説    教     詩篇55篇22節   ヨハネ福音書17章6〜8節

「主に委ねよ、重荷を」

2010・10・17(説教10421346)  今日与えられた旧約聖書・詩篇55篇22節に「汝の重荷をヱホバにゆだねよ、さらば汝をさ さへ給はん」とありました。原文のヘブライ語を直訳すれば「汝の重荷を主にゆだねよ、さら ば主が、なんじを必ず支えたまわん」という意味になります。どこまでも「主」が中心なので す。「主」が「必ず」あなたの重荷を引き受けて下さるのです。それが今朝の御言葉の福音で す。  実はこの詩篇55篇は、イスラエルの王ダビデがみずから犯した罪の重みによって人生の窮 地に陥り、絶望と悲嘆のどん底にあったとき歌われたものです。愛するわが子アブサロムにさ え反旗を翻され、支えも希望も何ひとつ無くなった悲しみと絶望の中でダビデは、ただわが 「主」まことの神のみが私の魂を重荷も含めて全て受け止めて下さる。苦悩に圧倒され滅びる ばかりの私を堅く支えて下さる。その神の恵みの御手にダビデは自分の全てを委ねているので す。  そこで、これは都合のよい生きかたでしょうか?。そもそも自分の罪の結果が招いた重荷で す。その重荷を「神に委ねる」とはご都合主義の勝手な生きかただと言えなくもありません。 自業自得とさえ言えるのです。しかし私たちにとって本当に救いが必要な「時」はまさにそう いう時ではないでしょうか。そこにしかダビデの、否、私たちの生きうる道はないのです。た だ神の憐れみのほか私の生きうる道なし、それは私たちも全く同じなのです。  そもそも私たち人間は、自分の罪の結果を自分で引き受けうけることができない存在なので す。自分で播いた種を自分で刈り取ることができない存在なのです。それができると思うのは、 まだ罪と人生について真剣に考えたことのない人です。ある意味でキリスト教は人間の力に徹 底的に絶望した宗教です。この世界の中に人間の救いはありえないことを見抜いているのが福 音です。言い換えるなら、聖書は人間と世界とをただ創造主なる神との関わりにおいてのみ見 ているのです。譬えて言うならそれは、山は私たちの目には実に大きく見えますが、地球全体 から見るならたとえヒマラヤ山脈もほとんど問題にならない小さな凹凸にすぎないのと似て います。私たち人間はたとえどんなに自分を大きく偉く見せようとしても、創造主なる神との 関わりにおいてはあくまで一個の罪人であり造られた被造物にすぎないのです。  それでは、ダビデはこの詩篇55篇で、人間は神の前につまらぬ無に等しい存在にすぎない と歌っているのでしょうか?。そうではないと思うのです。ダビデがここで歌っているのは、 この罪人のかしらであり、滅ぶべき者である私を、主なる神は御子イエス・キリストにおいて 徹底的に受け容れて下さった(救って下さった)という恵みの事実です。「汝の重荷を主に委 ねよ、さらば主、なんじを支えたまわん」これこそダビデが聴きとった福音の真実でした。だ からダビデがここに決意していることは「自分の重荷を全て主にゆだねる」ことです。それは ただ真の神のみがダビデをその存在の重みもろとも支えて下さる唯一の救い主だからです。そ れこそ御子イエス・キリストを世に賜いし神の恵みです。その独り子をさえ惜しまずして世に 与え給うた神が、どうして御子のみならず万物をも賜わらないであろうかとの確信です。  その「万物」とは何でしょうか?。それこそ「罪」の完き赦しと復活の永遠の生命なのです。 ご自身の御子をさえ私たちに賜わった真の神は測り知れぬ私たちの「罪」のどん底に完き赦し と復活の永遠の生命を与えて下さいました。その揺るぎなき証拠こそここに建てられたこの教 会でありこの礼拝の群れです。教会はキリストによる罪の赦しの福音が私たちの人生に注がれ るキリストの復活の御身体です。ここにおいて私たちは「子よ、汝の罪ゆるされたり」との御 声と共に「わたしはあなたを贖った。あなたはわたしのものである」との御声を主から戴く者 とされているのです。ダビデはキリスト以前の旧約の時代にこの救いの喜びを聴く者とされ、 讃美と感謝を歌い上げているのです。  