説    教  出エジプト記20章1〜3節 ヨハネ福音書17章17〜19節

「聖別の恩寵」

2010・11・21(説教10471351)  「真理によって彼らを聖別して下さい」と主イエスは弟子たちのために祈られました。今 朝の御言葉ヨハネ伝17章17節です。この「真理」とは救いの福音のことです。神の御言葉 のことです。福音そのもの(神の御言葉そのもの)が私たちを「聖別」すると主イエスは宣 言して下さいます。なによりもそれを御父への祈りとされました。  だからこの17節の主イエスの祈りは、ただ「聖別して下さい」だけで終わってはいませ ん。「あなたの御言葉は真理であります」という大切な続きがあるのです。そしてこれは「真 理とはすなわち、あなたの御言葉であります」とも訳すことができます。「真理」には様々 な種類があるのではないのです。生ける聖なる神の御言葉のみが、人間を人間たらしめ救い に導く唯一永遠の「真理」なのです。まさにその唯一の「真理」である神の御言葉のみが私 たちを「聖別」するのです。  さて、この17節の主イエスの祈りを、前半を祈願とし、後半を頌栄として理解すること ができます。私たちは祈るとき、自分の願いや要求のみを並べて、神の御名を讃えることに 疎くはないでしょうか。祈りでまず大切なことは、全てにまさって神の聖なる御名を崇め、 感謝し讃美を献げることです。主イエスが“祈りの手本”としてお教えになった“主の祈り” においても、最後は「国と力と栄えとは、限りなく汝のものなればなり」という頌栄の言葉 なのです。  かつて12世紀のイタリアにアッシジのフランシスコという人がいました。全てを棄てて 托鉢巡礼をしながら祈りの生活に徹した聖人です。その徹底した無私無欲の生活は腐敗した ローマ・カトリック教会に大きな影響を与えました。このフランシスコがある金持ちの家に 客として迎えられました。その家の主人はかねてよりフランシスコの祈りを聴いてみたいと 願っていました。そこで彼はフランシスコ部屋にそっと近づき、その祈りに耳を傾けました。 その祈りは「おお主よ、わが神よ、汝の御名はほむべきかな」の連続であったというのです。  私たちの祈りの生活も、その連続であって良いのです。「祈り」は何か願いや困ったこと がある時にだけするものではないからです。私たちの願望が祈りを生み出すのではないので す。むしろ私たちが願うこと思うことの全てに先立って、まず主なる神ご自身が私たちのこ とを御心にとめていて下さる。そして私たちを御言葉と永遠の生命へと導いていて下さる。 それなら私たちはまず何をおいても神の御名のみを崇め、感謝と讃美を献げるほかはないの です。  主イエスがお献げになった今朝の17章17節の祈りは、その意味でまさに讃美と感謝に溢 れた祈りそのものでした。主イエスはここで「真理によって」私たちを「聖別して下さい」 と祈られ、そのすぐ後で「あなたの御言は真理であります」と限りない讃美を献げられたの です。つまり、主イエスが私たちを「聖別」(御業のために選びわかつこと)せんとして委 ねたもうたものは、神の聖なる御言葉(福音)そのものなのです。そこでこそ大切なことは、 この「聖別」とは何かということです。  今日の御言葉で「聖別する」と訳されている元々のギリシヤ語は「聖なる者とする」とい う意味の“ハギアゾー”という言葉です。すると私たちにはたちまち、あるためらいが生ず るのではないでしょうか?。私たちのどこを見れば、私たちは「聖なる者」にされるのにふ さわしいと言えるのだろうか?。その資格や値打がどこにあるのだろうかと思わざるをえな い私たちです。神が「聖なる」かたであることはよくわかる。しかしその「聖なる」という 言葉が私たちに向けて語られるとき、私たちは驚きためらわざるをえないのです。主イエス 御降誕の報せを受けた祭司ザカリヤのように、自分の顔を伏せるほかはないのです。  そこで、この問いを解くために私たちは旧約聖書・出エジプト記29章を見なくてはなり ません。