩た る思いです。そして実はこの「しかし」以下の本音の部分こそあんがい私たちの心を支配して いるのではないか。たしかに「いつもキリストと共にあること」は信仰生活の理想です。しか しそれは理想であって、それを実現できる人は限られた恵まれた人だけなのだ…。私たちはそ う思ってはいないでしょうか。自分は「いつもキリストと共にある」人間どころか、弱さと汚 れに満ちた存在だ。こんな自分は救われるのだろうかと、疑心暗鬼たる私たちなのではないで しょうか。  実は、そうした私たちの思いはしばしば、信仰の生涯を全うした人に対する屈折した思いに 現れることがあります。「あの人が立派な信仰の生涯を全うできたのは、環境や家庭や伴侶に 恵まれていたからだ」そういう思いです。そして案外そこで私たちがひそかに思う御言葉は、 主イエスが語られたあの「種まきの譬え」なのです。ある人が種を播くために出ていった。播 かれた種はいろいろな場所に落ちます。ある種は道端に、またある種は土の薄い石地に、また ある種は茨の中に落ちた。そういう種はみんな、鳥に啄ばまれたり、芽が出たけれど枯れてし まったり、または幾らか成長してもついに実らぬまま萎れてしまったりしたわけです。よく肥 えた畑の上に落ちたいわば“恵まれた種”だけが、成長して実を結び「三十倍、六十倍、百倍 にもなった」のです。  そこで私たちは、立派な信仰生活を全うした人を横目で見つつ、どうせ自分は「道端、土の 薄い石地、また茨の中に落ちた種なのだ」と勝手な解釈をしていることはないでしょうか?。 もしそうなら私たちは主イエスの御言葉を改めて正しく聴かねばなりません。たしかにあの 「種まきの譬え」には4種類の異なる土地が出てきます。しかしそれは「あなたはその中のど の土地か?」と問われていることではないのです。そうではなく、私たちの誰の中にも「道端」 と「土の薄い石地」と「茨の中」その3種類の土地しかないのです。それに対して最後の「よ く肥えた畑」は神からの恵みの賜物です。だから主イエスは「よく肥えた畑」とは「御言葉を 聴いて信じた人」のことだと言われました。逆に言うなら「御言葉を聴いて信じた人」はかな らず「よく肥えた畑」とされるのです。そして主が「三十倍、六十倍、百倍」もの実りを与え て下さるのです。ですからこの譬えの中心は「御言葉を聴いて信じること」にあるのです。  すると、どういうことになるのでしょうか。実はこのことと関連して今朝の24節の御言葉 の中に、私たちが聴くべき最も大切な福音のおとずれがあります。それは「天地が造られる以 前からわたしを愛して下さって、わたしに賜わった栄光を、彼らに見させて下さい」と主が祈 られたことです。この「見させて下さい」とは「その出来事によって彼らを新たにして下さい」 という意味です。その祈りは同時に主イエスが十字架によって実現して下さいました。つまり 主イエスはここで、天地創造以前からある三位一体なる神の永遠の愛の交わりの内に私たち全 ての者を入らせて下さいと御父に祈られ、まさにその愛の出来事(十字架)によって私たちが 救いを得るように招いておられるのです。ですからここで大切なことは、主が言われる「栄光」 とは復活の生命(永遠の生命)であると同時に、主が担って下さった十字架の出来事をさして いるということです。  私たちは復活の生命(永遠の生命)とは、キリストの復活の生命のことだと単純に考えます。 しかし今朝の御言葉には私たちが見落としている大切なことが明らかにされています。それは 復活の生命(永遠の生命)とは何よりも天地創造以前から父・御子・聖霊なる三位一体の神の 内にあった完全な愛の交わりの現れであり、それがキリストの十字架によって私たち一人びと りの救いの出来事になったのです。私たちのこの教会こそ、その復活の生命(永遠の生命)の 現れです。キリストの十字架と復活の最もたしかな証拠は教会の存在です。なぜなら教会は私 たち全ての者の罪を背負って十字架に死なれ、葬られ、甦られたキリストの御身体だからです。 それならいまこの教会(まさしくこの礼拝)において、私たちはいま「御言葉を聴いて信じる 者」とされているのです。「よく肥えた土地」にならせて戴いているのです。キリストに連な る者とされているのです。  この恵みの出来事を知るとき、私たちの人生の視点が180度変わります。根本的な変化(新 たにされること)が私たちに起るのです。それはいま現実にキリストご自身が、このあるがま まの私たちと共にいて下さり、私たちを救い、私たちを支え、私たちに「永遠の生命」という 「栄光」を賜わっていて下さるということです。「キリストと共にある生涯」は特別な一部の、 家庭環境などの条件に恵まれた人のものではない。いまここに集うている私たち一人びとりこ そ、そのあるがままに、主の贖われた教会によって、十字架の主による限りない生命の内に招 き入れられ、祝福の生命に生きる者とされているのです。だから「信仰」とはヘブル書が言う ように「まだ見ぬ事実の確認」です。「まだ見ぬ事実」とは、神のなさる救いの御業はいつも、 私たちの思いを遥かに超えているからです。「確認する」とは、私たちの思いを遥かに超えた 神の御業をただ神の御言葉によって「確認する」ことです。この「確認」とは「信仰」のこと です。言い換えるなら「信仰」とは、私たちに対する神の絶対の救いの御業を信じること(確 認すること)なのです。  そのとき私たちは改めて、他の誰でもなくこの自分が「いつもキリストと共にある生涯」を 与えられていることを知ります。救いは主にあることを感謝し讃美する者とされているのです。 救いを「確認する」者とされているのです。神のなさる救いの御業をそのままに受け入れる「よ く肥えた土地」とされているのです。なによりも私たちはキリストの御身体なる教会に結ばれ ています。キリストの復活の生命に結ばれています。死を超えた永遠の生命に連なっています。 主はその私たち一人びとりにはっきりと告げて下さるのです。「わたしはあなたを抜きに神の 国を考えない」と!。あなたこそ御国の民とされるその人だと。なぜなら主は私たち全ての者 のために十字架にかかられ死なれたからです。クリスマスとはこの主の来臨を新たに迎える時 です。  主は「わたしの父の家には住居がたくさんある」と言われました。そして「わたしがおる所 に、あなたがたも共におらせよう」と言われました。まさにそのためにこそ、主は私たちのも とに来て下さいました。だからこそ「恐れるな、小さな群れよ。御国を下さることこそ、あな たがたの天の父の御心である」と言われました。主はいま私たちを「御言葉を聴いて信じる者」 として下さり、永遠の生命という「栄光」を与えて下さるために、ご自身は十字架の死と葬り という「栄光」をお受けになったのです。私たちのために担われた測り知れぬ十字架の苦しみ と死を、ご自身の「栄光」と呼んで下さったのです。そこに、私たちのたしかな唯一の救いが あるのです。