説    教   ゼカリヤ書8章11〜12節  ヨハネ福音書17章20〜23節

「平和の主」

2010・11・28(説教10481352)  使徒パウロは新約聖書コロサイ人への手紙3章15節に「キリストの平和が、あなたがた の心を支配するようにしなさい」と勧めています。さらに続けて「あなたがたが召されて一 体となったのは、このためでもある」と書いています。これは争いや分裂の絶えなかった当 時のコロサイ教会の信徒たちに対する勧めの言葉でした。「召されて一体となる」とは、私 たちが主イエス・キリストによる救いにあずかる者とされ、ひとつの身体(主の教会)に連 なる肢体となり、キリストをかしらとする“新しい生命”に生きることです。パウロはここ でなによりも「キリストの恵みに満たされなさい。そうすれば真の平和があなたがたを支配 する」と語っているのです。  キリスト教会2000年の歴史の中で「キリストの平和」または「主の平和」という挨拶が 礼拝の中で伝統的に交わされてきました。私たちの教会では言葉としては「主の平和」とは 言いませんが、しかし私たちが礼拝に出席し神を礼拝することそのものが「主の平和」にあ ずかることです。なぜなら本来の「キリストの平和」とは聖書においては「キリストの生命 に覆われる」という意味だからです。私たちは「平和」と聴くと争いのない状態、対立や分 裂などのない、いわば“静かな状態”を思い描くのですが、聖書における「主の平和」とは 「キリストの恵み(生命)に覆われること」です。“静かな状態”のことではなく、むしろ 罪によって死んでいた私たちがキリストの救いにあずかり、新しい生命に甦らされることで す。  言い換えるなら「キリストの平和」とは「キリストの復活の生命に覆われた新しい生活」 です。だからパウロがコロサイ書3章で語っていることは「私たちはキリストの復活の生命 に覆われて生きるために、いまここに召されて一体とされているのだ」という恵みの宣言な のです。教会はキリストの復活の生命の共同体です。だからこそ私たちは教会生活(礼拝生 活)を大切にします。それはキリストによって立てられた神との平和に生きることであり、 それこそがあらゆる平和の根源である平和の唯一の礎なのです。  先日の祈祷会でもそうでしたが、出席した人々によって「教会から離れている人々が、あ なたのみもとに早く立ち帰ることができますように」と祈りがささげられました。これは私 たちの共通の祈りです。私たちは自分や家族が病気や怪我をしますと、一刻でも早く医者に 連れて行こうとします。必要なら救急車を呼んでさえ急いで手当を受けさせようとします。 しかしその私たちが、教会から離れてゆくこと、または離れつつある人に対して、なんら魂 の手当てをしようとしないとすれば、それこそ不思議なことです。肉体の生命のためには目 の色を変えて奔走する私たちが、魂の救いのためには不熱心でいられるとすれば、それこそ 本末転倒と言わねばなりません。  ある田舎の教会で立派な伝道をしている一人の牧師先生が説教の中でこういうことを語 られました。もし日曜日の朝になって私が(その先生が)礼拝に姿を見せなかったなら、教 会員の皆さんはどういう反応をされるだろうか。いつまで待っても牧師が聖壇の上に姿を現 わさない。やがて時間が来たのでみんな讃美歌を歌い、祈りをささげ、やがて聖書が朗読さ れる。それでも肝心の牧師先生が現れない。もしもそういう事態になったらどうなるだろう か?。おそらくそのことは信徒全員の憂うるところとなり、臨時長老会が開催されるに違い ない。欠席理由の如何によってはその牧師先生は辞任に追い込まれるであろう。牧師が礼拝 を欠席するとはそれほど大きなことなのだ。それならば皆さんは、それと同じことを平気で しているのではないか。礼拝を欠席するにしても、牧師や長老に無断で欠席するのはどうし てなのか?。そのことをこの牧師先生は問うておられるのです。  病気や急な事情により、やむをえず礼拝を欠席せざるをえない人もいます。それは仕方な いのです。神の御前に申し開きができれば良いのです。むしろ問われているのは、私たちは 礼拝に出席しようと思えばできるのに、自分の都合を優先させて礼拝を休むことはないだろ うかということです。礼拝が無礼拝になってはいないでしょうか。主に対する真の礼拝があ ってはじめて本当の伝道ができるのです。たとえば新来会者が礼拝に出席しても、教会員で ある私たちがそこで本当に礼拝を大切にしている姿があってこそ、その新来会者はキリスト のもとに導かれるのです。  そこで今朝の御言葉であるヨハネ伝17章20節以下です。ここに主イエスは「わたしは彼 らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願い いたします」と言われました。それは私たちが真の礼拝を通してキリストのみを証する群れ になっているかどうか。言い換えるならば「キリストの平和」が私たちを支配しているか否 かを主みずからが問うておられるのです。いや、なによりもこれは主イエスの「祈り」でし た。私たちの教会の言葉である福音の宣教によってキリストを信じる者とされた私たち全て の者のために、主はこの祈りを献げ抜いて下さったのです。なによりも21節以下です「父 よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんな の者が一つとなるためであります。すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためで あり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになる ためであります」。  「キリストの平和」(主の平和)はそれを受けた私たちが「ああ安心だ」と言って蹲るも のではなく、むしろ安心して立ち上がり、勇気をもって世の旅路へと主と共に歩む者になる 平和なのです。それが伝道のわざです。伝道とはキリストの復活の生命に立ち上がった(甦 らされた)私たちが、その同じ生命と祝福を他の人々にも伝えてゆくことだからです。そこ で最近の社会は次第に人間の生命を軽視する方向に向かっています。とても残念なことです。 