さて、そこで今朝の新約聖書ヨハネ伝17章6から8節の御言葉です。ここで主イエス・キ リストは特に7節において「いま彼らは、わたしに賜わったものはすべて、あなたから出たも のであることを知りました」と語られました。この「彼ら」というのは十二弟子たちのことで す。主イエスがお選びになった弟子たちは主イエスが神から来られた御子であると知るように なった、それが「あなたから出たものであることを知りました」ということの意味です。  ところがここに不思議な御言葉があるのです。それは主イエスがこの7節において「わたし に賜わったものはすべて」と語っておられることです。つまり父なる神が御子イエスに「賜わ ったものはすべて、あなた(つまり父なる神)から出たものであることを」十二弟子たちは「知 る」に至ったのだと主イエスは言われるのです。これを感謝の祈り(決別の祈り)の言葉とな さるのです。それは具体的にどういう事柄を意味しているのでしょうか。父なる神が御子イエ スに「賜わったもの」とはいったい何でしょうか?。  それは第一に、主イエス・キリストを通して語られた神の御言葉、また主イエスによって世 に現された救いの御業のことなのです。たとえば同じヨハネ伝14章10節にはこのように語ら れています。「わたしがあなたがたに話している言葉は、自分から話しているのではない。父 がわたしのうちにおられて、みわざをなさっているのである」。私たちはこの御言葉だけを聴 いても、主イエスが真の神の御子であられることを充分に知るでしょう。ところが同じヨハネ 伝8章28節を見ますと、そこに私たちは思いがけない言葉に出会うのです。それは主が同じ 弟子たちに対して、ご自分が神から遣わされたキリストであるということは「あなたがたが人 の子を上げてしまった後はじめて、わたしがそういう者であること、また、わたしは自分から は何もせず、ただ父が教えて下さったままを話していたことが、わかってくるであろう」と語 られたことです。  つまり、主イエスは弟子たちにこう言われるのです。「あなたがたは私の十字架の死によっ てのみ、私を信じる者とされるであろう」と。それなら今朝の17章7節における「(弟子たち がキリストを)知った」とは、まだ知識であって信仰ではないということがわかります。弟子 たちはまだ今朝の御言葉ではイエスを救い主(キリスト)と告白してはいなかったのです。彼 らが主イエスを「知った」のはただ人間としてのイエスを「知った」にすぎないのです。  それでは私たちはどうでしょうか。私たちはいま本当にキリストを信じる者としてここに立 っているでしょうか。私たちはある意味でキリストの御手から、自分にとって良いもの。有益 なものを受けようと期待して集まっています。だからその反面私たちは、自分にとって損失と なり恥となるもの、苦労の種になるものをキリストの御手から受けようとしないのではないで しょうか。使徒パウロの言うように「われらはキリストのため、ただに彼を信ずるのみならず、 彼のために苦難を受くることをも恵みとして賜わっている」ことを私たちは拒否しているので はないでしょうか。もしもそうならば、私たちも今朝の弟子たちと同じように、キリストを人 間として「知って」いるだけで、救い主としては「知って」いないのです。  しかし、まさしくそこにこそ最も大きな福音の音信があります。それは、たとえ弟子である 私たちがキリストをなお信じておらず、罪の内にあったその時にさえ(私たちのキリスト理解 の如何にかかわらず)キリストは黙って私たちのためにあの呪いの十字架を背負って下さった という事実なのです。つまり今朝の御言葉において主が言われる「わたしに賜わった(父なる 神からの)ものすべて」とは何よりも、私たちのために担われた無条件の恵み、つまり十字架 の苦難と死と葬りをさしているのです。主イエスの御言葉もご生涯も、その全てが私たちの救 いのために献げられた贖い(代価)なのです。言い換えるなら、私たちが真にキリストを「知 る」とは、この十字架の主キリストの御業をそのままに信じることです。  