説    教    エレミヤ書4章1〜2節  ヨハネ福音書17章12〜13節

「神の選びの恵み」

2010・11・07(説教10451349)  今朝の御言葉、ヨハネ伝17章12節13節はいろいろな意味で難しい御言葉です。まず一読 しただけではよく意味がわからない、内容を読み取ることが困難である。そういう難しさがあ ります。なによりも主イエスはこのように言われました。12節です。「わたしが彼らと一緒に いた間は、あなたからいただいた御名によって彼らを守り、また保護してまいりました。彼ら のうち、だれも滅びず、ただ滅びの子だけが滅びました。それは聖書が成就するためでした」。 しかし続く13節ではこう語っておられるのです。「今わたしはみもとに参ります。そして世に いる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれるためでありま す」。  私たちが「難しい」と感じるのは、この12節と13節とで全く逆のことを主イエスが語って おられるように見えるからです。つまり12節では主イエスは「滅びの子の滅び」をお語りに なり、続く13節では「わたしの喜び」というようにご自身の「喜び」が私たちの救いにある ことを語っておられる。言い換えるなら、前半の御言葉は呪いと排斥であり、後半の御言葉は 喜びと受容であると印象づけられるのです。  しかし私たちは、聖書の御言葉を自分の知恵や経験によってではなく、ただ聖霊の導きによ って理解するのです。なによりも私たちはただ信仰によって、教会の信仰告白に連なることに より、世々の聖徒らと共に正しく御言葉に聴く者とされるのです。そのとき私たちは今日のこ の御言葉が、いわゆる“予定の教理”と深く結びついていることを知らされるのです。予定の 教理とは、私たち改革長老教会がカルヴァン以来、特に重んじてきた福音の筋道です。  先週の水曜日、藤枝教会を会場として「東海連合長老会・長老執事修養会」が開催されまし た。もと神戸神愛教会の牧師であられた鴾田将雄先生をお迎えして、長老執事の務め、ひいて は教会生活全体にかかわる真に尊い学びの時を与えられました。その鴾田先生のご講演の中で、 思いがけないところでカルヴァンの予定論(予定の教理)が示されました。それは長老・執事 の務めというものが「神の主権」に基礎を置いているというお話の中でした。  まずその中で鴾田先生は私も大好きな哲学者・森有正の言葉を引用されました。こういう言 葉です「一言簡単に言えることは、キリスト教は人間が持っている問題を解決するために神様 が与えたものではないのです。神様が、人間について問題にされることを解決するために、神 様ご自身がお作りになった救いの道なのです」。これを紐解くならこうなります。聖書の福音 は私たちが自分について「これが大切な問題だ」(これが私の救いだ)と感じる事柄を解決す るために与えられたものではなく、むしろ神が私たちをご覧になって、神ご自身が私たちにつ いて「これがいちばん大切な問題だ」(これがあなたの救いだ)と感じたもう事柄を解決する ために、私たちにお与えになった「救いの道」なのだということです。それはそれは「罪の問 題」なのです。  まさにこの「罪の問題」との関連で、鴾田先生は「予定の教理」に触れられたのでした。そ こで当日、私は分団のあとの全体会の司会を務めていましたので、このことについてきっと質 問があるなと思っていましたら、そのとおりの質問が出されました。詳しい間を省いて申しま すなら、その質問は具体的にこういう言葉でなされました。「先生は、私たちが長老・執事に 任職されるということは、信徒としての自由を棄てることだと言われましたが、それは具体的 にどういうことでしょうか?」。これについて鴾田先生のお答えは明確でした。「私たち人間は “自分のことは自分がいちばん良く知っている”と自惚れていますが、それは違います。人間 の本当の問題(本当の救い)はただ神のみが知りたもうのです。そこに人間の認識の限界があ るのです。ただ神のみが“本当の私”を知っておられる。私たちはいつもこの福音に生きる僕 とされているのです」。  たとえば、私について言うなら、私は牧師としていろいろな意味で自由を奪われていると感 じます。