説    教     詩篇18篇1〜3節   ヨハネ福音書17章14〜16節

「キリストの聖心」

2010・11・14(説教10461350)  私たち人間は誰しも「これこそ私の最大の願いだ」と言える願望を持っているのではない でしょうか。内容はそれこそ十人十色でありますが、ともかく私たちの心の中にはいつも隠 された切なる「願い」が潜んでいて、それが実現されるか否かが私たちにとっての幸福の鍵 であると思われているのです。  言い換えるなら、私たち人間は何を「人生の最大の願い」とするかによって人生の意味そ のものが大きく変わってくるのです。小さな願いしか持たない人生はいきおい小さなものと なり、大きな願いを持つ人生はおのずと大きなものになってゆくであろう。それが私たちの 日常的な人生の価値観であろうかと思います。  ところが、人生の意味と「願い」との関係は、実はそれほど単純なものではありません。 かつて豊臣秀吉が天下人となった自らの人生を省みて「露とおき露と消えぬるわか身かな難 波のことは夢のまた夢」と歌いました。権勢を誇り天下を手中におさめたかに見える人生も、 譬えて言えば、朝日を受けて瞬く間に消えゆく露のような儚いものにすぎないと言うのです。  ですから人生の「願い」はただ人の目に大きく見えれば良いというものではなく、大切な のはその内容なのです。内村鑑三や新渡戸稲造らを輩出した札幌農学校(今日の北大農学部) の初代校長として招聘されたW.S.クラークというアメリカの植物学者は敬虔なクリスチャ ンでした。生徒たちにただ農学を教えるのみならず、敬虔なピューリタン信仰の炎を残して ゆきました。彼のもとで信仰の訓練を受け洗礼を受けた青年たちがいわゆる「札幌バンド」 を形成し、わが国における有力なキリスト教の有力な母体のひとつになったのです。  さて、このクラークは来日わずか一年で札幌を去るのですが、生徒たちとの別れぎわに「青 年よ大志を抱け」という有名な言葉を残しました。しかし実際にはこの言葉には大切な続き があるのです。「青年よ大志を抱け、キリストにありて」というのが、クラークが残した本来 の決別の言葉でした。なぜかこの「キリストにありて」(イン・クライスト)は無視されて、 前半の「大志を抱け」だけが後世に伝えられたのです。しかしそれではこの言葉の真意は伝 わりません。大切なのはむしろ後半の「キリストにありて」という部分にこそあるのです。  「青年よ、キリストにありて大志を抱け」。わが国におけるキリスト教の母体が北海道の地 に、この真のフロンティア精神により育まれたことの意味は大きかったと私は思います。私 たちの教会のかつての牧師であられた宮崎豊文先生も、この札幌バンドの精神的風土の中で キリストに出会い献身されたかたです。そこでこそ私たち今日のキリスト者に問われている ことは、では私たちはいつもそのような「キリストにある願い」をもって生きているかどう かということです。歴史の遺産が単なる過去の物語ではなく、現在の私たちの中に生きてい るかどうかということです。  なによりも「キリストにありて抱く大志」とはどういうことでしょうか?。それは私たち にとってどのような「祈願」なのでしょうか。それを明らかに示す御言葉が今朝のヨハネ伝 17章14節以下です。すなわち主イエスは私たちのためにこう祈られました。「わたしは彼ら に御言を与えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世のものでないように、彼らも世 のものではないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、 彼らを悪しき者から守って下さることであります。わたしが世のものでないように、彼らも 世のものではありません」。  私たちはここに厳粛な思いをもって主イエスの「願い」(祈り)に耳を傾けるのです。「わ たしが世のものでないように、彼らも世のものではありません」。この「世のものではない」 とは「この世に属するものではない」あるいは「この世に存在の根拠を持つものではない」 という意味です。