主は十字架にかかりたもう前の晩、あのゲツセマネにおいて、血の汗を滴らせつつ祈られま した。「アバ、父よ、もしできますればこの杯をわたしから取り去りたまえ。しかしわたしの 思いではなく、ただあなたの御心のままになしたまえ」。そして主はその祈りのままに、天の 父なる神の御手から全ての苦難と死とを受けて下さったのでした。私たちの救いのために苦難 の杯を飲み尽くして下さったのです。まさにその十字架こそ今朝の御言葉で主が語られた「わ たしに賜わったものすべて」の内容なのです。主は本来は私たちが受けねばならなかった「罪」 の永遠の審きをご自身に引き受けて下さったのです。そのことによって私たちの罪は贖われた のです。  フランスの思想家パスカルが「パンセ」という本の中で次のように語っています。「われら の主イエス・キリストは、世の終わりに至るまで御苦しみのうちにありたもう。その間、われ らは眠ってはならない」。私たちの魂もまた弟子たちがゲツセマネの園で祈られる主イエスを 尻目に眠っていたように眠っていることはないでしょうか。私たちは主のかたわらで眠ってい てはなりません。目覚めていなくてはなりません。それはどういうことなのでしょうか。どの ようにすれば私たちは十字架の主と共に目覚めていることができるのでしょうか。  それこそ今朝の詩篇55篇22節に示されていることなのです。「汝の重荷を主にゆだねよ。 さらば主、なんじを支えたまわん」。ここではどこまでも「主」が中心だと申しました。言い 換えるなら、ここではもはや私たちの「重荷」さえも私たちの人生の中心であることを失うの です。私たちは重荷を負うとき、人生において思わぬ苦労や悲しみに出会うとき、その重荷に よって心と身体の全体が支配されてしまいます。寝ても覚めてもその重荷が苦しみとなり、そ の苦しみが私たちを縛り付けてしまうのです。そのような私たちに、いま十字架の主のみがは っきりと告げていて下さいます。「汝の重荷をわれにゆだねよ。さればわれ、汝を支えん」と!。 マタイ伝11章28節にもこう告げられています「すべて重荷を負うて苦労している者は、わた しのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」。  たとえ弟子たちが眠っている時でさえ、主は弟子たちのために目覚めて祈っていて下さった のです。それなら主の御前で眠らずに目覚めていることは、私たちが自分の人生の重荷を主に 委ねまつることでなくして何でしょうか。それは言い換えるなら、あの十字架において私たち の存在にまつわる「罪」の全ての重荷を背負って下さった主が、いつも永遠までも私たちと共 にいて下さるという事実です。私たちはその恵みに「アーメン」とお応えするのみなのです。 だからこそパスカルは「われらの主イエス・キリストは、世の終わりに至るまで御苦しみのう ちにありたもう」と語ったのです。世の終わりに至るまで、歴史の終末と完成の日に至るまで、 キリストは私たちの全存在を十字架において担い続けて下さるからです。  第一コリント書10章13節の御言葉を心にとめましょう。「あなたがたの会った試練で、世 の常でないものはない。神は真実である。あなたがたを耐えられないような試練に会わせるこ とはないばかりか、試練と同時に、それに耐えられるように、のがれる道も備えて下さるので ある」。この「のがれる道」とは何でしょうか?。これこそいつも主が共にいて下さる恵みで す。主は私たちが重荷を負うて苦しんでいる時にこそもっとも近く共にいて下さるのです。私 たちがその「重荷」によって潰れてしまうことがないように、私たちに「重荷」を主の御手に 委ねる幸いを与えて下さるのです。十字架の「主」をわが救い主と信じて生きるとき、私たち の人生は根本から新しくされてゆきます。キリストが私たちの「重荷」を最後まで担って下さ ることを知るからです。「重荷」を負う私たちをそのままキリストが担って下さる。そして永 遠の御国に至るまで守り支えて下さるのです。