そこには祭司アロンの「聖別」の出来事が記されています。そこで大切なことは、 主なる神は「わたしの栄光によって」「アロンとその子たちを聖別する」と告げておられる ことです。この「わたしの栄光によって」とは「わたしがあなたに現す救いによって」とい う意味です。私たちは「神の栄光」ということを抽象的にしか理解していないことが多いの ではないか。たとえばカルヴァンをはじめとする宗教改革者たちが「ただ神の栄光のために」 (ソリ・デオ・グロリア)と教会形成の標語を掲げたとき、私たちはそれを単なる改革教会 の看板だと思ってはいないでしょうか。。  それは大きな間違いです。カルヴァンが語ったこの標語は単なる宣伝文句(景気づけの掛 声)ではありません。「ただ神の栄光のために」とは「ただ神の救いの御業のみが世にあま ねく現れるために」という意味なのです。私たちの教会は「ただ神の救いの御業のみが世に あまねく現れるために」神に「聖別」された群れなのです。キリストの恵みにより選びわか たれた“救いの共同体”なのです。だから「神の栄光」とは私たちの救い、そして全世界の 救いの宣言とひとつなのです。ただ神が超越し隔絶したかただという意味ではないのです。 むしろ我らのただ中にお生まれになった御子イエス・キリストにおいて、いま私たちのただ 中に救いの御業が現わされているのです。その救い主(キリスト)の御業を、私たちは常に 喜び讃えざるをえないのです。  そうすると、改めて今朝の御言葉の意味がわかって参ります。すなわち私たちが「真理に よって聖別される」とは、私たちの内側にある資格や値打によってではなく、ただ御子イエ ス・キリストの十字架の贖いの恵みのゆえに、罪人のかしらなる私たちを神みずからキリス トの義をもって「聖なる者」として下さることです。だからこの「聖なる者」とは「聖とな らせて戴いた者」のことです。「聖とならせて戴いた」とは、いまあなたはあるがままに“キ リストの義”によって覆われているということです。キリストを着る者とされたということ です。かくてパウロが第二コリント書5章3節で言うように(キリストを着たゆえに)私た ちはもはや「裸のままではいない」のです。キリストの限りない義が私たちの全存在を覆っ ていて下さるのです。  私たちは日本のような温暖な国にいますから、イスラエルのような沙漠の国の自然の厳し さをなかなか実感できません。沙漠に住む人々はあの灼熱の暑さの中でどうしてあんなに頭 から身を隠すような服を着ているのだろうかと不思議に思うのです。しかし実際に砂漠に行 ってみるとよくわかります。裸でいますとたちまち脱水症状となり生命の危険にさらされる のです。反対に夜は氷点下近くにまで気温が下がりますからやはり頭から身を包んでいない と生活できない。それこそ詩篇121篇にあるように「昼は日なんぢをうたず、夜は月なんぢ をうたじ」このことがいかに大きな恵みであるかがわかります。「主は汝を守りてもろもろ の禍害を免れしめ、また汝の霊魂をまもり給はん。主は今よりとこしへに至るまで、汝の出 づると入るとを守りたまはん」。  かつてナチスのユダヤ人虐殺に対して生命をかけて反対し、ついに処刑されたドイツの神 学者ディートリヒ・ボンヘッファーは、その著書「聖徒の交わりか諸聖人の功徳か」の中で 次のように語っています。私たちプロテスタント教会、特に改革長老教会は、使徒信条やニ カイア信条の「聖徒の交わり」(サンクト・コンミューニオム)を字義そのままに「聖徒の 交わり」と訳し理解します。それに対してローマ・カトリック教会では「諸聖人の功徳(通 功)」と訳します。ここには根本的な福音理解の違いがあるのです。問題の焦点は「聖なる 者」(サンクト)をどう理解するかという点にあります。私たちは今朝の御言葉にもあるよ うに、この「聖なる者」とはイエス・キリストの義に覆われること、キリストの義にあずか ることだと理解します。これに対してローマ・カトリック教会では、人間が聖人たちの功徳 によって聖なる者になることだと理解するわけです。