たしかに私たちはキリスト者でありつつ生活の場をいつもこの「世」に持 っています。私たちはこの世で仕事をし、この世で家庭を持ち、この世で人間関係を営み、 この世で生活をしています。私たちと「この世」とは切り離せない関係にあるのです。言い 換えるなら、この世に生活の場を持たないキリスト者は偽りのキリスト者です。なによりも 聖書では人間は精神だけではなく、肉体をも生活の場として持つ存在なのです。私たちは「こ の世」でこそ信仰生活を全うすべく神に召されているのです。  しかし、私たちの生活の場が「この世」にあるということと、私たちが「この世」に属す るということとは違うのです。それは譬えて言うなら、私たちが旅行に出かけるとき、帰る べき自分の家があるのと無いのとでは、全然旅行の性質が違ってくるのに似ています。実際 にあったことですが、ある婦人が親しい友だちと一緒に温泉旅行に出かけました。宿に着い て温泉に入り、楽しい夕食というところに電話がかかってきた。なんとその婦人の家が火事 で焼けてしまったという報せでした。その報せを受けた瞬間から、楽しいはずの旅行は上の 空になりました。彼女は夕食にも全く手をつけず泣くばかりだったと言うのです。  譬えるなら、私たちの人生も同じではないかと思うのです。私たちの人生もまたやがて帰 るべき“魂の故郷”があってこそはじめて意味を持つのではないでしょうか。もし“魂の故 郷”を持たぬまま、あるいは見失ったまま人生を続けてゆくならば、それこそ旅行の途中で 家が焼けてしまった婦人と同じように、その深刻さを真面目に考えるなら、私たちも居ても 立ってもいられなくなるはずなのです。それはもはや旅行ではなく放浪になるからです。帰 るべき家を見据えてこそ旅は意味を持つのです。  それならば、今朝の御言葉の意味も明らかなのです。主イエスは「彼らは(つまり私たち は)世のものではありません」とはっきりと言われました。つまり私たちは「この世」の生 活という旅路を歩みつつも、いつも帰るべき「真の家」(天の故郷)がある存在だということ です。それが「この世」に生活の場を持ちつつも「この世」に属さない私たちキリスト者の 歩みです。もし私たちが「家」にいるだけで旅に出なければそれは人生にはなりません。し かし「家」が無いままどんなに旅をしてもそれは本当の人生ではなく放浪にすぎないのです。 私たちは帰るべき天の家を主イエス・キリストが十字架による贖いの恵みによって備えてい て下さることを知るゆえに「この世」にありつつも、しかも「この世」に属するこの世の僕 ではなく、キリストの僕として、神の御業に仕える者とされているのです。  このことこそ実は、私たちの人生そのものに関わる大切な事柄なのです。よく私たちは「命 あっての物だね」などと申します。人間にとって生命がいちばん大切だと誰もが思っていま す。肉体の生命を全てに優先させる価値観を私たちは当然のように受け容れてしまっていま す。しかし本当にそうなのでしょうか?。それは裏返すなら「自分の人生は(存在は)自分 を喜ばせるためにあるのだ」という現代の神話を作り上げていることではないでしょうか。 この神話のもとで「生命がいちばん尊い」という価値観に支配された現代の日本で、毎年3 万人以上もの人々が自らの手で生命を断っているのです。  星野富弘という詩人がいます。中学校の体育の教師でしたが、不慮の事故で全身不随とな り、絶望のどん底にあった時にキリストの福音に出会って洗礼を受け、以後の人生の全てを 口で筆をくわえて神を讃美する絵と詩を書くことに献げている人です。この人の詩にこうい うものがあります。『命がいちばん大事だと思っていたころ、生きているのが辛かった。命よ りも大切なものがあると知った日、生かされているのが嬉しかった』。ここには私たち人間の 人生を本当に支えるものが何であるかが示されています。それこそ星野さんが語る「命より も大切なもの」の存在です。それは私たちのために十字架にかかって下さった主イエス・キ リストの恵みなのです。なぜならただ主イエス・キリストのみが、私たちのいっさいの罪の 重みを背負って呪いの十字架にかかって下さり、ご自分の生命の全てを献げ尽くして下さっ たかただからです。  