説    教   詩篇30章4〜5節  ヨハネ福音書17章1〜5節

「永遠の生命とは」

2010・10・10(説教10411345)  ずいぶん長く信仰生活を続けている人でも、わかっているようで案外わかっていないことは 「永遠の生命とは何か」ということです。たしかに私たちは毎週の礼拝のたびごとに「われは、 聖なる公同の教会、聖徒の交わり、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず」と告白しています。 つい先ほどもそのように歌いました。しかしこの最後の「永遠の生命を信ず」とは具体的にど ういうことか、意外に多くのかたがよく理解していないのではないでしょうか。「永遠の生命」 とはいったい何でしょうか?。  まず多くの人が考えることは「永遠の生命」という言葉から、それは“不老不死”のことで はないかということです。キリスト教について余り知らない人はそのように考えることが多い ようです。肉体は死んでも魂は残る、というように漠然と考えていたりします。たとえば教会 で帰天者のために葬儀をしますと、そこに大勢の参列者が来会します。ほとんどが教会は初め てという人たちです。そこでよく訊かれることは「先生が今日の説教の中で語られた“永遠の 生命”とはどういうことですか?」という質問です。私はいつもできるだけ丁寧に聖書の御言 葉を示しながら質問に答えます。そういうことが契機となり教会に通うようになる人もいるの です。  そこで改めて思わされることは、案外ふだん礼拝に出席している信者の人たちのほうが、自 分勝手な思いこみだけで「永遠の生命」を理解しているのではないかということです。あるい は今さらそうした初歩的な質問はできないという思いがあるかもしれません。しかし「永遠の 生命とは何か」という問いは決して初歩的な質問などではないのです。むしろキリスト教信仰 の中心であり福音の要なのです。  何よりも今朝のヨハネ伝17章3節の中で主イエスは「永遠の命とは、唯一の、まことの神 でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります」 と語られました。このヨハネ伝17章は主イエスの最後の「決別の祈り」を記したところです が、この祈りの最初で主イエスはまず「永遠の生命とは何か」を明らかにしておられるのです。 言い換えるなら、ご自分が世に遣わされた理由はまさにその「永遠の生命」を世に与えるため であると明らかにしておられるのです。主イエスの祈りは簡潔かつ素朴であり、その全ては父 なる神の御心と一致していました。つまり主イエスの祈りは“福音の中心”を私たちに示すも のです。それならばその“福音の中心”の核心部分こそ「永遠の生命」であることを今朝の御 言葉は私たちに示しているのです。「永遠の生命」こそ福音の本質なのです。  さきほど教会の葬儀で経験することをお話しました。キリスト者でないかたを相手に「永遠 の生命」を語る場合、私はかならず今朝のこの17章3節を引用します。そうすると少なから ぬかたが意外な反応を示すのです。それは特に3節のいちばん終わりに「知る」という言葉が 出てくることです。「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたが つかわされたイエス・キリストとを知ることであります」。この「知る」という言葉に多くの 人が戸惑うようなのです。なぜかと申しますと「知る」ことと「永遠の生命」とは別のことな のではないのかと思われるらしいのです。みなさんはどうでしょうか?。たしかに「生命」と 「知る」こととは全く別のことのように聞こえます。「生命」とは具体的な事実であり「知る」 ことはその具体的な事実の中での経験である。つまり生命があってこそ「知る」のであって「知 る」ことが「永遠の生命」を与えるというのは矛盾していると考えるのです。  しかし実は、主イエスが言われた「知ること」とは「信じること」という意味なのです。で すから「唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリス トとを知ること」とは「父なる神と御子イエス・キリストを信じること」という意味なのです。 それならどうして主イエスは「信じること」と単純に言われず、あえて「知ること」と言い換 えられたのでしょうか?。やや踏みこんだことを申しますと、ギリシヤ語の原文ではこの「知 る」と訳された言葉は“ギノースコー”というのですが、それは特別な意味を持っているので す。ふつう私たちが誰かを知る、あるいは物を知るという場合、それはいつも自分の目や耳や 感覚を通じて「知ること」です。つまり自分の経験を基準にして私たちは物事を「知る」わけ です。しかしギリシヤ語の“ギノースコー”はそういうことではなく、むしろそこには“大切 なかたとの出会い”という恵みによる出会いの出来事があるのです。だからこれは新約聖書独 特の表現です。ある英語の聖書では“アクワイア”と訳されています。私たちの想いを超えた 真の知識という意味です。  私たちが父なる神と御子イエス・キリストとを「知ること」。それは私たちの思いや経験を 遥かに超えた恵みによる出来事なのです。まず主なる神が、私たちが罪の内にあったその時、 まず私たちのために御子キリストを世に賜わった。その神の測り知れない愛と犠牲の出来事が、 私たちのあらゆる思いや経験を超えた一方的な恵みとして世に与えられている。アクワイアさ れている。それがイエス・キリストの福音の音信なのです。だからキリスト教は“出会いの宗 教”と言われます。それは神がイエス・キリストという唯一の御人格によって私たちと出会わ れ、私たちを御国の民として下さったからです。私たちが求め続けて神を見つけたというので はない。ただ神が御子イエス・キリストによって私たちに出会って下さったのです。  それならば、その“出会い”を今あなたは「知る者となっているか?」と主は私たちに問う ておられるのです。父なる神と神が世に遣わされた御子イエス・キリストを「知ること」はキ リストと出会い、キリストを「わが主」と信じることです。それが「キリストを知ること」で あり「永遠の生命」そのものなのです。