説    教    創世記28章13〜15節  ヨハネ福音書17章9〜10節

「祝福と平安」

2010・10・24(説教10431347)  私たち人間にとって、意識するにせよせざるにせよ、片時も忘れることはできない大きな 問題は「私はいったい何者であるか」という問題ではないでしょうか。さらに言うなら、自 分はいったい何のために生き、何のためにここに存在しているのか。どこから来てどこに向 かう存在なのか。まさにそのことこそ私たち人間にとって最重要問題であると言えるのです。 このテーマについて古来よりおびただしい思想家たちが様々な議論を繰広げてきました。そ こに無数の答えが出されました。ある意味では思想家の数だけ答えがあると言ってもよいの です。つまり「私はいったい何者であるか」という問いは、それが哲学的な問いである限り においては無邪気で無責任な問いにとどまるのです。どんな答えが現れたとしても、それは その人それぞれの考えかたなのだという結論になるほかないのです。  しかし私たちは、本当にそれで良いのでしょうか。「その人それぞれの考えかたなのだ」 というだけで私たちは本当に満足できるのでしょうか。そうではないと思うのです。なによ りもこの問いは、哲学的な無責任な問いである以前に、私たちの人生全体に重くのしかかる きわめて厳粛な問いだからです。私たちの人生は誰が何と言おうと一回かぎりの「かけがえ のないもの」なのです。やり直しのできない、リセットや巻き戻しの効かない「かけがえの ない」私たちの人生なのです。だからこそ私たちはこの問いへの答えを人間に委ねることは できない。生ける聖なる神の御言葉によってこそ本当の答えが与えられるのです。聖書の中 にこそ唯一の真の答えがあるのです。  われらの主イエス・キリストは、今朝の御言葉であるヨハネ伝17章9節10節において、 父なる神に対するひとつの願いを明らかにしておられます。まさにそこにこそ、私たちの問 いに対する確かなお答えがあるのです。それは「わたしは彼らのためにお願いします。わた しがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためで す」と主が祈られたことです。さらに10節を見ますと「わたしのものは皆あなたのもの、 あなたのものはわたしのものです。そして、わたしは彼らによって栄光を受けました」と祈 っておられることです。  これはどういう祈りなのでしょうか。何より私たちが不思議に思うことは、ここで主イエ スが「わたしがお願いするのは、この世のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者た ちのためです」と祈っておられることです。私たちは主イエス・キリストがまさに「この世 のために」来て下さったかたであることを知っています。それは疑う余地のないことです。 それではなぜ主はここに「そうではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのために」と祈 られたのでしょうか。その理由を知るために、私たちはまず「この世」と「(御父が主イエ スに)賜わった者たち」との違いを明確にしておかなくてはなりません。  そこで、主イエスは同じヨハネ伝15章18節において、弟子たちにこう語っておられます 「もしこの世があなたがたを憎むならば、あなたがたよりも先にわたしを憎んだことを、知 っておくがよい。もしあなたがたがこの世から出たものであったなら、この世は、あなたが たを自分のものとして愛したであろう。しかし、あなたがたはこの世のものではない。かえ って、わたしがあなたがたをこの世から選び出したのである」。この御言葉が大切なのは、 ここで主イエスみずからはっきり「この世」と「弟子たち」とを区別しておられることです。 弟子たち(私たち)のことを「あなたがたはこの世のものではない」(この世に所属する存 在ではない)と明らかにしておられることです。もちろん私たちは人間として肉体を持って 生きている限り「この世」と関わりを持たざるをえません。私たちの生活の場は「この世」 にあり、また「この世」なしに私たちの生活はありえないのです。しかし大切なことは、そ の私たちの存在の根拠「この世」にあるのか、それとも「この世」(この世界)をお造りに なった聖なる神にあるのか、ということではないでしょうか。  ひとつの譬えを用いるなら、こういうことになるでしょう。真暗な部屋の中にいる人には 自分の姿が見えません。外から光が与えられてはじめて自分の姿が見えるようになるのです。 それと同じように、私たちももただ「この世」に属して生きているだけでは自分の本当の姿 がわからないのです。自分以外の他者の姿も同じように見えないのです。それこそ「この世」 の外から「まことの光」が与えられて、はじめて自分も他人も見えるようになる私たちなの です。そこに人生の目的と意味もはじめて見えてくるのです。深い海の底に棲む深海魚は、 全く光のない世界に生きているので、ついに目が退化してしまいました。私たちのまなざし も「この世」に属しているかぎり、やがて退化して見えなくなってしまうのです。だからこ そ主イエスはヨハネ伝12章36節にこのようにおっしゃっておられます。「光のある間に、 光の子となるために、光を信じなさい」。  これはトルストイの小説の題名にもなっている有名な御言葉ですが、その本当の意味は、 死という闇があなたの存在を覆い包んであなたのまなざしを永遠に閉ざしてしまう前に、あ なたは救い主イエス・キリストを信じて教会に連なる者となりなさいということです。