牧師という仕事にはオンとオフの区別が全くないのです。これは牧師にならなくては わからない重荷です。公人と私人の区別がない。だから牧師は職業ではなく存在そのものなの です。これだけでも大変な制約です。不自由です。しかしその反面、私は牧師として誰に対し ても、それこそ相手が天皇陛下であれ、アメリカの大統領であれ、北朝鮮の書記長であれ、臆 することなくただ福音のみを語ることができる。牧師だからです。私はこの絶対の自由を神か ら与えられています。この自由に生きるためなら他のいかなる人間的自由を奪われても良いと 私は思っています。長老・執事もそれと同じではないでしょうか。いろいろな不自由があると 思うのです。しかし、それは使徒パウロが語るように「わたしはキリストの焼印を印されてい る」喜びとひとつなのではないでしょうか。譬えるなら、私たちはそのような神の僕(救われ た民)とならせて戴いているのです。  キリスト教信仰の大きな特徴のひとつは“運命による人生の支配”というものを全く認めな い点にあります。人間の人生は機械的な法則によって決定されたものではなく、私たちの人生 は主なる神が限りない愛と目的をもってお備え下さったかけがえのないものである。それを明 らかにするのが改革長老教会が重んじる「予定の教理」なのです。それは「私たちの救いは少 しも私たち自身の力や功績によるのではなく、ただ主イエス・キリストによるものなのだ」と いうことです。私たちは自分がキリストによって“救われた者”だという確かさをキリストご 自身の恵みの中に持つ者とされているのです。それが私たちの生活の全体を作る祝福の生命な のです。  もし私たちがその逆に、自分の救いの確かさを自分のどこかに持つならば、そのとき私たち は「自分は救われうる者ではない」と結論せざるをえません。それは私たちは罪に支配された 者にすぎないからです。自分自身の中に救いに価する何物も持ちえない存在だからです。使徒 パウロの言うように「滅びの子」でしかありえない私たちなのです。  内村鑑三の「余は如何にして基督信徒となりし乎」という本の中にこういう逸話が出てきま す。内村がアメリカで苦学しつつ神学を学んでいた時のことでした。当時のアメリカを支配し ていた自由主義神学の流れの中で、内村は救いの喜びと確信を失いかけていました。そこで内 村が試みた疑いからの脱出法は敬虔主義(ピエティスム)への逃避でした。自分の正しさと清 さを磨き上げ、そのことで何とかして救われようとしたのです。そうした悪戦苦闘をしている 内村のもとに、シーリーという学長が実に適切なアドバイスをするのです。自分に鞭打つ内村 に対してシーリーは「なにゆえ君は自分の中に救いの確かさを得ようとするのか」と問い、そ してこのように語りました「君がしていることは譬えて言うなら、子供が畑に花の苗を植え、 毎日根を抜いては成長を確認しているようなものだ。それでは苗は枯れてしまう。君は君の信 仰とその成長を、ただ神の慈愛の御手に委ねるべきである」。そしてシーリーは内村に十字架 のキリストにのみ全ての人の真の救いがあることを語るのです。この経験が内村にとって「新 生の出来事」となりました。内村はその日以来、自分の中にではなく、ただ十字架のキリスト の内にのみ救いの確かさがあるのだと目覚めるのです。  私たちの救いの確かさは、ただ私たちのために十字架にかかって下さった主イエス・キリス トにあるのです。そこで今朝の12節で「滅びの子だけが滅びました」と主が語っておられる のは、あのイスカリオテのユダのことです。私たちはユダの滅びについて、あるいはその滅び の彼方にさえ救いがあるのかについて云々することはできません。それは私たちには測り知ら れぬ神の奥義です。ただ私たちは今朝の12節の御言葉においてただ一つの事実のみを知りま す。それは主イエスがここで「わたしが彼らと一緒にいた間は、あなたからいただいた御名に よって彼らを守り、また保護して参りました」と父なる神に祈られ、さらに13節において「今 わたしはみもとに参ります。そして世にいる間にこれらのことを語るのは、わたしの喜びが彼 らのうちに満ちふれるためであります」と祈られたことです。この17章の全体が主イエスが 献げられた「決別の祈り」です。