最近の生命倫理の問題の中で最大の焦点になっているものは、遺伝子レベルにおける生命 の人為的な操作が果たして許されるか否かという議論です。これは近年における遺伝子工学 (生命工学)の急速な発展によって起ってきた新しい問題です。たとえばイギリスのドーキ ンスという学者によれば、人間の身体は遺伝子の乗物(ビークル)に過ぎない、つまり人間 という生物は徹底的に利己的な遺伝子によって支配された存在である。そういう議論が急速 に生じて参りまして“人間の価値=遺伝子の価値”という短絡的な図式が価値観になりつつ あるのです。これを突き詰めるなら人ゲノムの解析によって、将来は障害や病気のない子供 だけを産むことができるようになる。それが人類の幸福なのだという価値観が拡がりつつあ るのです。  たとえこうした技術をどんなに進歩させても、人間それ自体の価値は決して解明されえな いでしょう。もし私たちが遺伝子の運び屋にすぎず、また遺伝子操作によって理想的な人間 が誕生するというなら、個々の人生の意味は否定されるからです。人生の価値と意味は科学 的方法論によっては解明されません。それを明らかにするのはただ神の御言葉のみです。ド ーキンスは「人間が他の人間のために犠牲になること、これほど不合理な愚かなことはない」 と申しています。そして計算をしているのです。もし犠牲になるのなら血縁関係にある者の ためだけである。最小の条件は「兄弟なら2人、従兄弟なら8人のために犠牲になることだ」 と申しました。それは自分の遺伝子を完全に伝えるためには、兄弟なら2人、従兄弟なら8 人が最小限必要だからです。こうした価値観にどうして人間の未来があるでしょうか。  主イエス・キリストは、血縁でも何でもない私たちのために、しかも罪人のかしらなるこ の私という1人のために、十字架にかかられて生命を献げ尽くして下さったのです。この十 字架の出来事は遺伝子工学者の目には(この世の価値観には)なんと愚かに見えることでし ょうか。罪人とは“生きる価値の無い存在”という意味です。その遺伝子もまた無意味の遺 伝子にすぎないのです。無意味さが無意味さを伝えてゆくだけのことです。しかし神の御子 イエス・キリストは、まさにその私たちの「罪」という無意味さのただ中にご自分の全てを 献げ尽くして下さったのです。そのキリストの測り知れない愛に私たちの人生(存在)の根 拠があるのです。星野氏のように「命よりも大切なものがあると知った日、生かされている ことが嬉しかった」自分を見いだすのです。私たちはキリストの愛の内に本当の自分を見い だすのです。  それこそが私たちの人生を真に支え導く真の慰めであり力であり、また人生の根拠そのも のなのです。キリストとの出会い、否、まずキリストみずから私たちを訪ね求め、私たちに 出逢って下さり、私たちに御声をかけて下さった、その恵みの出来事の中でこそ私たちはい ま「この世」の旅路の中で、それぞれの人生の歩みの中で、永遠の神の家の家族とならせて 戴いているのです。「キリストにありて」こそ聖なる「志」を抱く者とならせて戴いているの です。それは私たちがこの与えられた人生という旅路のただ中にあって、ひたすらにキリス トに贖われた者として歩むことです。キリストの測り知れない愛と祝福が、ほかならぬこの 私たちの人生の全体を通して世に証されてゆくことです。そこにキリストの聖心があるので す。  あのマグダラのマリヤも、ラザロも、ステパノも、パウロも、スカルの井戸端の女性も、 主の弟子たちも、みなその幸いに生かされた人々です。主が御手を触れ立たしめて下さった 人々です。「ただ神の御業がかれの上に現れるためである」と主が宣言して下さった人々です。 私たちもその一人とならせて戴いているのです。私たちの人生をこそ主は限りなく愛し祝福 して下さっているのです。「わたしがお願いするのは、彼らをこの世から取り去ることではな く、彼らを悪しき者から守って下さることであります」。そこに十字架が立っています。キリ ストが共におられます。キリストの聖心が注がれています。私たちはいまそこに生きる僕と されているのです。