それ が「光のある間に、光の子となるために、光を信じなさい」と主が言われたことの意味です。 その福音は明確なのです。十字架の主イエス・キリストのみが、私たちを覆い囲む罪と死の 支配に永遠に勝利して下さった唯一の救い主だからです。讃美歌39番に歌われている信仰 こそ私たちの変らぬ信仰なのです。「十字架のくしき光、閉ずる目に仰がしめ、みさかえに 覚むるまで、主よともに宿りませ」。  私たちは「閉ずる」その目にさえ「十字架のくしき光」を仰ぐことを許されているのです。 私たちは生にも死にも臨終のきわにおいてさえ、ただ十字架の主の勝利の御手に支えられて いるのです。キリストは御自分の全てを私たちの罪と死の代償として献げたまい、その贖い の恵みをもって私たちを決して罪と死による支配を受けることのない者にして下さいまし た。御自身の愛する子(すなわちこの世から選ばれた者たち)として下さったのです。私た ちの人生において本当に大切なことは、このキリストの贖いの恵みの事実に生きることです。 この世界の矛盾や混乱は測り知れないものかありますが、それが私たちの人生の「主」では ありえない。私たちが求めて与えられた幸福や健康や財産も私たちの人生の「主」ではあり えない。ただ十字架の主イエス・キリストのみが、私たちの人生の真実なる唯一の「主」で あられるのです。  なぜなら、私たちはただ十字架の主の贖いの恵みにおいてのみ、あらゆる暗黒を照らす唯 一の「まことの光」を与えられているからです。たとえ死が私たちの目を永遠に「閉ざそう」 とするところにおいてさえ、私たちはその「主」の御手において「十字架のくしき光」を仰 ぎ主の御声をさやかに聴く者とされているのです。「子よ、しっかりせよ、汝の罪は赦され たり」との御声を聴く者とされているのです。「汝はわがものなり(あなたはわたしのもの である)」との主の御声を聴く者とされているのです。  だからこそ主は、十字架を目前とされた今朝の17章9節10節の祈りにおいて、私たちの 「人生の根源」を明確にしておられるのです。それこそ「彼らはあなたのものなのです」と いう9節の御言葉です。主イエスは十字架の贖いにより、神から離れていた私たちを父なる 神に立ち帰らせて下さいました。私たちもはや決して父なる神の御手から失われることのな いようにして下さったのです。罪と死の支配から私たちを贖い出し、父なる神の永遠の愛の 御支配のもとに移して下さったのです。だからこそ主は「わたしがお願いするのは、この世 のためにではなく、あなたがわたしに賜わった者たちのためです」と祈られたのです。この キリストの教会に連なって生きる者とされた私たちは、もはやこの世に自分の存在の根拠を 持つのではないのです。この世に人生の根拠を持つのではないのです。そうでなく、ただ神 の栄光の現れんがために、神みずから私たちを御子イエスによって選び祝福して下さったの です。  顧みて、現代というこの時代ほど「私はいったい何者であるか」という問いへの答えが混 乱している時代はないでしょう。千葉県のある駅で通りかかった人を見境なしに殺した青年 が「おれは自由だ、だからなにをしても良いんだ」と言ったと聞きました。これなど「私は いったい何者であるか」がわからなくなっている典型なのです。もさらに不幸なことは、そ の答えが与えられない時代だということです。現代は人間存在が恐ろしい勢いで破壊されて ゆく時代です。人間が人間であるための必要最小限のことさえ見失われてゆく時代です。こ の時代にあって、しかし私たちキリストの贖いに生きる者たちは、本当の答えを与えられて いるのではないでしょうか。それは「私はいったい何者であるか」その問いにたとえ私たち が(この世が)答えを持ちえなくても、主なる神が最も確かな答えを持っておられるという ことです。  それはイザヤ書43章1節「恐れるな、わたしはあなたをあがなった。わたしはあなたの 名を呼んだ。あなたはわたしのものだ」この確かな答えが十字架のキリストにより全ての人 に与えられているのです。私たちは言い知れぬ不安と混沌の時代にあって自分を支えるもの が何もないと感じているのですが、そうした時代にあってこそ主ははっきりと私たちに「わ れ汝を贖えり」と告げて下さる。今朝の御言葉で言うなら「あなたがわたしに賜わった者た ち」と呼んでいて下さるのです。私たちは「この世」に生きつつも「この世」に属する者で はなく「この世」の創造主なる神に選ばれ召され(呼ばれ)贖われた者たちなのです。  最近、ヘーゲルの宗教哲学を20年ぶりに熟読しまして、初めてわかったことがあります。 ずっと違和感があったのです。「これは聖書の福音から逸れている」という思いがあったの です。その理由がわかった。ヘーゲルによれば絶対的な主なる神はないのです。するとどう なるか。神の人間化、あるいは人間の神格化が起こるほかないのです。これが現代に至るま で続いている人間の問題の根本原因なのです。  人間は十字架の主イエス・キリストという揺るがぬ人生の基礎と導き(羅針盤)に根ざし てのみ、はじめて本当に幸いな歩みをなしうるのです。神の言葉によってのみ生きたものと なるのです。主のみが私たちの存在を祝福して下さり、生命を与え、導いて下さるからです。 主のみが私たちを「この世」からお選びになり「この世」へと遣わして下さるからです。そ こに私たちキリストに連なる者たちの平安と光栄と喜びがあります。私たちのこの朽ちるべ き身体(まさに「この世」の歩み)を通してキリストの愛と祝福が現される喜びです。使徒 パウロの語る「もはやわれ生くるにあらず。キリストわが内にありて御業をなせるなり」と いう幸いと平安にいつも生きる僕とされているのです。