それは私たちの手の中にあったものではなく、私たち の内に潜んでいたものでもありません。肉体は死んでも魂は残るということではないのです。 神の前には肉体も魂も同じように滅びる私たちなのです。その私たちを肉体と魂の両方(から だ)ごと救って「永遠の生命」を与えて下さるのが十字架のキリストです。それは真の主なる 神からキリストを通して私たちに与えられた「救い」なのです。言い換えればキリストとの出 会いそのものが私たちの「救い」なのです。「永遠の生命」とはイエス・キリストとの出会い により、私たちが神との永遠の交わりの内に何の値もなくして招き入れられていることです。 それを保証するものが教会の礼拝なのです。  東京神学大学のある教授が求道者のためにキリスト教入門の本を書きました。その本のタイ トルは「キリスト入門」です。普通なら「キリスト教入門」と書くはずです。しかしその教授 はあくまで「キリスト入門」でなければならないと考えたのです。神は御子キリストによって のみ私たちと関わりを持たれ、ただキリストによってのみ私たちを救いたもうかただからです。 だから「永遠の生命」とは「キリスト教」をではなく「キリスト」を知ることにあるのです。 キリストにおいて真の神に出会うことが「永遠の生命」なのです。「永遠の命とは、唯一の、 まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることで あります」。「永遠の生命」とは主イエス・キリストにおける真の神との出会いそのものなので す。  そして端的に申しますなら、神は永遠にして聖なるかたですから、神がキリストにおいて私 たちに与えたもう生命もまた「永遠の生命」なのです。神は永遠の昔からあった三位一体なる 神の聖なる愛と交わりの生命の中に、キリストを「わが主」と信じる全ての者を教会を通して 招き入れて下さるのです。罪と死に支配されることのない本当の生命はキリストの愛の御手の 内にある生命だけです。キリストによって歴史の中に永遠が突入したのです。アダムによって 命の中に死が入りこみました。しかしキリストにおいて死の中に生命が入りこみ、生命が死を 呑み込んでしまったのです。  それは私たちの理解や経験を遥かに超えた神からの恵みの出来事です。イエス・キリストと いう唯一の救い「主」において私たちに出会い、私たちを捕らえてやまない神の御業です。だ からそれを私たちはあるがままに“アーメン”と告白するほかはないのです。あのクリスマス における処女マリアのように「わたしは主のはしためです。お言葉どおりこの身になりますよ うに」とお答えする以外にないのです。それがこの礼拝の姿です。私たちが献げているこの礼 拝はキリスト教についての講演会ではないのです。聖書を講義する場でもないのです。そうで はなく礼拝は御言葉と聖霊においていま現臨しておられるキリストに出会うことです。キリス トとの出会いによって「永遠の生命」が与えられていることです。主がなしたもう救いの御業 に新しくあずかる者とされ、キリストの内に自分を見出す私たちとされているのです。  だから使徒パウロは、コリント第一の手紙5章17節にこう語りました「だれでもキリスト にあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新 しくなったのである」。同じようにパウロは「たとえ私たちの内の古き人は滅びゆくとも、新 しき人は日々に新たである」と語っています。この「古き人」とは罪と死の支配のもとにあっ た私たちの古き「からだ」(肉体と魂)です。その私たちの「からだ」が今やキリスト・イエ スにおいて出会って下さった神の恵みによって根本から新しくされたのです。だから聖書が語 る「新しさ」は比較の問題ではありません。今は新しいけれど時とともに古びてしまうもので はないのです。十字架のキリストを「わが主・救い主」と信じて教会に連なる全ての人は、永 遠に変ることのない本当の「新しさ」を持つのです。キリストの生命に覆われているのです。  たとえ肉体は日々に衰え、病みかつ死に近づきましょうとも、キリストに贖われた私たちの 「からだ」存在と生活の全体は、決して古びることのない「新しさ」を持つものとされている のです。ある神学者はそのことを「過去からの解放」と語りました。「過去の徹底的な克服」 がそこにあるのです。過去の支配とは存在が罪の虚無に呑み込まれることです。それが「古き からだ」です。ヨハネ伝9章に出てくる「生まれつき目の不自由な人」がそうでした。世の人々 はみな彼のことを過去に支配された人だと言いました。弟子たちでさえ主イエスに「先生この 人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親です か」と訊ねたのです。  これに対して主は静かに毅然として答えたまいます。「本人が罪を犯したのでもなく、また その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが彼の上に現れるためである」。そして主は彼 に真のまなざし(神を見る信仰)を与えて下さいました。キリストとの出会いによって過去に 支配されていた彼の「からだ」は「新しい人」に変えられたのです。罪と死はもはや彼を支配 しえず、ただ神の御業が彼の「からだ」に現れるのです。主はいま私たちにも宣言して下さい ます「ただ神のみわざがあなたの上に現れるため」と!。そのために私は世に来たのだ。あな たの「古きからだ」は「神のみわざ」の前に砕かれ「新しき人」を着たのだ。主はいまそのよ うに私たちに言われ、私たちの目を開き、私たちを立ち上がらせ、主を讃美しつつ生きる者に して下さるのです。  それこそ私たち一人びとりにいま御言葉と聖霊により、生きてここに現臨しておられるイエ ス・キリストによって豊かに与えられている救いの出来事です。私たち一人びとりこそ、今こ こにおいて「永遠の生命」にあずかる者とされているのです。その生命に共に生かされ、新た な者とされているのです。キリストに結ばれ、キリストに贖われているのです。そこに私たち の尽きぬ慰めがあり、喜びと感謝と平安と希望があるのです。