この祈りの直後には主はもう十字架を背負われてゴルゴタへ の道を歩んでおられるのです。私たちの果てしない「罪」がこの主イエスの祈りの中に現れて いるのです。そして同時に、そこには罪と死に勝利して下さったキリストの御業が輝いている のです。  つまり主イエス・キリストこそ、私たちの「恵みの選び」そのものなのです。神の恵みの選 びは十字架の主イエス・キリストにおいて私たちに実現したのです。十字架の主イエス・キリ ストは「滅びの子」の滅びを担われたかたであると同時に、選ばれた者の救いを現して下さっ たかたなのです。十字架の主において選びと棄却が同時になされているのです。御子イエス・ キリストの上にこそ、神はいっさいの選びと棄却とを置かれたのです。すなわちキリストは神 によって選ばれ、立てられ、世に遣わされた神の御子であられると同時に、神によって全ての 罪人の身代わりとなって審きを受け、滅びを担い、棄却せられた神の御子だからです。だから 大切なことはただ一つ、十字架の主イエス・キリストが、私たちのために死なれたという事実 のみです。永遠の神の御子がこの私のために、永遠の滅びをさえ担って下さったという事実で す。  ただその唯一の確かな事実、すなわち主イエス・キリストの福音へと今朝の御言葉は私たち を導くのです。十字架の主にのみ私たちの救いの確かさがあるのです。何よりも主は今朝の13 節で「今わたしはみもとに参ります」と言われます。この「みもとに参ります」とは、私たち のために十字架に死なれ葬られることです。それは「わたしの喜びが彼らのうちに満ちあふれ るためであります」と言われるのです。そしてこの「彼ら」とは私たち一人びとりのことです。 すなわち主は、私たちのために十字架に死なれ、墓に葬られたもうことによって、私たち全て の者に「わたしの喜び」すなわちキリストの喜びを「満ちあふれ」させて下さるのです。  京都に竜安寺という石庭で有名な寺院があります。築地塀で囲まれた幅22メートル奥行10 メートルという小さな枯山水の庭に、大小15個の石が置かれただけの質素な庭ですが、これ こそ日本最高の石庭であると言われているのです。ところが寺の人に聞きますと、そこに置か れている石というのは、そのあたりの河原に普通に転がっている変哲もない石だというのです。 それを誰かがたくさんの石の中から拾ってきて(選んで)その庭に置いたわけです。その瞬間 にそれはかけがえのない価値ある石に変わったのです。他の石に代えることができない唯一の 石になったのです。私たちもそれと同じではないでしょうか?。主なる神が御子イエス・キリ ストの十字架という尊い選びによって、何の変哲もない(どころか罪にまみれた)私たちを尊 いご用に召して下さったのです。神の喜びの庭に置いて下さったのです。その瞬間に、私たち の人生の意味そのものが変わったのです。「彼自身の罪でも、その親の罪でもない、ただ神の 御業が彼の上に現れるためである」と主が告げていて下さるのです。  今朝のエレミヤ書4章1節に「主は言われる、『イスラエルよ、もし、あなたが帰るならば、 わたしのもとに帰らねばならない』」とありました。私たち人間は、ただイエス・キリストに おいてまことの神に「帰る」者とされたのです。イエス・キリストはまさに「罪」によって神 の外に出てしまった私たちを救うために、ご自身が神の外に出て下さったのです。神なき者に なって下さったのです。永遠の神であられつつ、神であることを失いたもうたほどに、私たち を限りなく愛して下さったのです。  ただそのキリストの愛によってのみ、私たちは確かに「選ばれた」救いの民とされているの です。そして、この罪人のかしらなる自分をさえ救いたもうた神は、同じように他の人々をも 救いへと導いておられるのです。だからこのエレミヤ書の言葉は「あなたはわたしの所にしか 帰りえない」と訳すことができます。「あなたはわたしの所にしか帰ることはできない」。私た ちはただ神のみもとに帰るときにのみ、本当の喜びと平安があるのです。他のいかなるところ でもなく、ただ私たちの罪の贖い主なるキリストにのみ、私たちの帰るべき本当の神の家があ るのです。そして教会こそ、その神の家の地上における確かな現れなのです。