するとそこでは人間が中心になるので す。「聖なる者」の「者」とは人間のことだという理解です。そこに「聖なる」という神の みに冠せられる形容詞が付くので不自然になるのです。この不自然さから免罪符が出てきた のです。私たちはそういう理解はしません。私たちにとって「聖なる者」とは神の御子イエ ス・キリスト以外にはありえないからです。  するとどういうことになるのでしょうか。キリストが今朝の御言葉で言われた「(私たち を)聖別する」とは何でしょうか?。それは私たちをご自身の十字架の恵みにあずかる者と して下さることなのです。生命なき私たちにご自身の復活の生命を与えて下さることなので す。立ちえなかった者がキリストの祝福のもとに立ち上がり、神の愛のうちを勇気をもって 歩む者とされることです。祝福を知りえなかった者がキリストの限りない祝福と罪の赦しに あずかり新しい生命に甦ることです。それが「聖なる者」になること、すなわち「聖別され ること」なのです。  だからこそ、主イエスは今朝の御言葉においてこうも祈られました。18節以下です。「あ なたがわたしを世につかわされたように、わたしも彼らを世につかわしました。また彼らが 真理によって聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」。主イエスは私 たちを絶対に「裸のまま」でおらせたまわないのです。「裸」とは私たちの「罪」あるまま の姿です。つまり主イエスは、私たちの「罪」を放置して滅びに任せたまわない。裸のまま 日に曝され月に打たれて死ぬ以外にない私たちの存在を、かき抱くようにご自身のもとに引 き寄せて下さり、ご自身の十字架の贖いの義をもって覆い尽くして下さるのです。そのため に、まさにその“救いの出来事”が私たちの上に、世界の上に現わされるためにこそ、主は あの呪いの十字架にかかって死んで下さったのです。  それならば今朝の最後の19節の意味も明らかになるのではないか。「また彼らが真理によ って聖別されるように、彼らのためわたし自身を聖別いたします」と主が祈られたことです。 これは十字架を目前にしたゲツセマネの祈りです。ゲツセマネにおいては何が起ったのか?。 永遠にして聖なる神の御子イエス・キリストが、私たちの全ての罪を担って、血の汗を流し て祈られた出来事です。ゲツセマネとは「ぶどう絞りの場」という意味です。主は私たちの 「救い」のためにご自身の全てを、恐ろしいほどの苦悩と苦痛の中で、血潮の最後の一滴を さえも、私たちの救いのために注ぎ出して下さったのです。  「彼らのためわたし自身を聖別いたします」と主は祈られました。これこそまさに十字架 の出来事を現わしているのです。この「聖別する」とは“栄光を受けること”です。すでに 私たちはこのことも繰返し読んで参りました。ヨハネ伝において「栄光を受ける」と主イエ スが語られるとき、それは例外なく十字架のことをさしておられるのです。まさにご自分を 十字架にことごとく献げになること。私たちの救いのためにご自身の生命の全てを献げ尽く されること。それこそが主イエスの言われるご自身を「聖別する」ことでありました。  私たちは毎日この十字架のキリストの愛と恵みによって、この世の生活のただ中へと「つ かわされている」存在なのです。真理によって「聖別」される生活はこの世の煩雑な出来事 や人間関係に背を向けて、自分だけの居心地の良い隠れ家を造る生活ではありません。そう ではなく、まさに主イエスがこの全世界の「罪」を十字架において担われ、罪と死に永遠に 勝利して下さったゆえに、その「キリストの義」に覆われ贖われた私たちは、もはや恐れる ことなく、憶することなく、勇気と希望と感謝をもって与えられたこの世の生活の中へと、 主イエスの御手によって遣わされてゆく者とされているのです。そのような主に結ばれた 「聖別された者」の新しい生命の生活を、私たち全ての者がいま主の御手から受け取ってい るのです。