機能重視の人間理解、または業績中心の誤った人間理解の陰で、人間本来の尊厳や価値が見 失われ、人間が社会の機能の一部分になってしまっているのではないでしょうか。そうした 偏った人間理解から、個人の心の平和、さらには家庭の平和、社会の平和、そして国家の平 和が危機に瀕しています。先日も韓国のヨンビョン島に対して北朝鮮から180発もの砲撃が 行われ、犠牲者が出ました。あれが第二次朝鮮戦争になる可能性は低いと言われていますが、 もし仮に全面戦争に発展した場合、たとえばソウルが、ことによったら東京が、広島・長崎 に次ぐ3番目の核被爆都市になる可能性があるのです。  この場合、単純だけれども極めて明確な真理があります。それはいかなる戦争もまず人間 の心の中で起こるものだということです。主イエスは「兄弟に対して馬鹿者と言う者は神に 対して罪を犯すのである」と言われました。この「馬鹿者」とは「お前など消えてしまえ」 という私たちの心の中の声です。結局はそれが国家間の全面戦争さえも引き起こすのです。 始まりは全て「馬鹿者」と言う心の声なのです。それならば大切なことはただ一つではない でしょうか?。それは私たちの心がまず「主の平和」によって支配されることです。そこに しか本当の恒久的な平和の道はありえないのです。「主の平和」に私たちがいま支配されて いるか否かです。「真の礼拝者」としていま生きているか否かなのです。  「バイオフィラス」(生命愛)という言葉を最近聞くようになりました。社会全体が新し い倫理基準を必要としている、その社会倫理やバイオテクノロジー(生命科学技術)の分野 で用いられるようになった言葉です。私はこの言葉を聞いてすぐに想ったことがあります。 それはバイオフィラスというこの言葉がギリシヤ語だからなのですが、実は教会こそ真の意 味でバイオフィラスな唯一の群れなのではないかと言うことです。生命を愛するように見せ かけて実は生命を憎み、兄弟に対して「馬鹿者」と言う心の声(罪の誘惑)に従うことしか しない現代社会に対して、ただ“キリストの生命の共同体”である私たちの教会のみが、あ らゆる反生命愛的な人間の行為に対して「それは違う」と声を上げうるのです。なによりも その声は、私たちを支配していたあらゆる罪と死の力に対してキリストが「サタンよ立ち去 れ」とお命じになった、あの勝利の御声に呼応する教会の宣教の叫びなのです。  全てにまさって主イエスは「わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとな るためであります」と言われました。この「祈り」を十字架において成就して下さったので す。この「みんなが一つとなる」とは単に私たちの考えや価値観が一致することではありま せん。そうではなく、キリストを唯一のかしらとして私たちがその肢体となることです。人 間の身体は肉体、心、精神(魂)が分裂していては生きたものにはなりません。ひとつの「か しら」なるキリストの愛に満たされ、キリストの十字架によって「罪」が贖われてこそ、は じめて活きた生命の身体となりうるのです。私たちは主の教会に連なることによって、唯一 の主イエス・キリストに従う生活をすることにより、はじめて生きた一個の人格でありうる のです。死を超えた“永遠の生命”に満たされ「主の平和」に生きる者とされるのです。  私たちは“永遠の生命”とは何かと求道の共に問われたら、何と答えるでしょうか。それ は父・御子・聖霊なる三位一体の神との永遠の交わりの中に、私たちがキリストの恵みによ り、教会を通して入らせて戴くことです。教会は「キリストの身体」ですからそこに連なる 私たちはキリストの生命に覆われて生きる者とされるのです。それが“永遠の生命”です。 永遠なる救い主キリストが下さる生命ですからそれは“永遠の生命”なのです。この永遠の 生命に覆われること、それこそが「主の平和」に支配されて生きることなのです。だからロ ーマ書5章1節にはこう告げられています「このように、わたしたちは、信仰によって義と されたのだから、わたしたちの主イエス・キリストにより、神に対して平和を得ている」。  今日は待降節(アドヴェント)の第一主日です。主はまことに私たちのためにベツレヘム の馬小屋にお生まれになり、十字架を担われ、私たちの罪の永遠の贖いを成し遂げて下さっ たのです。そこにキリストに結ばれて生きる新しい生命があります。御子イエスが永遠の昔 から父なる神とひとつであられたように、私たちをも同じ完全な愛の交わりの内に招かれ、 生かされているのです。キリストをかしらとするひとつの身体とされているのです。「キリ ストの平和が、あなたがたの心を支配するようにしなさい。あなたがたが召されて一体とな ったのは、このためでもある」。そして今朝の22節にはこうもあります「わたしは、あなた からいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼ら も一つになるためであります」。  この「栄光」とは聖霊のことです。主はご自分の十字架の御苦しみを「わたしの栄光」と 呼んで下さいました。まさに主はそのご自身の「栄光」である十字架の恵みによって、私た ちに聖霊を与えて下さるのです。聖霊は私たちを“永遠にキリストに結び合わせて下さる神 からの絆”です。その聖霊がこの地に主のまことの教会を形成し、私たちに正しい信仰を与 え、私たちを主に従い、主を待ち望む群れとして下さるのです。だから最後に23節に主は 大いなる約束をして下さいました。「わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、 彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛された ように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります」。私たちがここに、キリ ストのみを証する真の教会に連なるとき、この湘南の地に住む多くの人々が、まさに私たち の教会の礼拝を通してまことの神の限りない愛と恵みと祝福を知るのです。私たちがいまあ ずかっている「主の平和」へと全ての人々が招かれているのです。そこに私たちの変わるこ となき喜びと感謝があります。「キリストの平和」「キリストの生命に覆われた者の歩み」が ここから世に拡がってゆくのです。